日は西の山脈の向こうにすっかり沈み、空は濃紺色から黒へ変わろうとしている。
パチパチと爆ぜる焚き火を囲んで、あたしたちは夕食をとろうとしていた。
日は西の山脈の向こうにすっかり沈み、空は濃紺色から黒へ変わろうとしている。
パチパチと爆ぜる焚き火を囲んで、あたしたちは夕食をとろうとしていた。
今日も日用の糧を与えてくださいましたことを神に感謝いたします
厳かにお祈りの言葉を神にささげているのは、シスターマルガレーテ。あたし達はグレーテルと呼んでいる。治癒や解呪の奇跡を起こすことが出来る、パーティに欠かせない存在だ。
あたし達も胸の前で指を組み合わせ、お祈りの姿勢をとる。
エリザはお祈りしないの?
天上教徒でない私が形ばかりのお祈りをするのは、天上教の神様に対しても失礼になりますので……
一人だけ、手を膝の上に置いて無表情だったエリザは、勇者の問いに曖昧な笑顔で答えた。
ちっ、
という舌打ちの音が聞こえた。
悪魔崇拝者が……
そう呟いてから彼女は我に返って、胸の前で十字を切った。
ああ、わたくしとしたことが。
神よ。お祈りの最中に穢らわしい言葉を口に出してしまったことをお詫び申し上げます
お祈りは最初から仕切りなおされ、空腹だったあたしは少しげんなりした。
お祈りが終わり、やっと夕食にありつくと、あたしたちはすぐにそれを平らげてしまった。
あしたはいよいよ洞窟に降りて、最深部にいる首領を討伐する。今日はちゃんと寝て身体を休めてほしい
見張りは三時間ごとの交代とする。最初はアニカ。その後、俺・エリザの順だ。
では、見張り以外は就寝
アニカというのは、つまりあたし、荒野の狩人アニカ様のことだ。
この野営地はグレーテルによる退魔の結界が張られているから、魔物に襲われることはまずないのだけれど、念のため見張りはたてなければならない。
そんなわけで、みんなが寝る準備をする中、あたしは三時間ほど起きていないといけないのだ。
……
エリザはまだ起きていて、肌身離さず持っているメレク神の像に祈りを捧げている。メレク神は天上教がこの地に普及する以前にこの一帯の広い範囲で信仰されていた神で、エリザはそのメレク神への祈祷の力で様々な攻撃魔法を使うことができる巫術師なのだ。
エリザの持っているメレク神の像は体高がエリザの手のひらより少し大きいくらい。ローブを着た男性で、首から上が牛の頭になっている。
よく見るとかわいいね。そのモロク像
言ってしまって、しまった、と思った。
エリザの信じる神の名はメレクであって、モロクというのは天上教徒が異教の神メレクを貶めて『魔神モロク』と言う場合に使われる名前だ。
そうでなくとも、自分が神と信じている存在を「かわいい」呼ばわりされるのは気持ちの良いものではないだろう。
ああっ、ゴメン!
あたしったら何てこと……
別に構いませんよ。
メレクは私たちの先祖ミタン人の発音。モロクは天上教の教主庁がある東方の発音。グラマーニャ人にとってはどちらも異国語なので二つの発音があるというだけですから
う……
でも、神様をかわいいなんて言うのは不敬、だったかなって……思って
メレク神の悪口を言われれば不快ですけど、「かわいい」は悪口ではないでしょう?
信者でない方にまでメレク神に畏敬の念を抱いてもらおうとは思っていません。悪意さえ向けられなければ充分ですよ
それなら良かったけど、でもゴメン。そっちの受け取り方がどうあれ、考えなしに発言したことは良くないことだから
あと、あたしグラマーニャ人じゃないよ。
ドネイル川流域の狩人の血筋は、フーン人の血筋を引いているんだって
だからあたし達の一族には、狩猟に際して四大精霊に祈りを捧げる様々な儀式が残ってるの。パパにいろいろ習ったなぁ
四大精霊への信仰はメレク信仰のように天上教から敵視はされていないものの、やはり異教には違いない。
あたし達荒野の狩人の一族は、表向き天上教に改宗してはいるものの、狩りの最中に行う四大精霊への祈りの文化を捨てていない。
さらに言えば、狩猟を生業としている種族はグラマーニャ人より一段下に見られている傾向がある。
そんなわけで、グレーテルから悪魔崇拝者と罵られているエリザに、あたしは多少のシンパシーを感じていた。
祈る対象が四大精霊であれ、メレクであれ、天上教の神であれ、父祖が昔からそうしてきた文化を継承することは良いことだと思います。
そう思うからこそ、私はメレク信仰を捨てないのです。
焚き火の火に照らされたエリザの笑顔は、異教徒であるあたしに対して一点の悪意も含んでいなかった。
クソっ!
毒にやられた!
すぐに解毒を
グレーテルが神に祈りを捧げると、天上教の神が解毒の奇跡を授けてくれる。
便利だが、精神力の消耗が激しいので多用は出来ない。
そもそもなんであたし達がこの洞窟にやってきたかと言うと、この洞窟に蔓延っている毒を持つ魔物たちを討伐するためだ。
この洞窟の最深部には泉があり、その湧き水は天上教の神官が行える四つの奇跡と同じ「治癒」「解毒」「解呪」「退魔」の効果があるとされ、遠くの町や村から汲みに来る人が絶えなかったのだが、いつしか洞窟内に魔物が増え始めた。
しかも困ったことに、毒を持った魔物たちばかりが多く住み着いてしまったのだ。
泉自体には解毒の力があるので、泉が毒で汚染されることはなかったものの、泉の水を汲みに来た人々は有毒モンスターたちに道を阻まれることになる。
魔物を追い払おうにも、この洞窟の魔物たちは泉の持つ退魔の力をはねのけるほど強い魔物たちばかりだから、普通の人々には魔物退治などできない。
そこであたしたち、勇者率いる魔王討伐隊ご一行の出番と言うわけだ。
この洞窟の魔物たちの首領を倒せば、統率を失った魔物たちの多くはここを逃げ出す。そうすれば、人々はまた奇跡の水を汲みに来られるようになる。
気をつけて!
また魔物が来ます!
鍾乳洞の巨大な石柱の影から、人間の子供ほどの大きさの蛙が飛び出してきた。ポイズントード。こいつも毒を持つ魔物の一つだ。
さぁ来い! 魔物め!
ヴァルターがさっき鞘に納めたばかりの剣を抜き払う。
あたし達が魔物と戦う際の基本形は、まず勇者ヴァルターが最前線に出て戦い、あたしは少し間合いを取って中距離から弓で敵を狙い、エリザも同じくらい距離を取って攻撃魔法を繰り出す。
グレーテルは後方から全員を良く見て、治癒や解毒などを必要に応じて行う。
今回も素早くその陣形を作り、戦闘を開始したのだが……
きゃあっ!
ポイズントードの跳躍力を甘く見ていた。
奴はヴァルターの一瞬の隙をつくと、ひと飛びでエリザの目の前に躍り出た。
ポイズントードは前脚にある鋭い爪で、エリザの手の甲を引き裂いた。
きゃあぁぁぁ!
エリザ!
急いで矢をつがえ、蛙の背中を打ち抜く。
ヴァルターが駆けつけて、とどめに首を切り落とす。
戦闘が終結しても、エリザは苦しみ続けている。
どうやら爪から毒が入ったらしい。
ぐうぅぅっ……うぅっ……
勇者、鍾乳洞の近くは見通しが悪く危険です。こちらのルートを行くべきでは
最近この洞窟に来た兵士の報告では、そちらの道は完全に毒の沼に沈んでいるそうだ。こっちのルートの方が……
あぁ……ううぅ……
ヴァルターとグレーテルは、洞窟の地図なんか広げてなにやら議論している。
そんなの後にして解毒を、と言おうとしたその時、グレーテルはエリザの方を向いて、信じられない一言を放った。
うるさいぞ
議論の邪魔だ、と言わんばかりにその一言を投げつけると、彼女は再びヴァルターへ向き直り、地図を見せながらあれこれ相談している。
う……、ふーっ、ふーっ……
エリザはローブの裾を嚙みしめて、声を押し殺して苦痛に耐えている。
……と、見てる場合じゃなかった!
持ち物袋から材料を取り出し、素早く毒消しを調合する。
エリザの傷口に塗ると、しばらくしてだんだんとエリザの表情が穏やかになっていった。
荒野を何日も歩いて狩猟を続ける狩人の固有スキル、『調合』だ。ありあわせの草木や動物の内臓などから薬を作れなければ、狩人は生き残れない。
こら勝手にアイテム使うな!
グレーテルの叱責が飛ぶ。
いちおうアイテムの使用は勇者の了承を得てからという決まりになっているから、あたしが悪いんだけど。
エリザものすごく苦しんでたし、緊急だから仕方がないでしょ
ここは毒のモンスターだらけなの知ってるだろう。
毒消しには数回の毒攻撃で受けた毒を完全に帳消しにする効能があるんだから、場合によっては数回毒攻撃を受けるまで温存も考慮にいれなければいけないだろう
毒消しの調合レシピはクロバの葉5とポイズントードの油1で毒消しが3つ作れる。クロバの葉は九九九枚あるし、ポイズントードの油はポイズントードさえ倒せば二つ手に入るわ
あたしはさっき倒したポイズントードから、左右二つある油脂腺を切り取る。
仲間が苦しんでるのを放置しなきゃならないほど毒消しは不足してない
……!
グレーテルは一瞬言葉に詰まったが、やがて吐き捨てるように言った。
だからこのパーティは嫌なんだ。
悪魔崇拝者は神の教えに従わないし、野蛮な狩人はあらかじめ決めた作戦の重要性を理解しない!
敬虔な天上教徒がメレク信仰を悪魔崇拝呼ばわりするのには理由がある。
メレク神は魔王以下全ての魔物たちが信仰しているメレキウス神と同じものとされており、共通する神話も多い。天上教会ではメレクもメレキウスも魔神モロクと呼ぶ。
人間でありながら、魔物と同じ神を崇めている。天上教徒からはそう見えるのだ。
だからと言って、毒に侵され苦しんでいても放っておいて良いわけがない。
魔王討伐隊に魔法使いがいるのは、物理攻撃が聞かない魔物もいるからで、そういう魔物に対抗できるほとんど唯一と呼べる方法が、メレクの信徒たちによる攻撃魔法なのだ。
討伐隊に欠かせない存在なのだから、悪魔崇拝者などと呼んでさげずむべきではない。
険悪な空気になりかけたところで、勇者が場を納めた。
アニカの調合スキルのおかげで毒消しに余裕があるのは分かった。
でもダンジョン内でのアイテム使用は俺の判断を待つという取り決めには従って欲しい。
いいね?
はいはい。
わかりましたよー
言いながらあたしは、ヴァルターとグレーテルの目を盗んで、エリザにそっと薬を差し出した。
心臓のお薬だよ。
ポイズントードの毒は心臓に負担をかけるから、解毒までに時間がかかったときは毒が消えただけじゃ心臓へのダメージは残っちゃうの。
これを飲んで、お大事にね♪
エリザに耳打ちすると、戸惑いながらも彼女は、その粉薬を飲み下してくれた。
(続く)