飛び下りたアカの後を追うように――したいのは山山なのだが、あたし、レイディナ・ブリザディア・近衛は高所からの降下訓練など行っていないため、高さだけを確認してすぐさま、やや迂回する形で階段を降り、全力疾走で走り去るアカの背中を追いかけた。
 方向としては大外に向かっているのだろうか。平地である通路を走るのではなく、壁から壁への曲芸のような動きをする三次元的な逃走だったが、あたしは知識と体力を総動員して行く先を読みながら追い続ける。
 握りしめていたレッドを見て、時間を確認したいのだが、一瞬でも視線を切れば見失う可能性がある。だからあたしは胸のポケットに滑らせてボタンで閉じ込めた。
 たぶん、見失えば最後だ。それはここ三日間、アカが潜伏していて発見できなかった事実が証明している。瀬戸際の緊迫感を運動によって振り払い、あたしは全身を使って走った。

リイディ

くっ――

 背中が見える。
 それをアカだと確認しながらも、レッドが震えたような感覚があった。もしかしたら錯覚かもしれないが――しかし、あたしが追いつけるぎりぎりの速度で逃げて、いや移動しているのがわかってきたあたしは、妙にイラっとしていて、それどころではない。
 追いついてやろう、そう思って速度を上げても、路地を曲がる際には減速する必要があるため、過度な加速は無駄な行為だ。これが目的地を目指す移動ならばべつなのだけれど、追跡となると本当に、移動速度というのは難しくなる。
 そもそも、スフィアに頼っているエンジシニの人間では、追いつけるはずがない。二本の足で歩くことができるとはいえ、レベルが違い過ぎる。そうして考えれば、そもそも逃げに回ったアカを確保できる人間など、そうはいないのだ。
 どうだろう、十分は走らなかったと思う。周囲を見る余裕――というか、地形確認をしながらの移動だったが、あたしは人を探る余裕がなく、到着した場所に人気がないことはわかったけれど、ここまでくる過程まではわからない。
 いや、しかし、どのみちあたしはエンジシニの地図を頭に叩き込んでいるわけではないのだから、どこをどうやって移動してきて、到着したここがどこなのかも、わからない状態だ。
 ただ、ここが大外との境であることはわかった。壁を越えてはいなかったので、本来ならばゲートになっている部分なのだろうけれど、いつもいるはずの警備部の姿はない。
 こちらを――エンジシニを見ているアカは、口元だけに笑みを浮かべていた。

雨天紅音

ご苦労様。でも

 時間が足りなかったねと、そう言うアカの言葉を理解するため、久しぶりの急激な運動で上がった呼吸を整えたあたしは。

雨天紅音

もう、どうする、とは聞かないよ

リイディ

なにが、……!?

 鈍く、重い音色が足元にある空気を一気に吸い上げようとする一拍、だがすぐに這うよう波となって飛来したかと思えば、急激に強くなった風圧は一気に吸い込んだ空気を外へ放出する。
 あたしは、衣類が汚れるのも構わずに大地へと伏せた状態で、遠方における爆発の轟音を聴いた。
 とっさに耳を塞いでいたのにも関わらず、躰の芯ごと揺さぶって震わせる爆発音――。

雨天紅音

火薬の量まで計算はできないだろうね

リイディ

――

 背後からの声に、あたしは無防備にもアカに背中を見せていたことに気付いて飛び起き、やや離れるようにして視界からは外さず、胸元からレッドを取り出して一瞥する。
 そこには、警告文が表示されていた。
 生産区爆発開始までマイナス二十三秒、十二分後に管理区の爆発。緊急避難警告――。

リイディ

アカ、あんたは

 顔を上げれば、既に興味はないとばかりに、アカは森の方を見ながらも、全身から僅かに力を抜いていた。

雨天紅音

被害想定くらいはできるんじゃないかな

 現在地はわからないけれど、離れている距離もわからないけれど、それでも想像で補完したとして、あの爆風と音、重圧ならば――それはもう、一つや二つの建物が爆発した、などというレベルではない。隣接している住宅区であったところで、無事では済むまい。これだけの距離が空いていたのに、あたしが思わず伏せて対爆防御をしたくなったくらいなのだから。
 だからこれは、この事態は。

リイディ

アカ! 潜伏していた三日で、あんたは――

雨天紅音

余裕がなくなってるよリイディ。だいたい、そんなことを確認する必要があるとも思えないね

 今さら解除は無理だよと、アカは言う。

雨天紅音

避難警告を出したのは僕の優しさだ。けれどね、ここまで含めて、この結末までの道筋に至るまでの原因が、発端が僕であることを考えると、反吐が出るよ。自分で創った模型を壊しているような気分だ

リイディ

く、……!

 どうすればいい。
 観察者を気取って、こんな状況になるまで放置したあたしが、ここから何ができる? アカを取り押さえることができたとして、それで解決するのか? 今から中に入って住人を誘導したところで、あたしの――あたし個人の言葉に耳を傾けるだろうか。
 何か、できるかもしれない。一人くらい多く助けられるかもしれない。だが、そうしたところで、根本的な解決になるのか? あたしは、――くそう、あたしは。
 またこうやって、罪を背負うのか。

雨天紅音

遅すぎるよ、まったく

 その通りだと、あたしは足元に視線を落とす。

雨天紅音

最初に僕の顔を見た瞬間から、何の準備もさせずに、そうすべきだったんだ。後手にも程がある――けれど

 ……ん?
 おかしい、なんだかその言葉はあたしに向いていない。

雨天紅音

あなたに、撃てるのかな?

リイディ

――

 顔を上げて、振り向いてエンジシニを見て――あたしは、人の気配にも気づかないほど悔やんでいたのだと気付く。
 懐かしいものを持った伏見こゆきが、そこにはいた。黒色のそれを片手で持って、暗い銃口をアカへ向けていて。

伏見こゆき

撃ちます。……リイディ、少し離れていてください

雨天紅音

無理だよ

リイディ

ユキ、あんた……!

伏見こゆき

撃ちます。いえ、殺します。それが私の責任ですから

 覚悟のある目だ。おそらくユキは、本気で撃つつもりだ――けれど、同じくこちらを振り返ったアカは、余裕の表情だった。

雨天紅音

責任、ね……じゃあ、こゆきはその責任のために殺されても良いと、そう言うんだね

伏見こゆき

詭弁に付き合うつもりはありません

雨天紅音

弄しているわけではないさ、これは事実だ。こゆき、君は僕をここで殺して、事態を収拾できると、そんな能天気な空想をまさか、本気で考えているのかな? いや可能だよ、――最後に君は責任者として殺される責務を負えるのならば、ね

 だからもう一度訊こうと、改めてアカは言う。

雨天紅音

こゆき、責任のために殺せる君は、責任のために死ねるか?

伏見こゆき

――

 確かに……原因がアカであっても、実際に被害が出ている以上、エンジシニで生き残っている大半は、何故止められなかったのかと、責任者のユキに不満を抱き、怒りを向ける。その感情が振り切れれば間違いなく殺しにまで発展するだろうし、殺したりなければ暴動にもなる。
 責任を順守するのならば。
 遵守するのならば――ユキは、殺される責任も抱かなくては。

伏見こゆき

私は

雨天紅音

――できる、と断言したのならば、今ここで僕を殺す前に僕に殺されても、構わないと受け取るよ。はは、もっとも今の僕は全てを終わらせて、以上がない。どうだっていいのも事実だけれどね

 最高の殺し文句だ。この場合は、文字通りに。
 責任のために死ねるのならば、アカを殺す殺さないに限らず、ユキは死をここで抱く可能性を持つことになる。
 あたしは。
 ――どうすべきなんだ。ここでユキと一緒にアカを止める、あるいは殺す、べきなのか。

伏見こゆき

……私は

雨天紅音

とはいえだ

 最初から話をする気がないのか、アカは主導権を握るように言葉を打ち切って続ける。

雨天紅音

拳銃を使うのは初めてだろう? いくらシグだからとはいえ、女性が片腕で撃てるようなものじゃあない。両手で撃ったところで、狙いを外すのがおちだ。反動もあるし、筋を痛めるよ。せめて標的から三歩の距離にいないと、有効射程範囲とは言えないな

 それに、覚悟もあって殺す気ならば。
 ――どうして、声をかけられる前に、発砲しなかったのか。
 管理区方向から爆音が響き、鼓膜が揺れる。腰をやや低くしてあたしはどうにか耐えたが、ユキは地面に倒れて拳銃を握りしめ、呼吸を荒げていた。
 人を殺す――その行為は、簡単にできるものではない。責任で、命令で、だから仕方ないと言い訳をして、たとえば自分が死にたくないから、などと身近な理由を当てつけて、そうやって逃げ場を作っておかなければ、トリガーはどんどん重くなる。迷えば迷うほどに、その行為はできなくなる。
 それでも、逃げ場を作っても、――初めて人を殺せば必ず、自分自身を否定したかのような怖さを抱き、あたしも昼食を戻した覚えがある。
 それは一つの罪だ。
 ――ああ、そうか。
 アカを止めることが正しい行為だとわかっていて、それができない理由にようやく気付けた。
 あたしは、アカと同じなのだ。
 湯浅ではなく、ブリザディアとしての罪。
 このエンジシニを作り上げてしまった――そんな、罪。
 贖罪などしようもない、あるいは責任であり後悔。
 だからだ。
 エンジシニ自体を破壊する罪もまた、負うべきなのだと、心の隅であたしはずっと、アカの行為を肯定していたのだ。

伏見こゆき

私が……私がやらないと、いけない、のに……!

 ぽろぽろと涙を落とすユキに対し、アカは相変わらずで。

雨天紅音

誰に強制されたわけでもないのに、それを強制と思い込んで生きる姿は、それなりに美しくはあるけれど――やはり脆いな。まあ、僕がやることが完璧だなんて自信はないからね、止める方法もどこかにあるかも……

 ぱかん、と銃声がした。
 あたしは思わず背後に退いたが、逆にユキは顔を上げた。だが、ユキの手元にはまだ拳銃があって。
 アカの躰が衝撃に揺れる。一テンポ遅れて、鎖骨の下付近からじわりと血が滲んだ。

湯浅ふみ

――責任を取るのが親だってオチなら、まあいいだろう

 あたしの正面、アカの背後から、やや小柄な女性が拳銃を片手に顔を見せた。

雨天紅音

……遅すぎ、る。くだらない、話しだ

湯浅ふみ

そうかもしれないねえ

 二発目は腹部に。さすがに立っていられなくなったアカは、力なく顔から地面に落ちた。その際、渾身の力を込めて、持っていたレッドを破壊するため、自分のナイフを突き立てる。

湯浅ふみ

すまないねえ、こゆき。後のことは任せるんだ。責任を取って、殺されるのは私で充分さ。あんたはここから去りな、そして生きるんだ。……そっちの、ブリザディアの娘も、面倒は私に任せときな

伏見こゆき

母さん……

 伏見ふみ――いや、湯浅ふみ、か。
 彼女が、そうなのか。

湯浅ふみ

馬鹿なことは考えるんじゃないよ。あかの言う通り、――エンジシニは終いさ

 ユキの手から拳銃を取り上げ、それをあたしに放り投げる。そのままエンジシニの中へ行こうとしたため、あたしは一声をかけて手に持っていたレッドを投げ渡した。その表示を見た彼女は、やれやれと苦笑してから、ゆっくり歩いていく。
 小柄だ。背丈はあたしとそう変わらないのに――どうして、その背中はそんなに、強く見えるのだろう。
 あれが、大人の、責任を取る姿か。
 ――でも、あたしは。

リイディ

アカ……!

 あたしは走って近づき、傷口を見てからどうにか躰を反転させ、とりあえず銃弾が抜けていることを確認した。くそっ、出血が多い、大丈夫だろうか――いや間に合わなくたって、止血するしかない。
 レッドを壊していたナイフを抜いて、自分の衣類を切る。近くにあった木の棒を使って傷口やや上付近を強引に強く縛り、口元に手を当ててみるが呼吸はまだある……が、場所が悪すぎる。休ませることも、傷薬を探すことすらままならない。医療キットを取りに内部へ? 馬鹿な、そんな暇があるものか。

リイディ

く、……そう!

 傷口のない腕を背中側に回すようにして持ち上げるが、思ったよりも重い。
 でも。
 でも、あたしには、アカをこのまま見捨てるなんてこと、できやしないんだ。
 だって、アカはきっと、こうなることを見越して行動していたはずだから――だから、あたしは。

リイディ

思い通りになんて、させてやらねえよ……!

伏見こゆき

……どう、するの、ですか

 ふらりと立ち上がったユキが、あたしに問う。

伏見こゆき

私は……どうすれば、いいのですか……?

リイディ

知るか! ……責任じゃなく、責任者じゃなく、伏見こゆきが思うがままのことをすりゃいいだろ! 人はそうやって、間違いを犯して生きてくんだ!

伏見こゆき

……

 人の躰は重い。
 人を殺すよりも、よっぽど重いと思う。だが、まだ生きてるんだ、アカは生きてる。だったらまだ大丈夫、大丈夫なんだ。
 行こう。
 エンジシニから離れよう。
 あたしは、アカを生かしたい。
 誰がなんと言おうと、死んでしまったら何もかもが終わりなんだ。そんなこと、あたしは絶対に許さない。

伏見こゆき

……手伝い、ます

リイディ

それでいいのか?

伏見こゆき

……わかりません。でも、私は今、それくらいしか

リイディ

そうかい。だったら好きにしな

 何をするのか、何をしたいのかわからないのは、あたしだって同じだ。こんな状況で、混乱しない人間が、エンジシニなんて場所に住んでいたなんて、思えない。
 だから――行こう。
 もう何かを隠して、目を瞑って、視線を逸らして、罪を忘れる必要もない。
 あたしは――あたしだ。

伏見こゆき

森は、トラップが多く、あります

リイディ

アカめ、また面倒なことを……

 逆側をユキが支えてはいるものの、移動ペースは若干上がった程度だ。時間経過に比例してアカが死ぬ確率も高くなる。これをどうにかしない限り、手の打ちようがない。
 焦るな、と言い聞かせながら、あたしは奥歯を噛みしめながら歩く。そして。
 彼らが、こちらを発見した。

小里古宮

リイディ! 伏見さんも……それ、紅音、よね

リイディ

ミャア、ハル、答えを出せ。アカは撃たれて致命傷を負ってる。あたしは、アカを助ける。邪魔をすんなら、とっとと消えろ。下手をすりゃ、あたしがあんたらを殺すかもしれない。あたしは助けることしか頭にねえ。だから――

 できれば、そんなことはしたくないから、答えて欲しい。
 答えを出して欲しいのだ。
 自分がどうするのか、なんて。
 あちら側ではいつだって、当たり前のように考えていて、考えていることすら自覚せずに行えていて、――こちら側ではずっと、目を背けていた、そんなことを。
 始めるのだ。
 きっと、あたしたちもここから、始められる。
 ――エンジシニが終わる、その日から。

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