遊び足りなさそうに、子どもたちは家へ帰っていく。
お母さんがご飯を作って待っているのだろう。もしかしたら、お父さんがその役割を担っているかもしれない。
どちらにしろ、暖かいご飯が待っていて、愛のある「おかえり」が出迎えてくれるに違いない。

羨ましいな、と加々見 遼(かがみ りょう)は、子どもたちの後ろ姿を見送った。

夜気がすぐそばまで迫っている。
「ばいばい!」と手を振る後ろでは、うっすらと星が瞬き始めていた。

読んでいた文庫本に栞を挟み、そっと閉じ、学生カバンの中へとしまった。
もう半分のところへきていて、主人公がどう行動するのかが楽しみになってきたところだ。続きは、喫茶店にでも入ってからにしよう。

大きく伸びをし、ボーっと夜空が広がるのを見ていたとき

お兄ちゃんは、まだ帰らないの?

小学中学年くらいだろうか。
友人は一足先に帰ってしまったのだろう。

知らない人に話しかけられてもついて行ってはいけない、と口を酸っぱくしても、話しかけてはいけないとは、誰も言わないのだろうか。

遼は苦笑して、ベンチの上で少し前のめりになる。

君の方こそ、まだ帰らないの?
おうちの人が心配するんじゃない?

訊けば、男の子はちょっと考えて

お母さんも、お父さんも、いっつも遅いんだ。
だから大丈夫。

一体全体、何が大丈夫だというのか。
親が家にいないからといって、いつまでも公園で遊んでていいはずがない。

遼は男の子の顔を見つめ、視線を追う。
小学生にしてはいやに大人しく、そこらの男の子より大人びて見えた。ランドセルがないから、そう感じるのだろうか。
遼を見返す目は揺らがない。

しばらく見つめ合ったのち、負けたのは男の子。
少しばかり決まり悪そうに顔を顰め、腕を背後で組んでぽそりと洩らす。

えっと……
大丈夫、じゃない、かな

あ、いや
別に咎めようとしたわけじゃなくて

とがめる?

あーっと……
君が家に帰るのは、君の好きなようにしたらいいと思うんだけどね?

小学生を相手に話すのなんて何年ぶりだろう。話し方を忘れてしまった。
自分もこのくらいの時期はあったのに、もうほとんど覚えていない。寂しいものだ。

できるだけ易しい言葉を使って会話せねばなるまい。
遼はとりあえず、自分が怪しいものじゃないことを教えるため、どうしたものかと頭を巡らせる。

そうだ、とカバンからボールペンとちぎった紙を取り出し、名前と携帯の電話番号を書いて少年に渡した。

不思議そうに首を傾げる彼に、遼は更に紙を近づける。

俺、加々見遼。
これ、あげるよ。

電話?
お兄ちゃんの?

そ。
それで、よかったら君の名前も教えてくれる?

少年は、手渡された紙をまじまじと見て、次に目の前にいる遼を見る。
大人っぽく見えても、やはり子どもは子ども。年相応の少年の姿に、思わず頬が緩む。
田舎とも言い難いここで、人懐っこい子も珍しい。

遼の名前を確認した少年が、自分の名前を告げようと口を開く。

浩輔。
深津浩輔。

深津 浩輔(ふかつ こうすけ)。
そう名乗った少年は、遼が渡した紙をくしゃりと握りつぶし、グッと顔を近づける。

急の接近に、なにごとかと遼は顔を後ろに引く。
しかし浩輔はそんなことはどうでもいいようで、パクパクと口を動かす。が、声にはなっていない。
上手く話せないようで、自分自身もどうしたらいいのか分かっていないみたいだ。

どうどう……と頭を軽く叩いてやり、深呼吸するように促す。
浩輔は言われるままに深く息を吸い込み、吐き出すのと一緒に、気持ちを吐露した。

おれ、家に帰りたくないんだ。

表情とは裏腹に、言葉は冷静で、でも力強い。

家に帰りたくない。
少年はそう言った。

じゃあ、帰らなくてもいいんじゃない?とはさすがに言えない。自分の知っている子じゃなくても、こんなに幼い子を見放すことはできないだろう。
真剣な表情で訴える浩輔は、もしかしたら遼に何か近しいものを感じているのかもしれなかった。

逸らされない視線。
握られたまま開かない手。
紅潮する顔。

本気なのだなと気が付く。

どうして、帰りたくないの?

同じ高さにある顔を覗き込みつつ、質問をする。

否定をされなかったことを安堵したように、浩輔は表情を柔らかくして答えた。

帰っても一人なんだ。
お仕事をしてるから、しょうがないってわかってるけど
でも……

黙って家に入るんだ。
答えてくれる人がいないから。

トンッ、と心臓が跳ねた。

何かを考える前に、遼は体が動いていた。
浩輔の肩を両手で包み込み

じゃあ、一緒に帰ろう。
俺と一緒に帰ろうよ。君の家に。

……ほんとう!?

ああ、本当。
お兄さんも、おウチに帰りたくないから。
浩輔くんと一緒にいたほうが楽しそうだ。

……夢みたいだ。
夜まで一人じゃないんだ。ご飯も一人じゃないんだ。

呟かれる浩輔の言葉の端々が痛い。
いったい、いつから彼は一人でいることが当たり前になってしまったのだろうか……。

遼は、自分のことを棚に上げているような気がして、思わず笑ってしまう。
急に笑いだした遼に、浩輔は一瞬驚いてから、同じく微笑みを浮かべた。

ありがとう。

たった一言、そう呟き、早く行こうと遼を急かす。
さっきまでの静けさはどこへやら。一気に活発になった少年の姿に、遼は自分もこんな小学生だったっけかな?と思い出す。
あまり記憶はないが、今と変わらなかったような気も。

少し行ったところで手を振る浩輔に、遼はベンチから立って近づいた。

笑顔を見せる少年に心をくすぐられ、無意識のうちに手を伸ばしていた。

繋がった手と手。
浩輔は遼を見上げ、丸くした目をそっと細めて「こっちだよ」と帰り道を示す。
コンクリートには、大小の影が二つ並んで、ゆっくりと進む。

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