重なった日々も、当たり前のものとなり。
以前の記憶が、狐の中から薄くなり始めた、そんな頃だった。
重なった日々も、当たり前のものとなり。
以前の記憶が、狐の中から薄くなり始めた、そんな頃だった。
最近はね――
なまめかしい息遣いとともに、その言葉はつむがれた。
何気ない、あまりにも自然な口ぶりで。
妖(あやかし)をとり殺すのが、楽しいの
……!
穏やかな日常を語るように、その言葉は人形の口からつむがれた。
問うでもなく、誘うでもなく。そうなのよ、といった感じの、たわいのない言葉。
言葉が流れるのは、隣の白無垢へ。
初めよりも、ずいぶんと形を明確にした狐の妖(あやかし)。
――――
異ならないのは、今も昔も変わらず、淡々と人形を見つめている狐の瞳だけ。
その瞳が、わずかばかりの――狐にとっては、珍しい――疑念を浮かべている。
――――
人形には、視線の意味がわかっている。自分が口にしたことの内容も含めて。
だから、狐が口を開くのがどこか重たげな理由も、理解していた。
……なぜ、そんなことを
他者へと興味を向けた言葉。
人形もそれを感じとり、薄く微笑む。
……ふふ♪
――他者へと興味を向ける。狐にとって、それはとても珍しいこと。
人形は、身をもってそれを知っている。知るほどの年月を、重ねてきたのだから。
ゆえに、今回の狐の反応は、人形を興奮させた。
――対象を明確に、人形へ向けて話しかけてきたのだから。
さあ? なんでかな、気まぐれよ
あっさりとした口調で、人形は返答する。
まるで、イタズラをしたのに反省していない子供のような、あどけない調子で。
そんな人形の態度に、狐は口を開く。
静かに、静かに、けれどなにかを抑えたような、重い口調で。
……妖(あやかし)殺しは、危険。知っている、はず
――妖(あやかし)殺し。
人間と非なる者達同士で殺めあってしまう、意味だけならばシンプルな言葉。
だが、その意味は、人間の同胞殺しと同じ意味を持つ。
手にかけた者のどちらが残っても、罪人になることに変わりはない。
狐が口にした言葉は、妖(あやかし)としての戒めを問いていた。
ましてや、力を持った妖(あやかし)による異種殺しは、種族間での抗争へつながる可能性もある。
――だからこそ、妖(あやかし)達の緩衝材として、人間という相手が選ばれる。
自然の力から離れ、妖(あやかし)よりも弱く、自分達だけでふくれあがる者達。
遊びとしても、食料としても、人間は最適だった。
確かに昨今、人間達を狩るのは容易なことではない。
自分たちを含め、世界の全てを灰にしてしまうほどの力を、彼らは手に入れてしまってもいる。
だが、人形の言葉のニュアンスは、そう言ったものではなかった。
楽しんでいる、としか感じられない響き。危険の始まりを、人形は戯(たわむ)れと言っている。
禁忌に触れる人形へ、狐は強い視線を向ける。
(――遊びなら、過ぎたことであることも知るべきだ)
狐の瞳は、人形にそう訴えかけているような強い意志を感じさせた。
だが――狐に向ける人形の瞳もまた、戯れの色だけをしているわけではなかった。
そうね。けど、比較にならない
比較?
怪訝な瞳を向ける狐。
人形には、そんな狐の様子が愉快でたまらない。
(――こんな、あなたの表情。初めて)
口元の微笑を抑えられないまま、胸元に手を当てて、理由を告げる。
飢えが満たされるの。もう、人間なんかの温もりじゃ足りないの
……それほど、力を使うことがあるのか
あるわ
人形は断言する。口元の微笑を変えないままに。
そんな彼女を見ながら、狐は、どこか言い含めるような口調で言った。
……君は、変わっていない。初めて会った、あの時から
それは、狐にわかる、最大限の人形への言葉。
人形は、狐に感じ取れる範囲で、そのような大事に巻き込まれているとは感じられない。
不器用な、物言いではある。
変わっているわ
そう言って、一拍もおかず。
いえ、確かに変わってないかもね
人形の微笑は、確かに、以前と変わらない。
ただし――その彫りこみが、ひどく歪で、とても深く、剥がれないものであること以外は。
ねえ。なんで乾いているのか、あんたはわかるかしら?
まるで、イタズラ好きの教師のような、人形の物言い。
狐の立場は、回答を知りながら返答を許されない、学生のよう。
そんな状況下でできることは――期待する教師への、ささやかな反抗。
……人形のことは、わからない
狐はそう告げ、瞳を伏せる。見るものが見れば、狐の周囲がおぼろげになったことに、気づいたかもしれない。
そう。やっぱり、あんたは、そう答えるのね
すっと、人形は懐に手を入れる。
取り出したのは、以前に被った狐の面。
人形は『似合っていない』と言われたそれを、ゆっくりと自身の眼前へと持ってゆく。
わたしは、何者にもなれないわ
その言葉の意味は、狐に対する面という、捻くれた皮肉。
でも、あんたは何者にでもなれる。それは、残酷だわ。とってもとっても、残酷
人形の当てこするような言い方に、狐も眉をひそめながら視線を向ける。
そうでもしなければ、けれど、狐は真実に近い言葉を口にしない。
お互いに、それはよく知り合ってしまっている。
だから、狐は告げる。
……わたしはなににでもなれる。けど……本当に相手が望むモノには、なれない
近づけば、さらけ出すものでもない。
狐が見せるのは、相手が望む理想だけ。
理想は、本当の幸せとばかり限らない。
嘘
面の奥から聞こえる人形の声は、ひどく、くぐもっている。
以前なら、その面を外して、声を伝えたというのに。
面越しのくぐもりをこそ、聞かせたいかのように。
人形は、狐の仮面をつけながら、告げる。
それも嘘。あれも嘘。あっちもこっちも嘘ばかり。今日のあんたも、前のあんたも、始めてのあんたも、みんな嘘
せきを切るように、人形の口から感情があふれ出す。
くぐもったままで。過去よりも激しく。溢れかえるように。
狐面越しに伝えられる、吹き出る言葉。
ねえ教えてよ。どれが、本当のあんたなの? それとも、本当なんてないの? まさか、視ている今が本当だとでも言うの?
狐の面をまとうことで、まるで狐の姿を手に入れることで、ようやく言葉を得たような、途切れない言葉。
……ねえ。あんたは、狐と呼ばれているモノですらあるの?
その言葉を境に生まれる、かすかな静寂。
止まった時を破ったのは、またしても人形の方だった。
ぽつり、と口を開く。
偽りの幻想が、生き延びるための必需品。わたしは、そういうふうに、人によって造られた。同種じゃない、同形殺しをするために
絞り出すような声。
最後に、本当に最後に、人形は狐に問いかける。
……あんたは、なんのために、生きてるの?
かすかな、ほんのかすかな、人形の声の震え。
けれど、狐は黙したまま、静かな瞳を人形に向けるだけ。
忘れないのは、その二つの瞳だけ。
視ているうちは覚えている。けれど、外せば忘れてしまうその姿。
狐の操る、幻の姿。
……
……
……
狐がとる人間の姿形。それは、全て化生のもの。
与えられるのは、偽りの視界。幻想の理想。
それこそが狐。妖(あやかし)として、狐がとるべき、理想の姿。
――あれだけの時を過ごしながら、人形は狐の姿を覚えていない。覚えることが、許されていない。
……ねえ。もう、黙るのはやめてよ
その言葉だけ、透き通る、抑揚のない、まさに人形のような言葉で。
すでに外した、狐面の下も蒼白で。
人形の表情は、能面の、色を失くした和人形さながらで。
造り物の造った、本当の造り言葉で。
けれどそれは、造りモノが造りあげるべき、固い固い、形としての理想でもあって。
その理想をささやかれ、受け止める狐の瞳。
狐は、口を開く。
なにを言えば、いいのか。……わたしには、わからない
それでも――揺らがない。
それこそが――狐が狐であるという、存在にあるのだから。
……そうね。そうかも、しれないわね
わかっていたとでもいうように。
理解していたとでもいうふうに。
お互いの距離は、始まりも終わりもないということに。
人形と狐のモデルは、その境界を踏み越えることはないままに。
その夜は、どちらともなく気配を消した。
姿を消した、と考えるのが妥当だった。
だが、もしかすれば、隣り合い続けていたのかもしれない。
狐と人形は、距離感のみを消しただけなのかもしれない。
曖昧なままで、つかず離れず。
だからこそ、それは不安定な距離間を成していた。
言うなればそれは、曖昧で強固な、だからこそ存在しない、『縁』という名の鎖だった。
……それゆえに、その『縁』は、両者の溝もよく知っていた。