私の名前は佐竹宏(さたけひろし)。
都内の物産企業へ勤めるサラリーマンだ。
新卒入社から勤めあげること今年で二十年。
言ってはなんだが、極々一般的な企業人である。
私の名前は佐竹宏(さたけひろし)。
都内の物産企業へ勤めるサラリーマンだ。
新卒入社から勤めあげること今年で二十年。
言ってはなんだが、極々一般的な企業人である。
勇者ヒロシ(42)の大冒険
平日、私の一番の楽しみは帰宅後の団欒にある。
妻子と共に囲う夕食こそが人生の悦びである。
だがしかし、本日の私は帰宅後、早々に自室へ引っ込んだ。
結婚生活十二年、このようなことは初めてだった。
理由は他の何でもない。
連日に渡り私の周りを飛び回る物体Xの存在だ。
……ゲート?
そうだよ、ヒロシー
ゲートが開いちゃったの!
くぱぁ! くぱぁ!
いきなりゲートだなどと言われてもだな……
鬱陶しいまでに周りを飛んでいたヤツは、今でこそ羽を休めるよう、身をデスクの上に腰を落ち着けている。
箱から取り出したばかりの江南堂のショートを、器用にも人様用のフォークを両手に振るい頬張っている。
クリームにまみれた口から語られるのは、当人の身の上と、そこから展開される今の私の置かれた状況とだ。
私は女王様の言われて
ゲートを通じてこっちに来たの
何故に?
この際、女王様とやらはスルーだ。
一つ一つ確認していたら日が変わってしまう。
ゲートが開いたとき、危ないモンスターがこっちの世界にこぼれちゃったんだって。放っておく訳にはいきませんって、女王様が言ってた
それが先程のミノタウロスとやらか
うんっ!
なるほど。
要は原油の流出事故のようなものだろう。
実に荒唐無稽な話だ。
しかし、あの化け物を見た後では信じざるを得ない。
仮にそうだとして
先程のあの炎はなんなのだ?
あれ? あれはファイアボールだよっ!
そうか、あれがファイアボールか
ファイアボールか。
たしかにそれっぽい感じだった。
正直、格好良かった。
この歳にして、少なからずときめいてしまった。
どうして私なのだ?
なにがー? ヒロシー、なにがー?
私のスキルセットにファイアボールなんてものはなかった筈だ
うーん? それは偶然?
別に誰でも良かったのよ
…………
なんだと。
女王様が言ってたの。現地に渡ったら、協力者を見つけなさいって。それで女神様のご加護を渡して、モンスターを退治するのに協力して貰いなさいって
私はそのようなモノを受け取った覚えはないぞ
目に見えるものじゃないんだよ?
肉体に与えるものだから
つまりどういうものなのだ?
うーん?
今はもう、ヒロシの魂に同化しちゃってる
…………
そういうの勘弁して頂きたい。
本人の知らないところで、勝手にファンタジーを投与するのは。
副作用とか大丈夫なのだろうか。
甘くて美味しそうな匂いしてたから、ヒロシに渡したの。あ、この人に渡したら、おいしいもの沢山食べさせてくれそうだなぁー、って!
…………
あぁ、ようやっと判断が付いた。
コイツに取り付かれたのは、先週末の金曜、部下に誘われて新宿のフルーツパーラーへ行った帰り道で間違いない。
調子に乗った山田が私のズボンにアイスミルクを引っ掛けてくれたのだ。帰宅するまで延々とバニラの香りを漂わせていた次第である。
ヒロシー、やっぱり私の思った通りだった
けーきおいしいっ
そうか。それはなによりだ
うんっ!
こっちの世界のけーき、好き!
すっごく美味しいよー!
好きなだけ食べていいぞ
本当っ!?
ただ、食べたらさっさと帰るんだ
そのゲートとやらの向こう側へ。
勿論、戸締まりも忘れずに
え? なんで?
ミノタウロスとやらは倒したのだ
もう私の仕事は終わりだろう
ううん? まだ終わらないよ?
……何故だね?
モンスターはぜんぶで十七体
まだ十六体残ってるもん
……………
ザルだな、そのゲートとやらは。
もう少し、こう、なんとかならなかったのか。
本当にもう。
他の人間に頼むことはできないのか?
むりむりー
だって、ご加護はヒロシに渡しちゃったもん
…………
任務に対して人選が適当過ぎやしないか?
こういうのはもっと時間に余裕のある大学生だとか、他にやることのないニートだとかの類にお願いしたほうが、遥かに良いと思うのだが、そこんところどうなのかね。
この甘党を親善大使として放った女王様とやらの顔を拝みたい。
別に私がやらなくとも
警察や自衛隊がどうにかしてくれるだろう
んー?
けーさつ? じえーたい?
なにそれ
こちらの世界における軍隊のようなものだ
無理だと思うよー
何故だね?
十七体のうち三体は
魔法じゃないと倒せないのー!
…………
学生の頃に遊んだゲームでそういう敵がいたな。
物理反射とかいう酷い設定のヤツが。
その癖して即死魔法で一発だった。
こっちの世界には魔法がないから、女神様のご加護を受けたヒロシだけが、モンスターを倒すことのできる勇者様なの。わーい、かっこいいー!
わーい。ひどい話だな。
少なくとも勇者は会社員が兼業する仕事じゃない。
専業で頑張れるヤツがやるべきだろう。
或いはそうじゃなくても、こう、様式美というか。
そういったものが大切だと思うのだよ。私は。
例えばほら、日本にはこういう感じの。
こういう感じのがあるだろう。
>たたかう
にげる
ぼうぎょ
どうぐ
ゆうしゃのこうげき
ゆうしゃはモンスターに10のダメージ
ゆうしゃはモンスターをやっつけた!
あぁ、実に適役だ。
素晴らしい。
革靴を履いてジャケットを着たアラフォー男性に任せるより、なんぼか優れた選択ではないか。
だから、ほら、ヒロシー
がんばろ?
私も手伝うからっ!
であれば一つ
今のうちに頼みたいことがある
なーに? なーに?
ファイアボールの詠唱なのだが
メモを取らせて貰えないか?
うん、いいよ、ヒロシー
いちいち人の名前を口にしないで貰いたいのだが。
まあ良い。
とりあえず、当面の目標は先に挙げられた三体の撃破だ。
他は人目に付いた時点で、自衛隊や警察が対処するに違いない。昨晩に眺めたファイアボールが、彼らの装備に勝るとは思えない。
だからこそ、問題となるのは魔法での対処が求められる三体だ。
この甘党をゲートとやらの向こうへ送り返す。
その為に必要な条件がそれだ。
翌日、少しばかり早く出社した私は、自席でメールのチェックしながら、同時に単語カードなどペラペラと捲っていた。
カードにはファイアボールの詠唱が記載されている。ヤツから教えてもらったものだ。文節により細切れに分割して、これを順番に並べてある。
えぇと……
この手の暗記は声に出して読むのが一番だ。
恥ずかしいから小声でだが。
炎を纏いし古代の神、その怒れる雄叫びに慈悲はなく……
課長、単語帳なんて持ちだして、資格の勉強ですか?
っ!?
どうしました?
山田、今日に限って出社が早いじゃないか。
普段はギリギリに出社してくる癖に。
しかもいつの間に近づいてきていたのだ。
ビックリするなぁもう。
い、いや、なんでもない、なんでも
勉強熱心ですね
あぁ、そ、そうかもな
人間、向上心が大切だ。向上心が
流石は佐竹課長ですね
俺も見習わないとなぁ
う、うむ……
んじゃ、失礼しまっすー
…………
まったく、脅かしてくれるな。山田め。
弊社は九時より始業となる。
古臭い商社である都合、フレックスタイムなどといった小洒落た制度は存在しない。始業を知らせるチャイムが鳴る頃には、どの席にも既に社員の姿がある。
これを確認したところで、私はパソコンに向かう。
ねーねー、ヒロシー、ヒロシー
今日は書類仕事の予定だ。
来週の社長説明に向けて資料を作らねばならない。
ソフトを立ち上げて、キーボードをカタカタとやる。
ひーろーしー
…………
カタカタ。
こーひーっていうやつ、飲みたいー
…………
カタカタ。
ヒロシー、ヒロシー
こーひー飲みたいよぉー
カタカタ。
ヒロシぃー! ヒーロシぃー!
…………
耳やかましい声に集中力が途切れる。
流石に耳元で騒がれては堪らない。
とは言え、相手が他者の目に映らない以上、この場で非難することもできない。
自然と意識は他へと逸れて移ろう。
ふと目についたのは、長年の相棒だ。
いつも私のパソコンの画面の右下の方にいる。
オマエは良いなぁ。
静かで。
寡黙で。
ただただ、私を見守っていてくれる。
ヤツもオマエくらい静かだったら良いのだが。
ヒロシー、こーひー飲みに行こうよぉー
……………
ヒロシー?
こーひー、こーひーっていうのー!
それに引き換え、コイツの煩いことこの上ない。
もう少しどうにかならないものか。
ひろしぃー、ひろしぃー
もう少し構ってよぉー!
……くっ
ちょっと可愛いと思ってしまった。
くそう。
なんというか、無性に悔しい気分だ。
ヒロシー? どうしたの?
頬のお肉がピクピクしてるよぉー?
しかもやたらと私のことをよく見ている。
家内より気がつくのではなかろうか。
流石にそれはちょっとフクザツな気分である。
こーひー! こーひー!
こーひーっていうの飲みたーい!
…………
いいだろう。存分に飲ませてやろう。
ブラックでな。
騒動は昼休みに訪れた。
私は会社近くの店舗でランチを取っていた。
最中、店内のテレビに映し出されたニュース映像。
生放送だというそれに、バッチリ写っていたのだ。
ヒロシー、ヒロシー、なんか動いてるー!
ぶほっ……
テレビにはヤツ曰く、モンスターが写っていた。
それも背景から鑑みるに、かなり近いぞ。
この飲食店に。
モンスターの背中越し、見たことのある光景が写る。
ヒロシー、ヒロシー、あれ、ヒロシの会社?
…………
正解である。
よりによって、会社の前の通りではないか。
玄関近くで自動車が玉突き事故を起こしている。
その只中に、露骨なまでのモンスターが。
とても凶暴な面構えだ。
上野動物園あたりに納めたら、パンダ以来のヒットを予感させる危うさである。
ヒロシー、勇者の出番だよっ!
い、いや、しかしだな……
勇者は唐揚げ定食を食べている最中だ。
先週、金融緩和のせいで五十円も値上がりした
まだ一つしか食べていない。
はやく行かないと、大変だよ。ヒロシっ
一つ尋ねるが、あのモンスターは……
あれはキマイラっていうの!
魔法じゃないと倒せないやつっ!
ヒロシ用っ!
…………
この期に及んで十六分の三を引いたか。
ヒロシ用という語彙に悪意を感じるのだが。
し、しばらく様子を見よう
もしかしたら魔法云々は誤報かも知れない。
警察の装備でも太刀打ち可能かも知れない。
伊達に毎月幾万と税金を支払っていない。
モンスターくらい倒してくれなければ困る。
市民の安全を守るのは警察の仕事だ。
ヒロシ? 行かないの? ヒロシ?
…………
でも一応、一応は現地まで向かうとしよう。
テレビ越しだと見たいところが見えないしな。
私が辿り着いた時、そこは死屍累々だった。
なんということだ……
モンスターは想像した以上に強かった。
警察の発砲を物ともせずに暴れまわっている。
…………
おー、生キマイラー!
はじめて見たー!
このままでは更なる被害が見込まれそうだ。
勘弁して欲しい。
午後は三時からお得意様がいらっしゃるのだ。
部長含め、非常に重要な会議が開かれる予定だ。
その成功は我が担当の売上目標の達成に必要不可欠なもの。
決して少なくない部下がこれに躍起となっている。
ヒロシー、あれは強いよー
がんばってー!
ぐっ……
モンスターめ。
あくまでも私の仕事の邪魔をするというのか。
上等だ。
キマイラだかなんだかしらないが、やらせるものか。担当の売上はボーナスに直結するのだ。
……とは言え、身バレは避けねばならない
ヒロシー?
なにか。なにかないか。
この手の流れだと変身ヒーローが鉄板だろう。
だがしかし、手元に変身スーツは存在しない。
であれば、どうすれば良いのか。
…………
そうだな。
誰にも見つからない場所から対処するしかない。
一つ訪ねたい
なにー? ヒロシー、なにー?
あのファイアボールというやつは、どれくらい飛ぶ?
んー? けっこう飛ぶよー?
具体的にどの程度か教えて欲しいのだが
えっとねー、んー
向こうにある建物くらい?
ヤツの指し示した先には、数百メートルを隔ててビルが。
たしかに結構な距離だ。
ふと学生時分、ハンドボール投げの飛距離を思い起こす。
戻れるものなら戻りたいものだな、青春という時代に。
なるほど
どーしたの?
私は大慌てで自社ビルへと走った。
首より下がるネクタイが慌ただしくもはためくも構わずに。
ヒロシー、どこいくのー? そっちじゃないよー?
いいや、こちらで良いのだ
エントランスを過ぎる。
エレベータを使って上のフロアへ。
十五階、ラウンジに到着。
その脇に設けられたトイレへと向かう。
あ、ヒロシー、トイレ行きたかったんだー
…………
我慢すると漏れちゃうもんね
わたしも漏らしたことあるー!
ヤツには好きに言わせておこう。
言っておくが私は漏らしたことなどないからな。
……よし
ドンピシャだ。
トイレには小窓が設けられている。
これはを押して屋外の様子を窺う。
窓から望む先はビル正面。
騒動の只中にある通りを見下ろす位置取りだ。
ヒロシー? お外にプシャーするの?
…………
まあ、似たようなものだろう。
しかしながら、降るのは決して尿ではない。
私は窓から腕を突き出した。
そして、今朝に覚えたばかりの文句を口とする。
炎を纏いし古代の神、その怒れる雄叫びに慈悲はなく、立ち塞がる全ては袖の触れるまでに塵と化す。太古より伝わりし破壊と創世の導きに従い、我はこの地にその力を欲する。天地開闢の業火を伴い、有象無象を焼き尽くせ、ファイアボール
応じて、炎の固まりが打ち出された。
照準は路上に吠える化け物。
直撃コースだ。
眼下で火柱があがった。
おー、ヒロシー、すごい!
当たったー!
……一発だけでは不安だな
もう一発くらい撃っておくか。
どれ、もう一発
炎を纏いし古代の神、その怒れる雄叫びに慈悲はなく、立ち塞がる全ては袖の触れるまでに塵と化す。太古より伝わりし破壊と創世の導きに従い、我はこの地にその力を欲する。天地開闢の業火を伴い、有象無象を焼き尽くせ、ファイアボール
炎が飛んでゆく。
炎の只中に炎が立ち上がる。
おまけにもひとつ
ファイアボールを撃ってて、ふと気づいた。
思いの他、これはストレス解消に良いかもしれない。
炎を纏いし古代の神、その怒れる雄叫びに慈悲はなく、立ち塞がる全ては袖の触れるまでに塵と化す。太古より伝わりし破壊と創世の導きに従い、我はこの地にその力を欲する。天地開闢の業火を伴い、有象無象を焼き尽くせ、ファイアボール
殊更に炎の柱が大きなものとなる。
おぉー、また当たったー!
いちいち顔の周りを飛び回らないで貰いたい。
巨大な蚊にでも懐かれたような気分だ。
あー、倒れたー?
やったー、倒したよっ!
どうやらそのようだな
ヤツの言葉通り、倒れるモンスターを確認。
どうやら無事に倒せたようだ。
以後、ピクリとも動かなくなる。
それまで拳銃の弾を雨あられと受けていたのに。
これが魔法の力というやつか。
ヒロシー、かっこいいぞぉー!
ふっ
褒められると、なかなか悪くない気分だ。
自然と口が軽くなる。
争いというのものは、
先に姿を見せた時点で負けなのだ
ヒロシ、かっこいい!
かっこいいっ! 凄い!
キャッキャと可愛らしい声に褒めてくれる。
思った以上に心地良いな。
まあ、なんだ、伊達に歳を重ねてはおらんよ
コイツ、意外と可愛いところもあるじゃないか。
今晩辺り、イチゴのショートでも買ってやるとするか。
いや、次はシュークリームとか良いかも知れん。
ダロワイヨのシューで新しい世界を見せてやろう。
あれ? 課長?
そんなところで何やってんスか?
背後から急に声を掛けられた。
っ……
振り返ると山田の姿があった。
あ、あぁ、ちょっとな
そういうオマエこそ、どうしたんだ?
いやぁ、打ち合わせが長引いて
これから昼なんですよ
そうか、頑張っているな。
昼休みは仕事で時間がずれても、
ちゃんと一時間取るんだぞ
ういす!
ところで、窓から外見てたみたいですけど
なにか見えるんですか? そこから
いやなに、どうにも騒々しいので気になってな
?
この後、モンスターの姿を見つけた山田がはしゃぎだして大変だった。