第三幕

木造一階建ての、小さなあばら家。

あちこち隙間だらけ。

そこから入り込む風には、かすかに潮の匂いが混じる。
が、ヒビの入った窓の向こうのどこにも、海は見えない。

zzzzz

板間に敷いた布団の中、気持ちよさげに眠っているタカ。

玄関の引き戸が開き、ナミが帰ってくる。
その手には、魚介類がいっぱいに詰まった網。

おやおや、とんだ寝坊助だね

目をこすりながら、起き上がるタカ。

ん、う~ん…………今、何時?

太陽が笑う時間だよ

いけない、寝過ごした

ゆうべも遅かったみたいだね?

みんなが送別会を開いてくれて。
つい呑みすぎたんだ

宇宙に行ったら当分会えないものね。
でも呑みすぎはダメだよ

俺の送別会で、酒を避けたら無粋だろ。

それに昨日のお酒は、別れを楽しくコーティングする潤滑油だった

油を呑んだのかい?

今のは宇宙的比喩さ。
呑まない母さんには、ピンとこないかもしれないけど

ああ、これ以上、人生のピントをずらしたくないもの

母さん?

なんでもない。
とにかくあたしは呑まない。
海女(あま)が酔うことはない。ただ波間に漂うだけさ

でも酒で語れることもあるんだよ

アルコールの言葉は自分に溺れるよ。それこそ海女にはご法度だ

会話は弾むだろ

今日の“貝は”、サザエとホタテが弾むように採れたけどねえ

そういうことじゃなくて――

私はおまえに、海で採れる言葉しか教えなかったのに

でも母さん、ウニやカニで愛は語れないだろ?

ナマコとアワビなんてどうだい?
どエロい愛が語れそうじゃないか

もっとストレートに語りたいんだよ

ニコリと笑うナミ。

――好きなひとがいるのかい?

え?

母さん、気づいていたよ。
おまえは昔から、ハマグリみたいに隠し事が苦手だからね

うん、その比喩はよくわからない

どんな娘さんだい?

じつはね

うん

文通してる

…………家の隙間から、古風が吹き込んできちまったよ

宇宙開発の最先端技術に囲まれてると、そんな風(かぜ)にも当たりたくなるんだよ

それにしても、宇宙に行こうって子が文通なんてねえ

それに、手紙には宇宙がある。言葉の星座が輝いている

宇宙じゃなくて、夢中になってるだけさ、相手の娘さんに

茶化さないでくれよ

茶化してないよ。

ただ、夢中は夢の中。まどろみを癖にしてはいけないよ

それってどういう意味?

さあね、聞き流しておくれ。
川のように流れて産まれたおまえには、そのくらい朝飯前だろ?

母さん

冗談だよ。
私に宇宙も夢中もわかるわけないじゃないか

海女には海がすべて。
私の子もそうだと思っていたんだけどねえ

でも俺は母さんの子なのに、海に一度も行ったことがない

そう……だったかねえ

そうだよ。幼い頃からの母さんの言いつけだから。約束だから

海は絶対立ち入り禁止。
近視の心じゃ、遠い海原(うなばら)は見えやしない

おまえは広い、どこまでも広い宇宙を目指す子だからね。
海を見せても、その狭さにがっかりすると思うんだよ

そんなことはない。
母さんの愛する海を、俺だって見たいんだ

そうだね……いつか

いつかっていつ?

ふふ、焦らなくっていいんだよ。
宇宙に行こうが、どこに行こうが、
ひとは皆、最後は海に帰っていくんだから

海に?

そうさ。父親のいないおまえはなおさら、ね

父親なんて関係ないだろ

親を失った子は、みんな海の子なのさ

俺の親は母さんじゃないか。
海に育てられた覚えはないよ

そういうの、なんて言うか知ってるかい?

親の心、子知らず……知らず…………お昼はしらす御飯にでもしようかね

俺は母さんの子だよね?
海原(うなばら)じゃなく、母さんの腹から産まれたんだよね?

わずかな沈黙のあと、ナミはタカに背を向ける。

……さ、漁に出ようかね

海から戻ってきたばかりじゃないか?

今は稼ぎ時だからね。
水温が陸の空気よりも優しいんだよ

でも待って。
もう少し話そう。宇宙に旅立ったら、しばらく顔を合わせることもないんだし

…………宇宙って無重力なんだろ?
なんだか海の中と似ているねえ。ふわりふわりと、誰かに抱かれてるみたいでさ

母さん?

母さん、思うんだよ。
おまえが宇宙に飛んでったら、私は海に潜ればいい

ふわりふわりと、想いが泡(あぶく)になって、無重力のおまえに届くんじゃないかって

そんな奇跡なんて――

いいや、おまえを心から想う誰かの泡(あぶく)は、きっと宇宙なんて越えちまう

だから、タカ。
空気のない宇宙で、もし危なくなったら、
どうかその泡(あぶく)を吸っておくれ。
胸いっぱい、心いっぱいに

玄関の引き戸を開けるナミ。

そのナミの背を見つめながら、タカがポツリとつぶやく。

なにがあっても、心にブラックホールを作らずにすむかな

…………おまえは私が産んだ強い子だ。
お腹を痛めて、痛めて、その痛みの中で愛した子だよ

だからきっと大丈夫。どんな絶望の痛みにだって、私の子は負けやしないのさ

安堵の笑みを浮かべるタカ。

その言葉を聞けてよかったよ、母さん

…………じゃあ私はもうひと潜りしてくるよ。

お昼は先に食べてていいからね

ナミが出ていくと、かすかに潮騒が聞こえてくる。

☆ ☆ ☆

家の中、板間に置いた文机で手紙を書いているタカ。

書き連ねる文字は想いを宿し、文章は身体を巡り、口から零れ落ちていく。

“――拝啓、潮騒は、かなた遠くにありて、夢の満ち引きを繰り返します”

“暁の水平線は千の夜明けを越え、線と千で、明けない夜に宣戦布告します。

ああ、今日もまた太陽が地球の肌を滑るのです。なめるのです”

“けれど…………けれどあの日から六泊と七日――。

その折り目正しき六泊と七日の間……母さんは静かに、海に潜り続けました”

家の隙間から入り込む、古風と潮風。

手紙に宿した言葉はそれに乗って、宛名のひとへ運ばれていく。
言の葉、ひらひら、あのひとの心へ、と。

“――六泊と七日?”

ほのかに甘いそよ風に乗って返事が来る。
若葉のような言の葉は、若い女の声。

それに応えながら、タカは手紙を書き続ける。

“ええ、六泊と七日。
それ以上でも以下でもなく……。

これは風の噂で聞いたのですが、そのときの海原(うなばら)は、泣いたみたいに凪いだ海でした”

“あなたのお母さんは、涙の波に揺られていたの?”

“風の噂が母さんの声を届けてくれました。

母さんは涙の波にたゆたいながら、それでも哀しくはなかったそうです”

“お母さんは戻って来られたの?”

“七日目の朝。
ようやく生命の進化を言祝(ことほ)ぐように、陸への一歩に踏み切ったそうです”

“その一歩は右足? それとも左足?”

“カモメにうながされ、左足。

そして……”

“そして?”

“そしてその手には網いっぱいの――”

“海の幸?”

“睡眠時間”

“え?”

“大海原で泳ぎながら、母さんは眠っていた。
スイミングしながら睡眠していた”

“それは渾身のネタかしら?”

“ネタではなく、本当に寝たままだった。

母さんの網にはウニやアワビはひとつもなく、
万物創生が叶うほどの新鮮で神々しい睡眠時間――それだけが、いっぱいに詰まっていた”

“まるで神様のまどろみね”

“もしそうなら、そのまどろみの中で、なにを創りだしたのだろう?”

“――わからないわ。手紙だけじゃわからないことだってあるもの”

“なら、会おう”

“会う? あなたと私が?”

“君に会いたい”

“そんなの……ダメ”

“どうして?”

“古風に吹かれる幸せが終わってしまうわ”

“それなら新風(しんぷう)の幸せをはじめよう。

心地いい新風は神父のように、俺たちを祝福してくれるはずだから”

“それって、私に新婦になってほしいってこと?”

“え?”

“ごめんなさいっ。
私の勘違いね、きっと。手紙だとニュアンスが伝わらないことがあるから”

“やっぱり会おう。
会って君に直接言いたいんだ……――勘違いじゃないって”

“………………”

沈黙が風の音を際立たせる。
ふたりの間に吹くそれは、古風か新風か。

やがて――。

“――拝啓、文通をはじめて、もうすぐ一年ですね”

“どうして急にあらたまるの?”

“だってこれが最後の手紙だから”

“え?”

“だってそうでしょう?
これから私たち、言葉を交わしたいときにはいつだって、会って話せるのだから”

“それってつまり……”

“今だけは手紙でよかったと思うわ。
真っ赤になった顔を、見られなくてすむのだもの”

ありがとう。とてもうれしい”

“こちらこそ、ありがとう”

“きっと気持ちのいい風が吹く、素敵な出会いになりますね”

“新風を書き損じて神父に、また間違えて新婦に、またまた間違えて新譜になりました。

でもこれでいいと思いました”

“新譜はシンプルで優しいメロディーとなって、ふたりの出会いを奏でます。

本当に会えるのが楽しみです。

             ――かしこ”

ふたりの言の葉をそよがす風の音。
今それは音楽となって、遠くの潮騒と混じりあう。

☆ ☆ ☆

街角に立っているタカ。
そわそわした様子で、雑踏に視線を巡らしている。

今日は文通相手の彼女とはじめて会う日だ。

平常心、平常心。
初対面でみっともないところは見せられない

きょろきょろと辺りを見回していると、こちらに近づいてくる女性がひとり。

………………

意を決して声をかけるタカ。

実際に会うのははじめまして!
タカです!

??????

不審そうにタカを一瞥し、足早に去っていく女性。

……違ったか

べつの女性がこちらに歩いてくる。

………………

今度こそはと思い、女性の前に立つタカ。

会えてよかった! タカです!(ババーン!!)

!?――いやあ~!!

おびえた表情で逃げていく女性。

違ったか…………しかも謎の効果音で驚かせてしまった、ごめんなさい

またべつの女性が近づいてくる。

………………

俺があなたのタカです!

呪われろ

蔑視で応え、去っていく女性。

また違った…………そして呪われてしまった

そこに四人目の女性が。

………………

…………ちょっとすごいの来ちゃった

それでも出会いの喜びが勝り、両腕を広げたタカは、笑顔で彼女を迎えようとする。

タカです! いつでもドーンと君を受けとめたい!!

と、女性に突き飛ばされるタカ。

あたいに声かけるなんて、千年早いのよ!

肩を怒らせて去っていく女性。

受けとめられるわけがなかった…………そして千年後は俺、間違いなく死んでるな

やれやれとため息をついたとき――。

!?

タカと背中合わせに立つ女性。

――拝啓、お元気ですか?

タカの文通相手の女性――サキだ。

はい…………はい元気です! 君に会えたから!

振り返ろうとするタカ。

しかしサキは、タカに背中をピタリと添わせたまま、首を振る。

そのまま。どうかそのままで

どうして?

あなたの背中が、あなたの手紙のように温かいから

君が……――サキさんだね

ええ、あなたがタカさんなのね

ああ。
サキさんの背中も、手紙の微熱のように温かい

その微熱が、文通の思い出を花開かせる。
手紙の言の葉を、花へと変える

手紙の種から咲いた花。
その花言葉は――

ふたり「私はあなたが好き」

今ならわかる

ええ、出会いは言葉を交わすことじゃなく

想いの温かさを伝えること

その想いを胸に、昨晩、私はあなたの手紙を読み返していたの

俺も読み返していた。
一年間のやりとりを

すべてが愛おしく、忘れられない手紙だけれど…………

なにかを思い出すように、遠い目をするサキ。

大切な手紙の束の中、世をたばかる少年の話が、心をわずかに波立たせるの

もちろん覚えている。

五月雨(さみだれ)の夕べに交わした手紙だ

幼い私に――

幼い俺に――

ふたり「誰かが子守唄代わりに語った、お伽噺」

世をたばかる少年の、喜劇のような、ばかげた悲劇

そう、“たばかる”少年の中の二文字――“ばか”が罪を犯してしまう話

名もなき辺境に住む、名もなき羊飼いの少年の話

狼が来たぞ、狼が来たぞ……――と、村人に嘘を蔓延させる話

いつしか誰もが、少年を信じなくなる話

ある日、嘘が真実(まこと)になり――

狼が来たぞ、狼が!…………。

けれど誰も信じようとせず、助けようとせず――

むしゃむしゃと、少年は狼に“皮”と“肉”をむさぼられ――

“皮肉”な運命を泣き笑いながら――

すでに彼自身が、嘘になっていた話

嘘の少年が、嘘に食べられる――

タカとサキの声が重なり、愁いを帯び、空の彼方へ解き放たれる。

「そんな、嘘と、嘘みたいな大嘘の物語」

街の埃をさらう風は、かすかに黄色く見える。

つづく

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