宿題を忘れたという私に先生は顔をしかめたけど、クラスメイトの今日私が朝練を休んだ、という話を聞いた途端に態度が変わった。むしろ辛いようなら早退しなさい、とまで言ってくれて、宿題の提出は明日まで延期してもらった。

ラッキーなのにどうしてか納得できない複雑な気持ちを抱えたまま授業を受け、昼食を終えて昼休み。いつもなら終わっていない宿題を必死に済ませるか持ち込んだマンガを読んでいるところだけど、今日は違う。

一緒にご飯を食べた小晴がうとうとし始めたのを見計らって席を立つ。

ゴメン、ちょっと用事があるから行ってくるね

小晴

はーい、いってらっしゃ~い

こくりと頷いた小晴の動きは私の言葉を理解したのか、眠気にやられて頭が揺れたのかわからない。ともかくこの様子ならこっそり後ろを尾行られるということもなさそうだ。そもそも小晴が私についてくる理由もないんだけど。

これから五十嵐先輩のところに行く。昨日のことは小晴にはうまく聞けないけど、先輩にだったら聞けそうな気がする。人の秘密を探るのってちょっと悪いことをしてるみたいだけど、気になるんだからしょうがない。

教えてくれない小晴が悪いんだ。頭の中をその言葉で一杯にして、私は三年生の教室がある隣の棟へと歩き出した。

私たちのクラスがある三階には渡り廊下がないから、必然一度二階に降りることになる。全部の階につけてくれればいいのにとは思うけど、ないものはないんだから諦めるしかない。しかも二階の渡り廊下は屋根なしだから雨の日は通れないときているのだ。そんなときはさらに下、一階まで降りるか、雨の中を走っていくしかない。

幸い今日はよく晴れてくれている。私は二階に続く階段をそそくさと下って、コンクリートの味気ない渡り廊下に駆け出る。そこにはちょうど探している五十嵐先輩の姿があった。

五十嵐

お、天ちゃん。どうしたの?

あ、こんにちは

五十嵐先輩は私に気付くと恥ずかしげもなく大きく手を振った。控えめに手を振り返してみるけど、これでも結構恥ずかしい。

日向

やめなさい。薄入さん困ってるでしょう

後ろから先輩の頭にチョップ一閃。明るめのショートカットがわずかに揺れる。

五十嵐

なんだよ、香織。別にいいじゃん

日向部長も、こんにちは

日向

ごめんなさいね。諒って本当にバカだから

そう言いながら日向(ひなた)部長は頭を抱えてわざとらしく首を振った。

銀縁の細いフレームの眼鏡を定位置に戻す。それだけで私は意味もなくどきりとした。

日向部長は私がそう呼んでいる通り合唱部の部長さんだ。小晴と同じソプラノパートできりりとした表情と物腰柔らかな言葉遣いが特徴の優しい先輩だ。五十嵐先輩とはとても仲良しで私と小晴みたいに帰りも一緒に帰っているところをよく見かける。正反対に見える二人だけど、幼稚園からの友達っていうくらいだから気が合うみたいだ。

日向先輩はどちらかと言うと寡黙な方で、部長というより委員長の方が似合いそう。それなのに皆を引っ張るタイプの五十嵐先輩を押しのける勢いで部長に就任した理由を私は知らない。

バカって言うな、と五十嵐先輩が日向部長の編み込まれた髪を優しく引っ張る。それが合図のようにまた五十嵐先輩の頭にチョップがめり込んだ。今度はちょっと本気みたい。

だ、大丈夫ですか?

日向

いつものことだから平気よ

しゃがみ込んで頭を押さえる五十嵐先輩に日向部長は見向きもしない。これも一種の友情なのかな?

結構、日向部長ってバイオレンスなんですね……

日向

え? いや、そんなことないわ。諒が大袈裟なだけよ

私が何気なく言ったぼんやりとした感想に日向部長は慌てて両手を振って否定した。もしかして気にしてるのかな?

悪いこと言ったかも。

日向

そ、それよりこっちは三年棟だけど、何か用事でもあったの?

五十嵐

そういや、そうだね。日向ぼっこってわけでもないんでしょ?

話題を変えるように出した部長の質問に復活した先輩が乗っかる。二人同時に尋ねられると、思わず言葉に窮してしまった。

どうしたの、と困ったように二人が見つめている。別に怒られているわけでもないのに先輩二人に言い寄られると後ろめたい感じがする。その空気が嫌で私は日向部長がいるのにもかかわらず、五十嵐先輩に昨日の一件を尋ねてみた。

五十嵐

あぁ、あれね。小晴ちゃんから何も聞いてない?

なんかごまかすというか、まだ言いたくないみたいな感じで

五十嵐

へぇ、まぁそのうち教えてくれるんじゃない?

何のこと? と首をかしげる日向先輩を横目に五十嵐先輩は特に隠すこともせず、でも中身には少しも触れずに答えてくれた。

先輩も教えてくれないんですか?

五十嵐

うーん。別に言ってもいいんだけど、小晴ちゃんがわざわざ言わないってことなら私から言うのもちょっとなぁ

言葉を濁された。やっぱり昨日の話は小晴に関係することなんだろう。暖かい日差しと反比例するように体の奥が冷えていく。

そう、ですか。ありがとうございました

五十嵐

はいはーい。それじゃまた部活でね

小さく頭を下げ、渡り廊下を小走りで抜けた。二年棟に戻って日陰に入ると冷えた体が余計に冷たくなるみたいで、思わず身震いする。もしかして皆の言う通りで本当に風邪でも引いたのかな。確かに胃の辺りがずっしりと重い感じがする。

なんでこんな気持ちになるんだろう? 問いかけたところで答えが返ってくるはずもない。私はなんだか小晴の顔が見たくなって、重い足を少しだけ早めて教室へと向かった。

小晴

おかえり。用事は済んだの?

うん。一応ね

私は自分の席を通り過ぎて小晴の座る席に向かった。省エネというか動き回ることがない小晴は私が教室を出た時と少しも変わってないんじゃないかと思うくらいそのままでここだけ時間が止まっていましたと言われたら少し信じてしまうかもしれない。

小晴

天ちゃん、ちょっと疲れてる?

動かないと思っていた小晴が急に立ち上がって、私を覗き込むように顔を寄せた。

瞳と瞳が合う。くりくりとした黒目がちの小晴の瞳の奥に驚いた表情の私が映っている。

小晴

大丈夫? 顔赤い気がするよ

だ、大丈夫。急に小晴が立ち上がるからびっくりしただけっ!

吐息がかかる距離から肩を掴んで小晴を引き剥がした。誰かからもらったのか小晴の口からはチョコレートの甘い香りがした。

小晴

ふふ、天ちゃんは今日も可愛い

もう一度座りなおした小晴が小さく笑う。それを見て私は何を言ってるんだ、と呆れたように空いていた前の席を引き出して、小晴と目線を合わせた。

con melancoliaⅡ

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