記章なんてものは見つけることができない――それが僕、湯浅あかの出した結論だった。
 あれこれ探ってはいたし、あれだけ存在を誇張していながらも、少なくとも存在していたところで僕には発見できないだろう確信を得た。こればかりは、見つからないといって、どうでもいいと、そうやって切り捨てたわけではない。もちろん、このエンジシニの状況そのものに対する否定が強く、二の次だったのは確かだけれど。

 その確信を得たのは、地下を探っていた時のことである。

 あれからまだ丸一日程度。改良したレッドはきちんと作動していて、居場所を突き止められることもなく、僕はそれなりに自由を謳歌していた。食事は飲食店で可能であるし、休むのには生産区にある工場の、人を使わない自動化された区画に潜り込めば、足を伸ばして眠れる。最低限これだけあれば、僕は生きていけるし、それ以上は望まない。
 では何故、地下など探っているのかと言われれば、エンジシニの地図は入手できているものの、工事の基礎や地下情報までは、そもそもデータが存在しなかったからだ。
 匍匐で進まなくては頭が当たり、口にはライトを咥え、両足で床を蹴るようにして進む。たまに止まって端末で地図を表示させ、現在位置を確認する――侵入口は適当なダクトだが、目指しているのは中央、つまり管理区の真下だ。
 狭い場所は、閉塞感からあまり良い想像が浮かばない。たとえば、労力が途中で尽きたら戻れもしないし、出口がなかったら戻らなくてはならない。躰は固まってしまうし、そもそも天井が崩れたら死亡は確定してしまう――なんて、そんなことを考えてしまうのが一般的だ。
 不安はある。けれどそれ以上に、この空間の中では敵も出てこないのだと考えれば、それなりに安心する。あとは忍耐力の問題だろう。そのあたりは訓練で培っているので、問題はない。
 ほぼ半日以上をかけて地下を進行しているものの、まるで床下のように狭く、何かがある痕跡はない。僕の服は埃で汚れるばかりだ。

 さて、しかし――それにしたって。

 僕の目的、つまりエンジシニと呼ばれる施設を壊すのには、さすがに手持ちのカードじゃ難しい。できれば人的被害を極力出さずに、施設そのものだけを破壊したいのだが、そのあたりも妥協が必要か。

 これは。

 こゆきに倣えば、僕の責任だ。

 正晴に倣えば、僕の後悔だ。

 リイディに倣えば、僕の罪で。

 古宮に倣えば、記憶を持つ僕がやらなくてはならないこと。

 僕の、目的だ。

 そんなことを考えていたからか、右手がかしゃりと音を立てたのに驚き、地雷を踏んでしまった瞬間のことが脳裏に浮かんだため、額にぶわっと汗がにじみ出るが、鼓動までは早くならない。そんな動揺よりも真っ先に確認だと、ライトを向ければ、そこには、フィルムのようなものがあった。
 まずは安心し、ゆっくりと右手を離す。顔を向けるように口にあるライトで照らせば、どうやら、紙か何かがフィルムで閉じられて保護されているらしく、そっと表面の埃を取ると文字が読み取れた。

雨天紅音

……?

 なんだろうこれは――背筋に走る悪寒は先ほどの危険信号とはまったく別で、額から落ちる汗がひどく冷たく感じる。
 口からライトを外し、左手に持ち替え、右手でフィルムを持った僕は、改めてその文字を見て、何度も読み返す。癖のある手書きの文字だが、僕の記憶にはない。だが文章の最初には僕を示すAKのサインがあり、つまるところこのメッセージは、僕に向けられたものだとわかる。
 知らない癖の文字。つまり、親父やエイクのものではない――いや、同じ研究所にいた誰にも該当しないものだ。つまりそれ以外の知り合いが、僕へこのメッセージを宛てた。

 フィルムで保護されているため、紙面に劣化は見られないし、滲んだインクから歳月を読み取れるほど、その手の現象に僕は詳しくない。けれど、これは――あまりにも、千里眼が過ぎるだろう。僕がここへ来ることを予測してメッセージを残しておいたとしか思えない。そんな化け物の知り合いは、……ああ。
 僕じゃなく、彼女の――僕の友人の知り合いに、一人だけいたっけ。彼女が亡くなったことを連絡してくれた、女性が一人。何もかもを見透かしたような化け物が、けれど、こんな僕の物語にどう関わるというのか。最初から名前どころか、存在すら匂わせてもいなかったのに。
 イレギュラー過ぎる。ただ、もしも僕の知っている女性で合っているのならば、イレギュラーくらいが丁度良いかもしれないけれど。
 そんな思考が僕に余裕を持たせ、小さく苦笑を落とすくらいには冷静になった。だから、改めて紙面に目を通し。

雨天紅音

――記章は見つけられない

 記されていた文章を口にした途端、一瞬の浮遊感があった。言葉を切っ掛けにした罠など聞いたこともないと、一瞬にして全方位警戒を発動し、両手両足が床についたと思った瞬間には周囲に視線を走らせながら、真横に飛ぶようにして動く――が、隠れられるような障害物が発見できず、そのまま着地。天井がそれなりに高いことだけはわかったため、更にそこから前方に向けて前転をして立ち上がった僕は、ポーチの中に手を突っ込み、そこでようやく。

 その場には誰もいないことを確認した。

 天井の高さはちょうど二メートルくらいで、僕が直立してもやや空間が余る。天井を見上げても穴はない――つまり、僕は落ちてきたわけではなさそうだ。
 どうなっているんだ、さっぱりわからん。スフィアの限定発動かと思っていると、隅の方に山積みになったコンテナを発見し、そこにも僕の右手にある紙と同じようなものが貼ってあるのに気付いた。
 警戒は解かず、近づき、フィルムの紙をそっと引き抜く。コンテナの間に挟んであったらしいそれは、先ほどと違って余白があまりないほど書き込まれてはいたが。
 ざっと文章を読んでも、それがなかなか頭に入ってこない。これは驚きというよりも混乱に近く、僕はどっかりと床に腰を下ろして、じっくりとそれを読む。書体は同一、やはり僕へ向けたメッセージであるようで、AKの文字が最初にあった。

 ――お前にゃ見つけられねーよ。

 そこでようやく、二つの紙を並べて気付く。馴染んだ共通言語ではなく、日本語で書かれているのだ。それが余計に、読みにくさを演出していた。たぶん、読む人間を限りたかったのだろうけれど、もしかしたら、書き手が適当に選択しただけかもしれない。

 ――記章は存在しているが、どこにもねーよ。
そいういうものだ。

 存在しているが、見つけられない。どこにもない、あるようでない。なんだかそれは、言葉遊びを彷彿とさせられるけれど、書き手は僕が発見できないことを断言していた。
 僕は、そもそも論理的に説明が不可能であるところの現象――いわく、概念について一時期考察したことがある。雨が降る、という仕組みについてはどんな説明も可能ではあるが、あらゆる観点から立証することができるけれど、しかし、降らない雨について考察することは不可能だ。雨、と呼ばれる現象の中にそもそも降ることが含有されており、降らないのならばそれは、既に雨と呼ばれることはない。それをルールではなく、ルールそのものを規定し、決定づけるものとして、概念と呼ぶ。

 ならば――記章も、その概念に含まれるものなのか?

 一行を咀嚼しながら、次の文章に移る。

 ――仕組みはてめーが立てた仮説通り。
ただし一点、流動する時間を双六のマス目だと思え。
一秒後と一年後は、違うものか?

 仮説……というと、寿命のことか。確かに、それが納得しやすいものだとは思っていたけれど、転移そのものに関しては度外視していたのも確かだ。けれど、マス目? 流動する時間軸を線で示すのはよくあることだが、それらを、たとえば一秒という短時間ないし、一日で区切ったマス目であると仮定して――。
 僕は最初から、ここがいわゆるところのパラレルワールドだとは思っていない。世界がいくら分岐していようとも、それを知覚可能なのは上位者であり、僕たち人間には不可能だ。その知覚には、渡航そのものも含まれている。これは転移装置を開発していた段階で得た答えであり、それこそが、人が過去へは戻れない証明でもあったのだけれど、しかし、未来だ。
 未来は確定しているのか? 否だ、確定されていないからこその未来だ。だからマス目にしたところで、未来に向かう方向には空白が存在することになる――が、果たして空白だけか? そこに、確定された部分は絶対にないと断言可能なのか?

 ……、いや、そんなことはない。

 未来視や予言などではなく、いわば概念として、確定している部分は存在する。つまり、――人は死ぬのだ。
 途切れることがある。そして、なにより、いつか起こりうるだろうことは、必ず存在していて、それは確定されていながらも、現在の行動如何によって流動するものだ。
 イベントのポイントを黒色で示すのならば、その黒色は時間軸上で動くけれど、必ず存在することになる。ただし、僕という視点からでは、それがいつ到来するのかはわからないままだ。
 以上を踏まえたとして、では、記章とはその黒色なのか? いやそうではない、そうではなく、この文章から読み取れるのはつまり、最後の問いかけが示す通りに、時間移動に関連することだ。
 空白、つまり白色。一秒後と一年後に空白があったとして、黒色が変動するのならば、白色も変動をすることになる――待て。

 黒色で示されるイベントは、固有のものだ。死は僕に訪れるもので、僕の死が他人の死にすり替わることはない。これは、僕という知覚領域が把握可能な僕自身の時間軸上のことなのだが、時間そのものは僕という主体を除いても存在する。するが、いや、けれど転移したのは僕であるし、なにより寿命が関連しているのならば、やはり主観で考えてもいいわけか。

雨天紅音

……そうか。いや、でも、そういうことなのか?

 だとしたら、余計にわからなくなるが、仮説としての方向性ならば……あり、なのかもしれない。

 つまり、単純なことで。

 白色、それが示す空白。未来が確定しないのならば、一秒後に存在する空白と、一年後に存在する空白は、日常など生活観点を除いたのならば、同一のものだと――転移装置における移動とは、その二つの空白を〝同一〟であると設定し、跳躍したのか。
 僕は、いや、僕たちは、湯浅機関は、あの花火大会で発生した現象と同一現象を引き起こす装置を開発していた。こうした仕組みに関しても考察はしたものの、あくまでも考察段階であって、結論を出すためではなく、ある種の発想を作るためのものでしかなったけれど。
 出口、という空白が存在しているのならば、記章とはそもそも、時間軸上に同一の概念を与えながらも、転移場所を空白にする装置……ということになるのか。

 僕たちは跳躍した。

 けれどそれは、ただ眠って次の日に起きたのと、同じだってことか。だから僕の体感として、時間経過が存在しなかった。
 だが、書き手はどうしてそれを知ることができたんだ?

 ――最初の転移者から一年、様子を見てたぜ。
その上で言えば、たぶんてめーで最後だろ。
でだ、ハインドからの預かりものを渡しておく。

雨天紅音

 養父からの、預かりもの――?

 ――きっと必要になるだろうってな、
オレが預かってた。
的外れだったら笑ってやれ。
じゃ、あとは上手くやれよ。適当にな。

 そこで文章は終わっていて、最後の署名も存在しない。再度読み直してから、ふと思いついて裏返すと、そこには地図が表示されていた。けれど僕が見たことのない地図だ。
 もう片方の紙も裏面に地図があり、それを重ねた僕は驚いて、すぐさま端末にエンジシニの地図を表示させて見比べる。
 紙に記された地図には、丸の印が一つと、おおよそ三十箇所以上にバツ印があり、エンジシニの地図と縮尺が合致する――つまりこれは、地下ないし基礎の図面だ。
 丸は現在地、ならば。
 僕は立ち上がり、コンテナに近づいて一つの蓋を開いた。さすがに埃があってくしゃみが一つ出たけれど、構うことなく中を覗きこんで。
 僕は。
 そのまま仰向けに、全身を弛緩させて寝転がった。

雨天紅音

あー……は、ははは。参ったなこれは

 本気で降参したい。こんなプレゼントをくれた養父にも、それを有効利用した書き手にも、実際に現状で顔を合わせていないからこそ、その先読みに対し、まったく歯が立たないことを納得してしまった。僕って単純なんだろうかと自嘲も浮かべたくなる。まるで、正晴に言った、三日という僕が区切った期限すら見通しているかのような錯覚さえあった。
 コンテナの数はおよそ三十ほど。中に入っているのは、ご丁寧にも時限式装置を組み込んである、コンポジション4――つまり、爆弾だった。バツの印は、効率よく破壊するための位置だ。
 養父の笑顔が脳裏に浮かぶ。いつだってその余裕を、僕は取り除くことができなかった。

雨天紅音

僕を落ち込ませて楽しいのかなあ……

 もちろん、そんなことは考えていないだろうけれど、こうまでも見透かされると、本気で落ち込みたくなる。しばらくはまともな思考も働かせたくもない――ならば、動こうか。
 ただ、作業をしよう。
 せっかくのプレゼントなのだから、有効利用してやればいい。
 でも、ちょっとくらい休憩させてくれ。今はちょうど、どうでもいいだなんて、放棄している最中なんだから。

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