勇者ヒロシ(42)の大冒険








 私の名前は佐竹宏(さたけひろし)。

 都内の物産企業へ勤めるサラリーマンである。新卒入社から勤めあげること今年で二十年となる。

 言ってはなんだが、極々一般的な企業人……。

…………

だった筈なのだが――――

ねーねー、なにしてるのー?
それなぁにー?

…………


 ここ最近、なんというか、こう、やたらと可愛らしいものが、私にまとわりついている。

 昼夜を問わず、場所を問わず、まとわりついているのだ。

 今も自席に腰掛ける私のまわりを羽虫のように飛び回っている。

 サイズは……そうだな、あれだ。

 つい先日、娘の誕生日に購入したテディベアほどだ。

佐竹課長、
こちらの書類なのですが決裁の印を……

あ、あぁ、分かった


 部下から受取った書類にハンコを押して返す。

ありがとうございます

ああ、頑張ってくれたまえ

はい


 部下には見えないらしい。

 まさか私を騙すため、ということもあるまい。

 ここ数日に渡って観察した結果、そう判断した。

 しかし、であればコレはなんだというのだ。

ヒロシー、ヒロシー、おなかへったよぉー

…………

チョコレートたべたいなぁー
あの甘くてトロトロのやつー


 数日前、私のデスクからチョコレートが消失した。

 犯人はコイツであったらしい。

 勝手に人のモノを食べるとは、なんて卑しい生き物だ。

ヒロシー、ヒロシー、チョコレートォー

…………


 気軽に人の名前を連呼しないで頂きたい。

 せめて職場では敬称を付けるべきだろう。

 目上の人間に対する礼儀というものがなっていないな。

あ、課長!
そう言えば、今日の飲み会、どうしますか?

すまない、他に先約があってな……

そうですか? 残念ですね
次はおねがいしますよー?

ああ、次は必ずな


 酒の席にまで付いて来られては堪らない。

 惜しいが今日はキャンセルだ。

ヒロシー、みんなと遊ばないの?
つまらないよぉー?

…………

みんなで遊んだほうが楽しいよ?
遊ぼうよぉー

…………


 誰のせいだ、誰の。

あ、ヒロシ、偉い人がきたよぉー?


 偉い人?

 ふとフロアの出入口の側へ意識をやる。

 するとそこには部長の姿があった。

 コイツ、社内の人間関係を学習しているのか?

 私の前に姿を表してから、まだ数日だぞ?

 意外と侮れんな。

おー、佐竹くん、ちょっといいかね?
君に聞きたいことがあるのだが

これは町村さん、わざわざどうしたんですか?

以前に君から説明を受けた商材に関してなのだが、社長説明へ入る前にもう一度、確認をしておこうと思うのだが

ああ、日商の件ですね。それでしたら……


 とりあえず、今は無視しよう。

 下手に構っては業務に支障をきたすからな。




















 一日の業務を終えて帰路に着く。

 手には娘と妻にと購入したケーキが箱に入ってビニール袋に揺られている。

 今年で九歳になる娘は、いつも私が帰宅するまで寝ずに待っていてくれる。

 そんな可愛い彼女の為に、こうしておみやげを持ち帰るのが、私の日々の楽しみだ。

 そんな一頻りの幸せを邪魔するヤツがいる。

ヒロシー、けーき、けーき
わたしもケーキたべたいよぉー

…………


 甘い匂いに釣られてだろう。

 やたらと動きが活発になっている。

 まるで糞便の周りを飛ぶハエのようだ。

五つ買ったの見てたー!
わたしのぶん?
それわたしのぶん?

…………

ヒロシのおうちは、女の子とお嫁さんで、
仲良しこよし、三人家族だもんねー!

…………

私のぶんもあるよね?
あるんだよね? けーきぃー!


 なんて目ざとい生き物だろう。

 だがしかし、ヤツの言い分はハズレだ。

 うち三つは今晩に家族で頂く。

 残る二つは明日、妻と娘がおやつに頂く。

 訳の分からない生き物にくれてやる道理はない。

ヒロシぃー
わたし、三角形のやつがいいなぁー

…………

三角形で、まわりが白くて
あたまにちょんって、
ちょんって、赤いの乗ってるのぉー!


 しかもイチゴショートを所望するとはふてぶてしい。

 江南堂のイチゴショートは一番の人気商品だ。

 いつも品切れしている。

 幸運にも購入できた喜びは、自らの娘にこそ届けたい。

 そうして得られる笑顔こそ私の明日を生きるエネルギー。

あ、ヒロシ、ちょっとストップ
止まって、止まって


 かと思えば、急に待ったを掛けられた。

…………


 まったく、今度はなんだというのだ。

ヒロシ、ミノタウロスが現れたよ


 ミノタウロスだなどと、そのようなもの私には何の関係も……。

……ミノタウロス?


 咄嗟、声を上げてしまったのは、正面に眺める曲がり角。

 その先より姿を表した何者かを視界に捉えたが所以だ。

ヒロシー! がんばれー! がんばれー!


 ちょっとまて、ミノタウロスってなんだ。

 ミノタウロスってなんだ?


 いやでも、たしかに居る。それっぽいのが居るぞ。

 向かって十数メートル先。

 ゲームの類に顔を出しそうなヤツが立っているではないか。

ヒロシー! がんばれー! がんばれー!

ま、まて、これはどういうっ……

あっ、やったー!
ヒロシ、やっとお返事してくれたぁー!


 普段からニコニコとしていたが、殊更に嬉しそうな表情だ。

 そんなに嬉しいのか?

 たしかに見え始めてから数日、初めての応答ではある。

 あまりにも無邪気な笑顔を見せられて、思わず罪悪感だ。

 だが、今はそんな瑣末な感情はひとまず置いておこう。

君、あ、あれはなんだ?
ミノタウロスというのは……

ヒロシ、がんばれー! がんばれー!

…………


 なにを頑張れというのか。

 相手もこちらに気づいたようだ。


 グルル、喉を鳴らしては見つめてくれる。

 目と目があった。

っ……


 相当にデカイぞ。

 三メートルくらいある。

 しかも随分と物騒なモノを持っている。

ヒロシー! いっけー! そこだーっ!


 そことはどこだ。

 私には分からない。

ちょ、ちょっと待ってくれ
あれはなんだっ!?

ヒロシは勇者だよ
あれくらい簡単に倒せるのだぁー!


 のだぁー、じゃないだろう。

 無茶を言わないでくれたまえ。

投影か?
ポリフィルムか何かに投影して……


 疑問の声を上げたところで、先方に動きがあった。

 手にした得物を構え、こちらに迫ってくるではないか。

 一歩、また一歩と確実に。

 フィルムじゃないなこりゃ。

ヒロシっー! いけー!
魔法で倒すんだーっ!

ま、魔法っ!? なんだねそれはっ!

あ、そっか
まだ魔法について教えてなかったかも……

なんでも良いっ!
魔法でもなんでも良いから
た、助けてほしいっ!

えっとねぇー、魔法はねぇー

 こっちに来るぞっ!?

 き、来てしまうぞっ!?

 ちょっとちょっと、これはヤバイぞ。

け、ケーキも進呈しようっ! だからっ!

ほんとうっ? けーきくれるのっ!?

う、うむっ! あげようっ!
なんでも好きなのをあげようっ!
イチゴのショートでも良い!

やったー! うれしーなー!


 このような状況にありながら、満面の笑みである

 そこまでケーキが食べたかったのか。

 すまぬ、娘よ。江南堂のショートは持ち帰れそうにない。

それじゃあ私の後に続けて詠唱するんだよ? 間違えちゃ駄目なんだから

は、はやくしてくれっ! たのむっ


 詠唱でもなんでもしよう。

 するから。

 たのむ、おしっこ漏らしそうだ。

 ここ最近、歳のせいかトイレが近いのだ。

炎を纏いし古代の神、その怒れる雄叫びに慈悲はなく、立ち塞がる全ては袖の触れるまでに塵と化す。太古より伝わりし破壊と創世の導きに従い、我はこの地にその力を欲する。天地開闢の業火を伴い、有象無象を焼き尽くせ、ファイアボール!

え?
ちょ、ちょっと待て
それを言うのか?

急がないとぺしゃんこだよぉ?

も、もう一度っ! もう一度だっ!

炎を纏いし古代の神、その怒れる雄叫びに慈悲はなく、立ち塞がる全ては袖の触れるまでに塵と化す。太古より伝わりし破壊と創世の導きに従い、我はこの地にその力を欲する。天地開闢の業火を伴い、有象無象を焼き尽くせ、ファイアボール

炎を纏いし古代の神、その怒れる雄叫……えぇと、袖の触れる? いや、太古より伝わりしだったか? あああ、ちょっと待て、落ち着くのだ私よ、半分も言えてないだろう。というか、そもそも長い、長すぎるんだっ!

はやくはやく!
急いでヒロシ!
急いでっ!


 急かさないで欲しい。

 胃が痛くなってきたぞ。

もう一回だっ!
ゆっくり、少しづつ教えてくれ!

もう、急いでよヒロシっ!

わかっているっ!

炎を纏いし古代の神、その怒れる雄叫びに慈悲はなく

炎を纏いし古代の神、その怒れる雄叫びに慈悲はなく

立ち塞がる全ては袖の触れるまでに塵と化す。

立ち塞がる全ては袖の触れるまでに塵と化す。

太古より伝わりし破壊と創世の導きに従い、我はこの地にその力を欲する

太古より伝わりし破壊と創世の導きに従い、我はこの地にその力を欲する

天地開闢の業火を伴い、有象無象を焼き尽くせ、ファイアボール!

天地開闢の業火を伴い、有象無象を焼き尽くせ、ファイアボール!


 言えた、最後まで言えた。

 しかしながら、既に目前には迫りに迫った鉄槌が

 これは駄目だ。

 諦めた瞬間の出来事だった。

 腹の内側にまで届くような轟音が響いた。

なっ……


 正面に突き出した手のひらから、炎が、炎が飛び出したぞ。

 なんだこれは。

 なんなんだ、これは。

 こんなの――――。

か、か、格好良いじゃないかっ!

やったね! ヒロシっ!


 炎はミノタウロスとやらに命中した。

 同時に数メートルばかりを後方へ飛ぶ。

 そして、ブロック塀へぶつかると同時に爆発した。

 ドドン。

 再び大きな音が響く。

 それと同時に火柱が立ち上った。

なっ、い、家がっ……


 ブロック塀が崩れて、その先にあった民家に火が移った。

 なんてことだ。

 住宅火災だ。

おー、よく燃えるなぁー

ま、まてまてまて、これは不味いぞっ


 住宅への放火は死刑、無期懲役、5年以上の有期懲役という、殺人並みに思い罰則が有名だ。

 まさか平静ではいられない。更にこの遅い時間帯、住民が死傷でもしたのなら、それこそ目も当てられない。

ねーねーヒロシー
夜なのに明るいねー!
綺麗だねー!


 慌てに慌てる。

 名前も知らない物体Xを脇に抱える。

ぅぉおう?

静かにっ!


 私は脱兎のごとく騒動の場を後とした。

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