今すぐ、どこかへ逃げ出したい。
 恐怖に震える躰を治める方法など知らない私、小里古宮は、ただただ足を動かして、何も考えないようにして、ずっと正晴の傍から離れないことを意識の隅で思いながらも、話しをすることもなく、移動だけをしていた。

小里古宮

怖い――

 これは、今までにあった感情の中で最も強いものだと感じる。今までにないくらいに、と表現すべきかもしれないが、私は感情が高ぶるとほかに何も考えられなくなることを知った。途中、警備部に情報提供のため同行を請われたが、その際に混乱が発生したため、すぐに逃げ出したけれど、当時の状況も私はよくわかっていない。
 いや――それでも、鮮烈に印象付けたものがある。
 私はそこで、本物の、屍体と呼ばれるものを見たのだ。
 彼、いや彼女かもしれないその人物は、ただの肉塊だった。血の色が広がっていたのは覚えているし、ほかの場所からスフィアを使って転移した結果……のような話が出ていたような気もするけれど、私は恐怖に涙を流しながら、正晴に引っ張られるがままに逃げ出した。
 怖い、そんな感情が落ち着いてきた頃、ふいに視界が開けたかと思えば、そこには大外であり、開けたのは空間そのものではなく、私の意識が広くなったのだと気付くのに数秒を費やし、私は思わず正晴の衣服の裾を引っ張った。

小里古宮

待って――正晴

深井正晴

ん? どうした、疲れたか?

小里古宮

それもあるけど……ごめん、時間をくれないかな。まだ――エンジシニが見える場所で、考えたいの

深井正晴

……そうか、ようやく落ち着いたか。いいぜ、ここからなら、どこへでも逃げ込めるだろうし、どうやらこっちに手を割けるような状況じゃねえみたいだからな

 逃げる。

 逃げてきた。

 今もまだ、逃げている。

 私たちは並んで、気を背に腰をおろし、エンジシニの方向へと視線を向けて。

深井正晴

――怖いんだろ

 震える躰を両手で抱えても止まらない私の様子を見て、普段の調子で正晴が言うので、私は小さく頷いた。寒くて歯の根が合わないのとは違う、新鮮味がありながらも、どうしたって嫌だと思えてしまう、嫌悪が先行する震えだ。

深井正晴

こっち側じゃ、感情が振り切るなんてことは、まずねえしな。最初は不思議に思ったもんだが、それも悪くねえと――そんなことを思ったんだったか。随分と昔に感じるが……意識してなかったな

 こんな事態にならなきゃ忘れてたと、苦虫を噛み潰したような表情で正晴は言う。それを感じ取れた私は、ああ、確かに今は落ち着いているんだ――なんて自覚をする。

小里古宮

あっちじゃ、よくあったの?

深井正晴

いや、普通に暮らしてるぶんにゃ、そうそう遭遇するもんじゃねえよ。けどまあ、そういうことがあるってのを知ってたし、身近ではあったな。二十歳までには誰だって、一度くらいそういう経験をするもんだ

小里古宮

正晴も?

深井正晴

……俺は、――いや、そうだな。結局、紅音の野郎もそういうことが言いたかったんだろうな……

小里古宮

え?

深井正晴

逃げ出したことを自覚しなくなっちまったら、そいつはただの……いや、まあいいか

 ただの、なんだろうか。それを問おうとするよりも前に、ため息を落とした正晴が独り言のように呟く。

深井正晴

俺はな古宮、親父を殺したんだよ……いや、結果的にゃおふくろも殺したんだろうな

小里古宮

ころ、す……?

深井正晴

ああ、そうだよな、ここじゃ殺す殺され、死ぬ死なないってのが蓋の中に閉じ込められちまってる。――やっぱ、紅音が行動を起こす理由ってのは、そこなんだろ

小里古宮

どういうこと?

深井正晴

お前、自分が死ぬことを想像できるか?

 できるはずがない。それは、想像することすら困難だ。祖父がいなくなった時だって、ただいなくなっただけで、それが死ぬってことなんだとおぼろげに思ったけれども、それを目視したわけではない。もう逢えない、ただそれだけのことで。

深井正晴

屍体、見ただろ

小里古宮

見た

深井正晴

あれが人だ。いや、人だったものだ。人はいつか必ず死ぬ。死ぬからこそ、今を生きてんだよ。だから人を殺すってのは、いけないことだ。他人の人生をすべて、てめえの手で奪うってことだからな……

 なんとなく、しかわからない。今の私には、ただ、それを理解しようと努力することくらいがせいぜいだ。

深井正晴

親父は、目上の人間には弱い癖に、目下の人間には強く出るクソ野郎だった。いい加減頭にきてたし俺はこの年齢だ――家にゃあんま寄り付かなかったよ。ゲットーじゃよくある話だが、ピンとこねえか

小里古宮

うん。ただ、わからないけど、それを罰することがなかったんだね? そうやって生きていけた……ってことだよね

深井正晴

管理ってのはな、規模が大きくなればなるほど甘くなるものだ。エンジシニだって、せいぜいこの規模だから纏まってるだけだろ。――その日、ふらりと実家に戻った時に、親父がおふくろを殴ってた。床一面に血が飛び散ってたのは覚えてる

 血――。
 人の躰には血が流れている。それは知識としても知っていたし、月のもので見なれてはいたけれど、あれは。
 屍体の付随したあの血液は。
 まったく別物のように見えた。

深井正晴

そこで俺は感情が振り切れた。よく覚えてねえ――

小里古宮

今までの私がそうであったように?

深井正晴

――ただし、怖さじゃなく怒りだ。気付いた時、俺は死んだ親父の前に立っていた。おふくろも死んでいた。俺の手はな、皮膚が破れて骨が見えてたよ。そこまで徹底的に殴ってたらしい

小里古宮

それは……悪いこと?

深井正晴

そうだ、悪いことだ。どうであろうと人を殺すのは悪いことだろう。考えてもみろ、自分を殺されても良いなんて、そんなこと思いもしねえだろ?

小里古宮

あ……うん、そうね

 その力が私の方を向いたら、今のように逃げている。だからそれを他人に向けるなんてのはルール違反みたいなものだ。

深井正晴

それから刑務所の馬鹿にしこたま殴られて、まあどういうわけかブリザディアを経由してこっちに来たんだ。――逃げて、俺はずっと目を逸らしてきたんだよ

小里古宮

逃げるのは……駄目、かしら

深井正晴

状況によりけりだし、良い悪いってのは、どうなんだろうな。誰が決めるもんでもなし……ただな、目を逸らすってのは、卑怯だ。俺はそう痛感してる

小里古宮

卑怯……

深井正晴

罪ってのは罰せられるもんだろ。それに、俺がやったことだ。……マジで痛感するぜ。俺は忘れた振りをしながら、ただ覚えてて、覚えてるから良いなんて記憶の隅に放置したまま、目を背けてた、本当の卑怯モンだ――クソッタレ

 こんなもんが赦されるわけがねえと、正晴は吐き捨てた。

深井正晴

赦されねえだろ、そんなもんが許容される世界なんてよ。それに甘えてた俺は、最低だ

小里古宮

ごめん。何を言っていいのかわからない

深井正晴

いいさ、気にするな。大なり小なり、俺ら転移者には事情がある。その大半が俺みたいに逃げてきた連中ばかりだ。それが傷の舐め合いをするでもなし、平然と暮らせるなんて今までが、おかしかったんだよ。それこそ、気持ち悪いくらいにな

小里古宮

……紅音は、なにがしたいんだろ

深井正晴

怖いか?

小里古宮

うん、怖い。紅音は……私がまったく知らない人種だから

深井正晴

俺だって知らねえよ。ただ、紅音が湯浅あかなら、壊そうとしているのかもしれねえ――とは思う

小里古宮

……え?

深井正晴

俺が逃げて、目を背け続けられたのは、エンジシニがあったからだ。で、エンジシニを作ったのはブリザディアだとしても、根本になる転移装置を作ったのは湯浅って話なんだよ。だからアイツは――俺が痛感しているように、最初から、赦せなかったんだろ

小里古宮

正晴と同じように……ってこと?

深井正晴

似たようなもんだ。視点や意見は違うかもしれねえけど

小里古宮

そっか……

深井正晴

古宮はどうなんだ?

小里古宮

どうって、なにが

深井正晴

だから、――逃げてる俺たちが、ここで、こんな話をしてんのは、古宮が止めたからだぜ。その理由だよ

小里古宮

うん……なんか、まだ怖いんだけど

 怖い、そこに間違いはない。逃げているのも確かだ。
 けれど、私は覚えている。逃げている今を、そして――これからも、ずっと私は生きている限り、覚え続ける。

小里古宮

私、紅音と知り合ったし、リイディとは友達だし

深井正晴

俺は?

小里古宮

正晴もそうだけど……ともかくさ

 友達以上になりたいなあ、と思ったのは横に置いておこう。さすがにそんな余裕はないし、こういうところが臆病なんて言われる所以なんだろうけど。

小里古宮

リイディが何をしているのかは、まあ知らないけど、逃げ出したいくらい怖いけど……なんか、見てなくちゃと思って。紅音が何をしてて、何をやって、リイディがどうするのか。エンジシニがどうなるのか……これって我儘なのかな。こんなこと、今まで考えたこともなかったけど

深井正晴

どっちかって言えば、我儘かもな。でも、そんなのは当たり前だぜ? 俺はそれで良いと思うし……ああ、そうか。エンジシニじゃそういうことも、あんまりねえのか。ただ流されるだけで、管理課の示す道に従うだけで、大抵のもんは解決だ。それも紅音の影響ってんなら、まあ、悪くはねえだろ

小里古宮

そう、かな

深井正晴

他人を強引に巻き込まなけりゃな。ちなみに――俺もその意見には賛成だ。どうなるかはわからねえけど、ここから見届けるってのも悪くはな……ん?

小里古宮

どうしたの?

 誰か来る、と短く言って僅かに腰を浮かせた正晴に続き私も立ち上がるが、すると確かに足音が聞こえる。隠れるべきかとも思ったが、それよりも早く森から姿を見せたのは。

小里古宮

――伏見さん?

伏見こゆき

ああ、小里さん……と、深井さんですか

 あちこちに生傷を作って、こちらの姿を発見してどこか安堵したように肩から力を抜いた伏見こゆきは、失礼と言って近くに崩れるよう座り込んだ。よく見れば汗も流れており、疲労もある。

伏見こゆき

ここは、エンジシニに――ああ、目視できました。失礼、戻ってこられたようです

深井正晴

――どうかしたのか

伏見こゆき

その前に、……エンジシニでは何が起きていますか。私が出た時にはまだ規則があったので、レッドも置いてきたままなのです

小里古宮

私たちが知ってる範囲なら……えっと

深井正晴

そうだな、俺が話す。今日になって紅音が動いて、あちこちに被害が出てる。二度ほど爆発みてえな音は聴いたが、被害箇所は知らない。管理課と警備部が総出で慌ただしくしてるが、何が起きてるかまでは……わからん。それと、スフィアを使った警備部の一人が死んだ。戻るつもりなら、スフィアは使わない方がいい

伏見こゆき

酷い状況でしたか?

深井正晴

……ああ、見るに堪えなかった

伏見こゆき

以前あったものと同一ならば、おそらく転移の失敗でしょう。……レッドシステムを開発したのが湯浅あかだと知っていたのならば、もっと早くに手を打てたのでしょうけれど、悔いても仕方ありません。一般の方に被害は?

深井正晴

ない――とは、思う。混乱はしてたが、悪いな。俺たちはあそこから逃げてきたんだ。途中でレッドは捨てたし、スフィアも使わなかった。……紅音に忠告されたからな

伏見こゆき

そうですか。その判断がどうであれ、私には責める権利などありません

小里古宮

伏見さんはなにを?

伏見こゆき

……この奥に、私の母が棲んでいます。伏見ふみ、以前は

深井正晴

湯浅ふみ、か。紅音からそれとなく聞いたよ

伏見こゆき

そうですか

小里古宮

――あ、もしかして以前に紅音が大外に出た時って

伏見こゆき

ええ、母に逢っていたようです。私は湯浅あかの妹になりますから、彼にとっても母親で間違いはありません。もっとも、それを自覚していながらも、他人として接していたようだと母からは聞きましたが……さすがに、彼のことをよく知っていました。準備は最大効率を求めて、行動は早い。それでいて最大効果を出す……まさに、現状を示しているかのようです

小里古宮

じゃあ、紅音の目的も聞いたの?

伏見こゆき

それは、――わからないと、そう返答をもらいました。記章をどうにかする、ということすら、あるいはただの方便かもしれないと

 そうか。

小里古宮

やっぱり私は――知りたいと思っているんだ

 わからない紅音を、それについて行ったリイディを、わからないままではいたくないと。

深井正晴

にしちゃあ疲れてるじゃねえか。かなり奥なのか?

伏見こゆき

距離としては一時間ほどで到着するのですが……慣れないことをしたのもあります。しかし、普段ならば母に保護を求めることを勧めたかもしれませんが、――この先は一帯がトラップ地帯になっています。お蔭でかなりの遠回りをして体力を浪費しました。知識だけでは、どうにもなりませんね

深井正晴

トラップって……やっぱ紅音かよ

伏見こゆき

ええ――彼はあちら側で軍人だったのではないかと、そんな情報もあったようです。確証はありませんが、お二人も森へ入るのならば注意してください

小里古宮

あの時よね……

深井正晴

ああ。俺らが撒かれてから、こっちに戻るまで時間があったんだろ。けど、そんな荷物持ってなかった気がするぜ

伏見こゆき

ほとんど自然にあったものを流用した形のトラップです。母の端末にも時限式のウイルスが仕込まれており、普段なら秘匿回線で連絡もできたのですが、こうして直接足を運ぶしかなかったのですが……もしかしたら

小里古宮

もしかして、紅音はそこまで見越してた?

深井正晴

頭の回りが良すぎるぜ。どこの探偵、いや、――どこの犯罪者だって話だ

 ああ、確かに、そうだ。
 小説の中に登場する、事件を解決する探偵よりも、むしろ探偵を翻弄する犯罪者の位置に近い。
 残念ながらこれは、現実だけれど。

深井正晴

――なあ伏見さん、一つ訊いていいか

伏見こゆき

なんでしょう

深井正晴

あ、いや……

 なにを、言い澱んだのだろう。視線を逸らした正晴はゆっくりと腰を下ろしてエンジシニを見る。だから。

小里古宮

伏見さん、あの、お母さんの話とか……そういうの、私たちに話してもよかったの?

伏見こゆき

そう、ですね……普段ならば話さなかったと思います。ただ、小里さんや深井さんは、もう当事者です。ここから先がどうなるかはわかりませんが、どうであれ私は、あなたがたの行動を認め――失礼、そうではありませんね。尊重する……と、言えばいいのでしょうか。私もエンジシニ以外の生活など考えられませんが、それを求めるのならば、止める資格などありません

小里古宮

え……と、そこまで具体的に何かを考えてるわけじゃないし、私はただ……逃げてる、だけで

伏見こゆき

悪いことではありません。――けれど、私には責任があります。エンジシニの管理課責任者としての責務は、果たさなければ

 待てよと、そう言って――疲れた躰にむちを打って立ち上がろうとする伏見を、正晴は制止した。
 それから、やや逡巡してから、――言う。

深井正晴

伏見さん、あんたに……あんたに、紅音が止められるのか

伏見こゆき

――

 反射的に口を開こうとした彼女は、そこから言葉を出すことなく口を閉じ、次の言葉を封じた。
 止められるのか。
 もう、私には無理だ。きっと正晴でも無理だろう。付き合わせてしまったのもあるけれど、私も正晴も、紅音から逃げてきたようなものだから。

伏見こゆき

……それでも、私は止めなくてはなりません

深井正晴

責任があるから、か?

伏見こゆき

そうです。私は、――彼を殺してでも止めます

 よくねえなと、正晴は小さくつぶやいて視線を逸らした。

深井正晴

俺は後悔を背負ってる。いつだって、後悔したくねえと思って生きてきた。けど、やっぱり今になって、また後悔してる馬鹿だ。あの時こうしていたら、そんな――たらればを何度繰り返したのかも、覚えていない

 私は臆病で、ずっと誰かに踏み込むことを恐れていた。覚えろという言葉だけを、教えられたがままに鵜呑みにして、覚えることに種類があることなんて、今の今まで疑いもしなかった。

深井正晴

もう後悔なんてしたくねえ、そう思ったことも数知れずだ

 忘れてない、それがどれほどの欺瞞なのかを、私は知ってしまったから、己の行動が途端に怖くなった。

深井正晴

俺は

 私は。

深井正晴

――何をしたって後悔ばっかするんだろうなあ

 私はきっと、自分の行動そのものが紅音によって、まるでなかったかのように、否定されたようで、何もかもがないようで――私自身すらあいまいで、だからこそ怖かったのだ。

深井正晴

だから、俺はもう何も言えねえよ。殺すなとも、殺せるのかとも言えねえ。あんたが責任ってのを感じてるなら、――何もできねえ。無力だな俺は……こいつも、後悔か

 それを聞いて、伏見は深呼吸をするように呼吸を整えてから、一歩を踏み出した。

伏見こゆき

――それでも、そうであっても、立ち止まらないでください。後悔を続けても進んでください。私が言えるのはそれだけです

 そんな言葉を残して、彼女は渦中へ飛び込んで行く。それはきっと勇気のある行動だし、私のような臆病者には、どこか眩しくも写った。

深井正晴

でもな……

 それでも私は、やれることがないかもしれないけど、間違っているかもしれないけど、生きようと漠然に思ったのだが、しかし、正晴は言う。
 伏見がいなくなってから呟かれたその言葉は、私にはまだよくわからないことだったけれど。
 耳から飛び込んだそれを、私はしばらく忘れられなくなる。

深井正晴

責任って言葉に逃げるようなあんたじゃ、紅音を殺せはしねえよ

pagetop