あっちだよ!

パタパタと前を走る浩輔が、後ろを振り返りながら前を指差す。
心底嬉しそうで、遼が迷わずについて来ているかを、毎度確かめてくる。

彼らが行く前方から、スーパーの袋を持った母親と手を繋ぎ、浩輔と同い年くらいの子が歩いてくる。
だが、それにも目をくれずに、遼を手招きする。
早く早く!と両手を振り回す彼に、控えめに注意を促した。

車が来るかもしれないから
前見て歩け。

頷くが、それが改善されることはなかった。

遼が周りに気を配りつつ歩き、浩輔が「ここだよ!」と呼ぶ家の前までたどり着いた。

大きな家の表札には、『深津』と表札がかけられている。
名前は載っていないようだった。
今は何があってもおかしくない時代なので、当たり前のことかもしれない。

だがまあ、彼が一人で家で待つというくらいなのだから、兄弟姉妹がいるようには思えない。きっと三人家族なのだろう。

ポケットから鍵を取り出し、おぼつかない手つきで鍵穴に差し込み、グルリと回す。
カチャリと静かな音を立てて扉が開いた。

一歩中に入ると、独特な他人の家の匂いが鼻につく。
嫌なものではない。
部屋の中は綺麗に片付けられていて、思っていたほど荒れた家庭ではないのだと安心した。

ただいまー

……おかえり

返事を返すと、浩輔は満面の笑みを浮かべ、遼の手を引く。

無邪気な彼に水を差すようで悪いが、このまま家の中に上がり込むのは如何なものか。
一緒にいることは構わないが、両親が帰ってきたときに、見知らぬ男が家の中にいたら怖いだろう。それこそ警察沙汰になりかねない。

遼は否定を示したが、浩輔は許してくれず「大丈夫だから!」の一点張り。

一応、身分を書いた髪も浩輔に渡したし、少しくらいなら構わないかなと、遼は靴を脱いだ。

隣はキッチンで、浩輔と一緒に手を洗っているときに、ソファーで待つよう言われた。
言われれば従うしかないので、遼は大人しく席につく。

キッチンでは、小さな体を使って浩輔がおもてなしの用意をしてくれている。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、戸棚からはお菓子の入った深皿を取り出す。ついでにコップを持って、ゆらゆらしながらこちらに向かってくる。

惨事が起きる前に、何か手伝ったほうがいいだろうと遼が腰を上げると、浩輔はビシッと言い切った。

大丈夫!
遼兄ちゃんは待ってて!

必死の声に、遼は再びソファーに座って、成り行きを見守ることに。

少しづつ近づく浩輔に、思わず手を伸ばしそうになりながら、テーブルの上にお盆が乗るのを待った。

随分たくさん持ってきたね。
すごいよ。
重くなかった?

おれ、男の子だもん。
このくらい平気!

そっか。
浩輔は強いな。

へへっ

小鼻を掻き、「どーぞ」と遼の前に、お茶の入ったコップを置いた。

深皿には、小さなバームクーヘンや、チョコレートがいくつか。お煎餅なんかも入っている。
この子が食べるとは限らないが、いい趣味じゃないかと遼は一つ、お煎餅をつまんだ。

ガサガサと袋を開ける遼の隣で、ラグマットの上に座った浩輔は、ソファーに立てかけてあったランドセルから、数枚の用紙を出した。
どうやら宿題のようで、懐かしい数式が見える。

お煎餅をパリパリやりながら、鉛筆を取り出した浩輔の隣から覗き込む。
帰ってからすぐに勉強に手をつけるなんて、遼からすれば考えられないことだった。
すぐに遊びに出かけ、帰ってからもゲームをしたいと駄々をこねたものだ。

小さい頃のことを思い出し、苦い顔をしているのに気がついて、小さく頭を振る。

算数?

口元を押さえ、尋ねる。

うん。

鉛筆を指の間でゆらりと動かし、遼を仰ぐ。

算数は好き?

うーん……。
あんまり、好きじゃない。

俺も好きじゃなかったなー。
どっちかと言えば文系だし。

ぶんけー?
文……国語とか?

そうだね、国語は好きだな。
あとは……体育とか、音楽とか。

体育はおれも好き!

今は跳び箱をやっているのだという。
六段まで跳べて、クラスでも上位の方なのだと嬉しそうに語る。

夜遅く帰る両親なのだ、話したいことも満足に話せないのだろう。
その話を聞くくらいお安い御用だ。
小学生時分の授業を思い出し、自分の話も交えつつ、浩輔の話に耳を傾けた。

体育の中では跳び箱と鉄棒が好きなこと。走るのは少し苦手なこと。
しかし、体を動かすことが好きなので苦にならないこと。みんなで力を合わせて勝てたときが、とても嬉しいのだと興奮気味に言う。

あ!宿題!

「忘れてた!」と数字の羅列に視線を戻して、取り掛かる。

邪魔しちゃったかな、と遼は口をつぐむ。
真剣に宿題と向き合う浩輔の頭を撫で、遼は悪いと思いつつも小声で尋ねた。

ごめん
夕飯とかって用意してあるの?

彼の質問に、不思議そうに眉をひそめ、浩輔は「そうだよ」と返した。

冷蔵庫の中に今日のぶんが入ってるよ。

なるほど……

ちょっとばかり考え、遼は一つ提案してみる。

ちょっと出てもいいかな?
すぐに戻るから。

え……
うん、いいけど……

出る、という言葉に不安を感じたのか、浩輔は寂しそうに顔を伏せて、宿題に集中するふりをした。

彼の思いはひしひしと伝わり、安心させるために浩輔のポケットに入っている紙片のことを思い出させる。

俺の電話、知ってるでしょ?
不安になったら電話してよ。
すぐでちゃうから。

おどけて言えば、浩輔も柔らかな笑に変わる。

わかった。
いってらっしゃい。

お見送りを頂き、遼は失礼して冷蔵庫を開ける。
中身をザッと確認して、靴を引っ掛けて足早に表へと出た。

半分近くがもう暗く染まる空を見上げ、近くのスーパーに向かう。
懐は暖かいとはいかないが、今回の出費で痛いほどじゃない。アルバイト代もあと何日かで入るし、問題ない。

今日会ったばかりのお宅で何をするつもりなんだと、もう一人の自分が心の隅で囁く。
が、自分のやりたいことをするだけだ。

遼は尻ポケットに財布を戻し、何を買うか反芻しながら歩を早めた。

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