胸の内の温もりを抱きながら、狐は山道をゆっくり歩く。
姿がおぼろになりながら、しかし、まだ想い人の影を残している。
吸いとった相手の、最後に浮かべた笑顔の味。
甘美なそれをかみしめながら、けれど狐の胸の内は、満たされないままだった。
……
胸の内の温もりを抱きながら、狐は山道をゆっくり歩く。
姿がおぼろになりながら、しかし、まだ想い人の影を残している。
吸いとった相手の、最後に浮かべた笑顔の味。
甘美なそれをかみしめながら、けれど狐の胸の内は、満たされないままだった。
(……あれから、いかほどの時がたったのだろう)
ついこの間のことのようにも、ずいぶんと昔のことだったようにも感じる。
二つの影がよりそい、語り、また静かに闇へ戻るだけの出会い。
ささやかな時間は、しかし、遠い日の影がゆらめくばかり。
人形と狐の密会は、あの日以来、ぱたりと途絶えていた。
―――妖(あやかし)殺しを重ねる人形の噂は、風のなかに混じっていた。
以前と異なり、狐は人形の姿を自発的に探すこともした。
だが、なぜかその姿を見つけることはできず、時はただ過ぎていった。
以前は、会いたくなくても、ふらりと重なることが多かったというのに。
(……会えないのか、会えなくしているのか?)
最後の出会いをふりかえり、狐はそう自問する。その可能性が、一番高いようにも想われた。
安心したのは、最初に聞いた「妖(あやかし)殺しの人形がいる」というものから、噂が変化している様子がなかったことだ。
逆を言えば、人形はまだその存在を現世に残している――とも言える。希望的観測、とも言えるが。
(猫は死期を感じた際、自ら姿を隠し、誰にもそれを悟らせないという)
人形がそうだと、狐が考えているわけではなかったが。
――飢えが満たされるの。もう、人間なんかの温もりじゃ足りないの
……
狐を彩る輪郭と、胸の内の暖かさが、急速に虚ろになってゆく。
あの言葉を想いだすたびに、ひどくなる。胸の内が、ずっと、乾いているかのよう。
(――この乾きの意味を、彼女なら知っているのだろうか)
ため息を一つついて、空へと顔をあげ、想いをはせる。
……似て、いる
青い光が、闇夜をうっすらと照らす。暗闇に生きる、森や水、風や音、狐の姿を怪しく彩(いろど)る。
月がまばゆい夜だった。
(似ている。始めて出会った、あの夜に)
紅い着物をまとい、紅い傘を咲かせ、狐の姿を見つけた人形。
それは同時に、狐が人形の姿を見つけた日でもある。
――そんな夜ゆえか。二つの妖の『縁』が、再び近づくことになるのは。
かすかな風の、調べに乗って。
……!
その一瞬の鈍い音に、しかし狐の胸中は、嫌な胸騒ぎにとりつかれる。
足が、自然に動いていた。枝を払い、闇を抜け、足を泥で濡らし、白い着物を黒へと染めて。
狐はただ、音の響いた場所へと向かう。
なんの音かもわからない、けれど、狐はただ全力で駆ける。
狐はただ――走り続ける。
――!
一瞬、立ち止まり。
そしてまた、走り出す。
――足を止めたのは、傷ついた妖(あやかし)の首を刎ねておくため。
妖(あやかし)殺しの罪は、一切、脳裏に浮かぶことがなかった。
その存在を、本能的に、狐は許しておくことができなかったのだ。
明確な理由はない。はたから見れば、凶行に及んでいるのは、狐でしかない。
しかし、妖(あやかし)からは、妖気が漂っていた。
とても見知った、遠い知り合いのものが。出会いたくても出会えない、想い人の匂いが。
だからこそ、手負いの妖(あやかし)の首を刎ねた。
それは、力をとりこんだばかりの狐には、造作もないことだから。
妖(あやかし)の血が、紅い血が、強く実体化した狐の手を染める。紅く、紅く。
白い指先だけではなく、その身、全身をも。
紅い返り血で彩られながら、そのなかに混じる匂いに、狐は確信してしまう。
(……!)
それでも、認めないために、走る。
――認めたくないがために、走る。
向かう音の先には、失くしてしまいたくない、なにかがあるのだと。
そう思わなければ、その音を聞き取れるはずがないと、自分に言い聞かせ。
そしてそのモノが、未だに残っているはずだと信じて。
狐は、闇夜を駆けた。
その身を紅く染め、二つの眼をこらし、駆け続けた。
――そして、見つけた。
月夜に照らされた、白磁と紅の残骸を。
あら、こんにちは
……!
いつもどおりの挨拶のように、その断片が言葉を紡ぐ。
声の響きが鈍いのは、ひび割れた頬から入り込む風のせいか。
流れるような美しいラインだった顔は形なく、亀裂が縦横に走っていた。
……!?
その顔を見ていられず、狐は周囲へと眼を走らせる。
救いを求めるように先端が広がった、泥で黒く染まった白い木々。だが、それは木々ではなく、人形の手だったもの。
ねじれた足に見えるものは、まるで枯れ枝のような弱さを見せ。
破れた衣服だけは、人形を包んでいた形を残そうと、かすかに原形をとどめる本体を守っていた。
周囲から戻るようにして、残された顔と髪を、もう一度見る。
美しかった白磁の肌は、土で化粧したかのように汚れ、生気がない。
何物をも魅了する瞳の片方は割れ砕け、残った瞳のあどけなさが逆に不気味ですらある。
狐は、あたり一面の惨状を見て、まるでちぎれた地図が広がっているようだと感じた。
美しく描かれた世界が、バラバラになっている現状。
だが狐には、その地図のどこをどうつなげれば、元に戻るのか――その見当を想いつくことが、まったくできなかった。
そしてその欠片達は――出会いを求めていた、人形の妖(あやかし)の、断片なのだった。
ぼーっとして、どうしたの? ……あぁ、それはいつものことかしら
軽口なのは、かつてと変わらない。
ただ今の状態では、妖(あやかし)はおろか、人間すら騙すことはできないだろう。
だからこそ、狐には異常に思える。
なぜ、人形はこんなにも、いつもと同じように語りかけてくるのだろうか、と。
……なにが、あった
それらを眺めながら、かつての知り合いの形骸を見つめながら、狐が口にできたのはそれだけだった。
見ればわかるでしょ
人形は、残った一つの眼と口元で、微笑んで。
壊れたのよ、それだけのことね
いつもの人形と同じ、どこか冷めたシニカルな態度を見せた。
油断したわ。合わないモノを吸いすぎて、身体が落ち着かなくて。おまけに、噂を聞きつけた妖(あやかし)にも鉢合わせるなんて
そこでいったん、言葉を区切る。
――本当、やんなっちゃう
人形は苦笑する。
四肢のない身体をかすかに震わせながら。
それほどまでに、飢えていたのか?
人形へと近寄りながら、狐は声をかける。
その言葉に、人形は苦笑する。
飢えてたのかも。けど、本当は乾いていたのかも、ね
乾く?
自身の胸の内を悟られたかのような言葉に、狐は問いかえす。
だが、人形はその問いには答えず、苦笑して、違うことを語りだす。
……こんなんじゃ、もう誰も相手にしてくれないかしら?
浮かび上がる笑みは、半分だけ。
その姿を見て、狐ですら驚きを隠せないのだから。
ひび割れちゃった人形の価値は、がた落ちなのよ。恋人から娼婦を視るような、妻から売女を視るような、そんなものなのよ
――はたして、人形の形を想いだせるものなど、存在しているのだろうか。
……修復のつては、ないのか
狐にとって、今の関心事は人形の価値ではない。
存在だ。
あったとしても、意味はないわ。もう、わたしに人形としての価値なんかないんだから
だが人形にとって、狐の質問は愚問だった。
狐が想う関心事など、人形の心の片隅にもない。
――みんな、あんたのせいよ
代わりにあった内心を言葉にして、狐に告げる。それは、むしろ狐の意を汲まないものだった。
……?
静かな瞳でそう告げる人形に、狐の瞳は動かない。
わかっているわ、とばかりに人形は言葉を続ける。
滑らかな、まるで何百回も復習した、そんな流麗さで。
だって、あんたズルいんだもの。いつもいつも曖昧な姿で来て。なのに同じなんだもの、やんなっちゃうわ
人形は、言葉を送り続ける。
ためこんだ手紙を送るように、次から次へと。
内に書き記した想いを、言葉に乗せて送りだす。
――狐の表情がなにも変わらないことを、百も承知と想いながら。
……だから、人間じゃ駄目かなって
妖(あやかし)を、おそった理由?
そう。もう、人間以外にするしかないって、想ったわ
なぜ?
理解できない。狐の内心の問いに、人形は答えた。
人間の、誰と寝ても、誰を殺しても、誰が求めてきても、あんた嫉妬なんかしてくれなかったじゃない。だから……同じなら、妖(あやかし)なら、してくれるかなってね
人の血を求めるのは、妖(あやかし)の性。
それは日常であり、特殊なことではない。
なら、その理を犯せば、心は動くのか。
人にあらざる者達を惑わせば、狐も同じく惑わされてくれるのか。
食料をたぶらかすのではなく、同じ立場をたぶらかす姿を見れば、瞳を具現化してくれるのか。
――まるでこちらの意を介さない朴念仁でも、こちらに振り向いてくれるのか。
そう願った人形の想いが、今、狐の眼の前にある光景だった。
……ねえ、今の気分は、どう……?
人形が声を揺らしながら、狐に問う。
しかし、狐の口からもれ出たのは、予想しない一言だった。
……わたし、牝だもの……
え……?
人形には、その言葉の意味が理解できなかった。
あまりにも突然で、予想外で、どこか間が抜けていて。
……もしか、して?
そこで、ふっと、人形は思い出す。
以前交わした、たわいもない雑談を。その時の、淡々とした返答を。
――子は、産むかもしれない。けれど、いつかはわからない。
ふふ、あれ、本当だったの……?
そうだった、と人形は今にして気づく。
妖(あやかし)は妖(あやかし)なれど、人形は固有の一体だけ。
だからこそ、人形は映え輝く。それが孤独という断絶と引き換えに、存在を意味しているものだから。
だが、狐は異なる。妖(あやかし)は妖(あやかし)なれど、孤独ではない。
長い時を生きる者なれど、その狭間で子を成す者でもあった。
もちろん、狐のなかでもそうでない者もいる。孤独を愛する個々もいる。
が、眼の前の狐は違う。そうではなかった、という、それだけの答え。
ただ、それだけのことだったのに。
あの頃から、この狐に惹かれていた自分に気づきもして。
自嘲とともに、人形はふりかえる。
どうして、そんな種族違いの想いに惹かれてしまったのだろうかと、そう想い。
あーあ、馬鹿馬鹿しい。……ほんと、ばかばかしいわ
冷たい、人の形を模した、この身体。
人の現(うつつ)を惑わすだけの形骸が、近づけるわけもない。
狐は初めから、人の形など欲してはいない。
それは、人を捕食するための幻想にすぎないのだから。
人形はこうなってから、初めて気づく。気づかされる。
確かに似てはいるが、違うところがある。
――初めから人形は独りで。
――生まれたときから狐は生命の理にいて。
――知らないうちに、それを踏み越えようとしていたのは人形だけなのだと、今更ながらに気づいて。
本当、おかしいわ。笑っちゃう
朽ちた身体だからこそ、ようやく、はっきりとわかる。
この身体は、狐の子など産めはしないことに。
……ねえ、お願いがあるんだけど
なんだ?
冷めた熱は、少しばかりの意地悪へと変化する。
――答えられない答えを、願いとして編んでやろう。
最後くらい、わたしを愛する姿をしてよ。お願い
そんな姿、この世のどこにもありはしない。
それを知っていながら、あえて願う。
人の形に過ぎないモノの幻想を、だからこそ、と。
……あなたは、人形だもの
……どういう、意味?
心は、満ちない。乾くだけ。満ちることを知った心は、さらに乾くことしか覚えない
……よく、わから……ないわ
わかってはいても。
感情の欠片は、まだ、人形の形の中に残っている。
わかったら、あなたはもう人形じゃない
……あんたに、わかるっていうの?
人形の心に灯るのは、人間らしい感情。
理解されぬ身の嘆き。少しばかりの苛立ち。
受け止める狐は、けれど、相も変わらず淡々としていて。
……わたしには、わからない。でも
でも?
あなたを愛する形になることは、あなたという形を否定することになるのだけは、わかる
――くだらない。くだらないくだらない、……くだら、ない!!!
絶叫、に近い、慟哭。
……確かに、くだらないのかもしれない
けれど、と狐は言葉を継げる。
……狐の嘘は、子を成すためのもの
ゆっくりと、自身の身体をなぞる。
子を成し、人を惑わし、その一方で人を愛し、だからこそ称えられ憎まれ誤解される。それがわたしたち、狐という存在意義
……破っちゃえ、というのは、卑怯よね
その誓いを破るには、人形としての自己を否定する罪も負わなければならない。
人形がしたことは、ただ、狐にのみ禁を犯して欲しかったという独善でもある。
わたしはあなたに、嘘を言えばよかったのか?
……違うわ、ばか。どうしてそんなに、あんたは期待させるのさ……!
人形にとって、それが一番つらいことだった。
それが一番、楽しいことでもあった。
そしてそれが、最も止めて欲しいことでもあった。
……寒いわ
人形の呟きは、別に狐に向かって発せられたものではなかった。
感覚のままに吐き出した言葉だったが、ふと狐はその言葉に反応した。
ゆっくり、人形の頬へ指先を触れる。
ここで初めて狐は、人形が人形たる、硬さと冷たさを持っていることを知った。
生き生きとした言葉と感情と態度、その裏に隠されていたもの。
人形本来の、造られた身体の固さと温度。
やっぱり、暖かいのね
狐の身体からは、温もりが伝わってくる。
自身に触れるその姿を、人形は捉えることができない。
狐の操る、幻術のせいではない。
残された瞳が、物を見る力を失っているせいだ。
なんか、本当のあんたの姿を見たことすら、なかったわ
……
ふふ、やんなっちゃう……こんなに好きなのに。愛しているのに、ね
……そう、か
そうよ。そう、馬鹿なお人形
かすかに、本当にかすかな苦笑をして。
じゃあね、幸せな……嘘つきさん
自分を見つめているであろう、二つの瞳を思い浮かべながら。
人形の身体は、本当に造られただけのモノへと、戻っていった。
どれほどの間、そうしていたのだろうか。
世界は止まることなく、狐の気づかぬうちに、雨が降り始めていた。
人形に触れた狐へと、止まない世界を教えるかのように、雨が叩きつけられる。
狐の化生は、狐の姿を隠すこと
呟く朧な姿は、誰の瞳にも映らない。映す者は、この場にもういない。
けれど狐の化生は、狐そのものであること
擬態こそが、狐そのものの本質でもある。
……あなたが愛したものは、人形という変わらない不変さとは、逆のモノ
ゆっくりと、冷たくなった人形の胸元へと手を這わせる。
硬いものが、指先に触れる。
ゆっくりと抜き出せば、壊れのない、白面の仮面が一つ。
壊れることは、わたしにはない。だから……わたしは、あなたが羨ましい
自身をかたどった面を、狐は、ゆっくりと拾い上げ。
仮面の下にも仮面がある。あなたが見ていたわたしも、この狐の面と変わらない
自分の顔へと身に着けて、ゆっくりと狐は立ち上がる。
人形の形骸を、その両手に抱きながら。
……だから、壊れられるあなたが、愛おしい。この面の下にあったのは、確かに……わたしという、道化なんだから
狐からこぼれる雫は、雨の中に溶けてしまう。
冷たい狐の声音は、人形と始めて出会った時から、なんの変化もない。
まるで人形のような声音を、人形がしていた狐面の下から、抑揚なく語り続ける。
狐の面をかぶり、相手の求めたであろう自分を演じて、素直でない言葉を語る。
だから……覚えているかい、あの時を。あなたという形に囚われた、怪しい狐の、二つの瞳を
仮面の下には。
人形を夢見た。
本物の姿がない。
狐という嘘をつき続けた。
人形と同じ姿の、冷たい顔がある。
本物になれない、本当の狐の想いが、そこにある。
――だからわたしは、あなたの姿で……。