◆ さよならの時
◆ さよならの時
放課後、桐原は俺を保健室へと呼んだ。だが二人きりになりたかった俺は、桐原を屋上へと誘った。
屋上は出入り禁止じゃないの?
鍵は空いてるんだ。少し話すくらいなら大丈夫だよ
二人で屋上へと向かい、俺は彼女の方へと体を向けた。桐原も姿勢を正す。
あのね、ダミルア君。わたしは美晴にとって、すごく悪い姉だったよね? 自分の事を何も主張しないで美晴を突き放すような事ばっかりして
桐原は目を赤くしている。昨日はずっと泣いていたのかもしれない。
美晴はきっとわたしを恨んでるわ。わたしかあんまりに酷い姉だったから。美晴じゃなく、わたしが死ねばよかったのかもしれない。なのになぜわたしが残されたの? 美晴の身代わりになれればよかったのに
桐原は悪くないよ。ただ、二人はあまりに対称的すぎたから、歯車が噛み合わなかっただけだ。どちらが悪いって事は絶対にない
そう、なの?
そうだよ
桐原は胸の前で両手をきつく組んだ。まだ彼女の中で美晴の事が整理できていない。それでも俺は今、ヴァンパイアの事を告げるべきだろうか? しかし今を逃せば、もう二人きりで話をできる時間はないような気がした。
……覚悟を、決めた。
桐原。俺も桐原に言いたい事があるんだ
口火を切ってしまった。もう後戻りはできない。桐原が理解できるようにゆっくりと話そう。
言いたい事?
彼女は小首を傾げている。
喉が震え、俺はどう話を切り出すか迷う。だが家で何度もシミュレートしてきた事だった。
俺は実は人間じゃない。ヴァンパイアなんだ
ヴァンパイア……? なに、その冗談。今は冗談で笑っているような気持ちじゃないわ
冗談や笑い話じゃない。俺の正体はヴァンパイアで、そして……美晴を吸血して殺してしまったんだ
桐原が息を呑むのが分かった。
ヴァンパイア。世間では血を吸う化け物だという見解を持たれている。しかし事実は多少異なり、吸血はするが、人間の血が自身の生命活動に必須という訳ではない。無闇やたらと人間を襲う化け物ではないんだ。
だが幾ら説明したとしても、それはすぐには信じてもらえないだろう。人間は自分たち以外のモノを受け入れるのに、とても時間を要する生き物だから。
俺が正体を明かした事で、桐原はどう思っているだろう。俺は静かに桐原を見つめた。
美晴を……殺したのがあなた……?
そうなる。血のにおいに酔って、必要以上の血を吸って殺してしまったんだ。それを桐原に懺悔したくて来てもらったんだ
美晴を……美晴を……
桐原の表情が歪む。責められても仕方がない。
どうして美晴だったの! わたしじゃいけなかったの?
美晴も桐原も関係ない。俺はあの時、正常じゃなかった。ただ渇きを癒やすためだけに、目の前の人間を襲ってしまったんだ。美晴だったからとか、そういう気持ちはなかったんだ。許してくれ。桐原を悲しませるつもりはなかったんだ
桐原はわっと両手で顔を覆って泣き出した。
ごめんな、桐原。美晴を生き返らせる事はできないけど、俺はもうこの町を去る。この町で猟奇事件が起こる事はもうない。本当にすまなかった
……逃げるの?
ああ、逃げる。俺たちは人間の前に姿を現すべきではなかった。今頃分かったって遅いけど
そうなんだ。やっぱり俺たちヴァンパイアは人間と関わってはいけなかったんだ。
泣いている桐原を置いて、俺は黙って歩き出す。
さよなら、桐原。それから……本当にごめん
いくら謝ったって、美晴が帰ってくる訳じゃない。だけど俺は謝らずにはいられなかった。何度でも謝るつもりだった。立ち去るその時まで。
俺はもう行くよ。もうヴァンパイアはこの町に現れないから
そう言い残し、俺は屋上を後にした。
悲しくて、俺も涙を零した。俺はこんなにまで、桐原という少女を好きになっていたのか。
今更気付く。
桐原──優しくおとなしい少女。俺の好きな人間の娘。
屋上からの階段を降りながら、俺はふと、血のにおいを嗅ぎとった。僅かなものではなく大量の。
どういう事だ? 学校で誰かが怪我でもしたというのか? いや、怪我という程度の血のにおいじゃない。それにこれは……人間の血のにおいでもない。
俺は警戒しながら、ゆっくり屋上からの階段を降りる。そして階段の踊り場にある掃除用具のロッカーから、血のにおいが漏れている事に気付いた。
唾を飲み込み、意を決して、ロッカーを開く。そして俺は呻いた。
……ファンテ!
鋭いもので胸を貫かれ、大量の血を流して死んでいるファンテの体がそこへ押し込まれていた。ファンテを殺せるなんて、ただの人間じゃない。それになぜファンテが殺されなければなからなかったのか。
ふいに一陣の風を感じた。嗅いだことのあるにおいが含まれていた。
ファンテが殺されてしまった事を悲しむ前に、俺は冷静に思考を巡らせる。妙に冴えていた俺は、一つの見解に辿り着いた。
──俺というヴァンパイアから、使い魔であるファンテを引き剥がすため。
ファンテが普通の人間に遅れをとるはずはない。だとすれば、俺の守護者であるファンテを殺す理由は、俺を単独にさせるという理由以外に浮かばない。そして犯人は、ガーネット以外を連想できなかった。さっきの風に紛れていたにおいは、あきらかにガーネットのものだった。
俺は慌てて屋上の方を見上げる。今、桐原はひとりきりだ。ガーネットは俺に対して復讐すると言っていた。だとしたら俺を単独にして追い詰めてくるのは間違いない。桐原も殺害対象だ。
桐原!
俺は慌てて屋上へ取って返した。
屋上へ出ると、桐原はまだひとりきりで泣いていた。俺が余計に桐原を泣かせるような事を言ってしまった事は事実だが、今は桐原を守らなくてはいけない。
桐原! こっちにきて!
俺が手を伸ばすと、桐原はビクリと体を震わせ、嫌々と首を振った。当然か。
桐原は知らないけど、この町にはもう一人のヴァンパイアがいるんだ。そいつは俺の敵で、ファンテを殺して俺を孤立させた。俺から大切なものを奪おうとしてるんだ。桐原もきっと狙われている。だから俺と一緒に来て!
い、嫌……
桐原がジリッと後退る。当然の反応だが、今は桐原を保護する事が大事だ。
桐原と俺は違う生き物だけど、でも桐原に嘘は言わない。何も隠さない。だから一緒に逃げてくれ。あいつの相手は俺ではできないから
俺はそっと桐原の手を取った。すると桐原の思考がすっと俺に浸透するように流れこんできた。
あなたといた時間、すごく楽しかった。でももうさよならだね。だってわたしは、もうほとんど彼女に侵食されて、残っていないんだもの
桐原が目を細めて俺を見上げた。
どういう意味だ、桐原?
俺は問いかける。すると彼女は、ニイッと笑って俺の手を強く掴んだ。
こういう意味だよ。甘ったれ君
桐原が制服の胸元を開くと、赤い宝石と爺さんの姿があった。しっとり濡れたような黒髪はアッシュグレイに変わり、俺の腕を強く引いて、俺に抱かれるように接近してくる。
気付かなかったかな? わたしがガーネットだよ
なっ!
ガーネットは俺の腕の中で恍惚の笑みを浮かべる。
楽しかったですよ……君は面白いように、桐原美雨に傾倒していった。わたしだと気付かずね
ガーネット! じゃあ美晴と双子というのは嘘だったのか!
俺はガーネットを突き放し、身構える。
いや、桐原美雨も実在の人物ですよ。ただ、わたしが拠り所として乗り移っていたんです。君と使い魔君が老夫婦の家を棲家にするように、わたしは美雨の体内に乗り憑(うつ)っていただけです
桐原を……美雨を爺さんと同じ目に遭わせたのか?
今日は勘がいいですね。その通りです。美雨もエルリグもわたしが取り込みました
俺は衝撃を受け、膝から崩折れた。
桐原はガーネットだった。ガーネットが桐原を食い潰した。そして今、爺さんをも俺から奪い取ろうとしている。
俺はガクガクと震え、強く両手を握り締めた。爪が肉に食い込む。
やっと美雨はわたしに馴染んでくれました。美晴を失うという忘我によって、最後まで抵抗していた精神が壊れてくれたので。エンリケ君、感謝します
俺が桐原を失わせてしまったのか! 俺が美晴を奪ってしまったから!
俺は涙を流す。
何もかも、俺が悪いのか。俺が美晴を奪わなければ、桐原は自我を手放すような事にはならなかった。ガーネットに体を奪われなかった。
エルリグを取り込むのも時間の問題かな。彼も最後の抵抗をしている。君という存在があるためにね
ガーネットの胸にある爺さんの姿は、随分薄くなっていた。奴の言うとおり、取り込まれつつあるのだろう。俺にはどうやって爺さんを助ければいいか分からない。ファンテをも失って、俺はこれからどうすればいいのか。
教えてあげる。エルリグだけでなく、君をもわたしの復讐対象としている理由
俺が聞きたかった事を口にするガーネット。だが今の俺はそういった物を聞けるような状態になかった。だが奴は無視して話し出す。
それは俺が想像だにしていない話だった。