四条清水高校、売店部。
 一般にも開放されたその売店は、コンビニの形態をとって地域の人々に親しまれている。
 親しまれているというよりは、弄ばれているのかもしれない。
 しかし、多くの人々に高い利便性を提供しているのは事実だ。

リサ

うーむ

ミユキ

どしたん?

 この日のリサは迷っていた。
 ミユキが尋ねるのにも気づかず、顎に手をやり、思考に思考を重ねている様子である。
 彼女は一点を見つめていた。それは本日届いたコーヒーメーカーだ。
 今や全国のコンビニに広がりつつあるコーヒーのセルフサービスの波が、ようやくど田舎の四条清水にもやってきたというわけである。

リサ

違うなぁ

ミユキ

あれ、発注ミス?

リサ

そうじゃなくて

ミユキ

初期不良? どっちにしても連絡しないと

リサ

そうでもない

ミユキ

あー、名前?

リサ

うん

 名前。
 答えはまさにこれだった。
 付き合いの長いミユキだからこそ、的確に正答へたどり着けたと言えよう。

リサ

良い名前が思いつかない。いや、思いつくことは思いつくんだけど、もっとふさわしい名前があるような気がしてくる。ビビットというか、キュートというか、サイレントというか。言語や国境を越えるような、きらりと光る名前をつけてあげたい

ミユキ

命名魔王の悪いところが出てるよ……

リサ

子どもと同じよ。名前をつけるところから始まるんだから

ミユキ

ブーヴィーヌは元気?

リサ

ええ

ミユキ

カレルレンの様子はどう?

リサ

上々よ

ミユキ

陳和尚の動きが悪くなってない?

リサ

まだまだ現役ね

ミユキ

で、どれがどれだかわかってない件について

リサ

わかってないのに言ったんかい

ミユキ

聞いた覚えはあるんだけどさ

リサ

ブーヴィーヌはサイクロン掃除機で、カレルレンはパソコンで、陳和尚は食塩

ミユキ

陳和尚の扱い悪っ!

リサ

陳和尚は瓶の名前だから、いくらでも補充がきく

 ブーヴィーヌはカペー朝フランスが神聖ローマ帝国やイングランドを破った土地の名前。
 カレルレンはアーサー・C・クラークの幼年期の終りのキャラクター名。
 陳和尚は中国の金王朝末期の名将である完顔陳和尚。
 命名の方向性が定まっているようでいて、あちらこちらに旅に出ている。

ミユキ

コーヒーメーカーなんだから、コーヒーらしい名前が良いんじゃない?

リサ

モカとかキリマンジャロとか?

ミユキ

豆じゃん

リサ

豆だよ

ミユキ

紛らわしくならない?

リサ

その可能性はある

ミユキ

いっそ喫茶店みたいな名前をつけるとか

リサ

ベルヒテスガーデン

ミユキ

カフェらしさゼロだあ

リサ

ベルクホーフと迷った

 ベルヒテスガーデンはドイツの地名。
 ベルクホーフはそのベルヒテスガーデン近郊にあった、アドルフ・ヒトラーの別荘の名前だった。
 確かに、喫茶店のまったり感からはかけ離れている。

ミユキ

せっかくコーヒーなんだし、タレーランとかどう?

リサ

なんでタレーラン

ミユキ

これ、これ

 ミユキがカウンターの下から取り出したのは、『珈琲店タレーランの事件簿』だった。

リサ

ああ、そういう本もあったね

ミユキ

どう?

リサ

地獄のように熱く、悪魔のように黒い。そして、天使のように純粋で、愛のように甘い

ミユキ

ん?

リサ

タレーランの言葉よ。コーヒーじゃなくてエスプレッソに対してだけど

ミユキ

コーヒーとエスプレッソの違いがわからない

リサ

濃厚コーヒーがエスプレッソ

ミユキ

ああ、とんこつとしょうゆとんこつみたいなもんか

 実際は全く違うのだが、ミユキもリサも大きく違いを知らなかったので、その件に関してはスルーされた。
 四条清水にはご当地ラーメンという文化がないのだ。

リサ

タレーラン。そのままタレーランだと芸がないなあ。有名な本があるわけだし。ナポレオン風にタイユランにしてみようか

ミユキ

いっそ人名や地名を使わない縛りでやってみたら?

リサ

ふうん。それは難しいけど、面白いかも

ミユキ

コーヒーメーカーをポチとかタマとか呼んでみてもいいわけだし

リサ

墾田永年私財法

ミユキ

なぜ日本史の定番を持ってきたのか、これがわからない

リサ

いや、パッと思い浮かんだ単語がこれで

ミユキ

それならボストン茶会事件でもいいじゃん!

リサ

コーヒーなのに茶会事件……

ミユキ

でも、士農工商とかはありだと思う

リサ

それなら四民平等もありね

 そうこう話をしているうちに、リサはコーヒーメーカーのセットを完了した。
 試運転をするために、ホットコーヒーを一杯買ってみる。もちろん自腹だ。

リサ

動いた動いた

ミユキ

いいねえ

リサ

ああ、ミルクを忘れてた

ミユキ

ブラックでいこうぜ

リサ

私は苦いのがダメなのよ

ミユキ

白い液体を注ぎながら、エロ漫画みたいなこと言うとる

リサ

マドラー、マドラーと

ミユキ

砂糖はいらないの?

リサ

うん。そこまでいくと甘すぎる

 リサは飲む。味は上々だった。

リサ

よし

ミユキ

コーヒー、売れるかなあ

リサ

物珍しいから、そこそこ出るんじゃないかなと思うよ

ミユキ

切手くらいは売れてほしいな

 地上波デジタル放送の導入の際にブロードバンド化も進んだ四条清水だが、高齢者層が多いこともあって、まだまだ普通の手紙が電子メールと同じくらいの需要がある。
 切手はもちろん郵便局でも買えるのだが、雑貨といっしょに買いたい客がここで買っていくのだ。
 コンビニエンスの本領発揮である。

リサ

名前、うーん

 リサはまだ決めきれていない様子だ。

リサ

ミユキ

ミユキ

ん?

リサ

いや、コーヒーメーカーの名前をミユキにしようかと

ミユキ

紛らわしっ!

リサ

人名縛りにも引っかかるし

ミユキ

もう名前つけるのやめたら?

リサ

決めておかないと落ち着かない……

 結局、その日は名前をあれこれ考えたままに終わった。
 リサの命名癖は今に始まったことではないが、ミユキとしてはやはり不思議なのである。
 どうして物に名前をつけるのだろう?
 お気に入りのペンや小物にまで名前をつけているのだから、かなりの筋金入りだ。

 翌日のこと。
 常連のヴィルヘルム熊が開店してすぐにやってきた。

ヴィルヘルム熊

あれ、コーヒーメーカー入れたんですね

ミユキ

リサが一晩でやってくれました

リサ

私はジェバンニか

ヴィルヘルム熊

ドラマも始まりましたね

リサ

飲んでみる?

ヴィルヘルム熊

ええ、せっかくですから

 相変わらず器用に手、もとい前足を使い、ヴィルヘルムはコーヒーを飲む。
 こちらはブラックだ。なかなかの大人感である。

ヴィルヘルム熊

うん、おいしい

ミユキ

しまった。唐辛子でも仕込めば良かった

ヴィルヘルム熊

ちょっとしたテロですよ、それは

リサ

なるほど。よし、このコーヒーメーカーの名前は唐辛子にしよう

ヴィルヘルム熊

えー……

ミユキ

その発想はなかったわ

 ヴィルヘルムだけでなく、ミユキもドン引きである。

ミユキ

せめてカプサイシンにしようよ

ヴィルヘルム熊

そっちですか!

ミユキ

ゲームの絢爛舞踏祭にはチリペッパー入りコーヒーを作れるコーヒーメーカーがあったなぁ

リサ

何それ

ミユキ

クルーに飲ませて反応を楽しむうっかりドッキリドリンク

リサ

人間関係が壊れそうだ

ヴィルヘルム熊

闇鍋ならぬ闇珈琲ができそうですね……

ミユキ

それだ!

ヴィルヘルム熊

え、マジですか

ミユキ

みんなを集めてやろう、闇珈琲

リサ

とんでもない企画が生まれてしまった

 ひらめきは常に文明を進歩させてきた。
 では、この恐るべき思いつきは、どのような進歩に繋がるのだろう?
 ひとつ言えることは、ついに命名されたコーヒーメーカー唐辛子が大活躍するであろうという点だ。
 恐るべき未来を予感させながら、今は静かに美味いコーヒーを味わってゆく……。

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