翌朝。
まだ空気が青くピンと張りつめる中、目覚めたばかりの鳥たちの声が森中に響いています。
絵描きは昨日と同じ場所に座り、薄明るい森の中でフタリシズカのスケッチをしていました。
翌朝。
まだ空気が青くピンと張りつめる中、目覚めたばかりの鳥たちの声が森中に響いています。
絵描きは昨日と同じ場所に座り、薄明るい森の中でフタリシズカのスケッチをしていました。
そこへ昨日の娘が滝の向こうからやって来ました。
おはようございます
おはようございます
随分と早起きですね
絵描きさんこそ
ふふ
今日も画帳の続きを見ますか
続きも見たいのですけど、
今日はぜひ描きながらお話を聞かせて下さい
わかりました
…では今日はどんな話をしましょうか…
うーん…
あ、そうだ絵描きさん。
あのスケッチブックには
何も描かないのですか
娘は置きっぱなしの大きなスケッチブックを指差して言いました。
ああ、あれはいずれ…
ただ、今はまだ描けないので…
そうですか…
何を描くおつもりなのですか?
お花の絵でしょうか?
よろしければご覧になりますか
花の絵では御座いませんが
はい、ぜひ!
娘は分厚いスケッチブックの頁を一枚めくりました。
現われたのは、吸い込まれそうな美しい青色。
そしてその中央には
不思議な生き物が描かれていました。
次の頁にもその次の頁にも、
溜息の出そうな美しい青色と魚のような蛇のような不思議な生物の絵が何枚も何枚も描かれております。
娘はしばらくその絵に見入っていました。
これは…
絵描きは娘の顔を見ながらはっきりとした口調で答えました。
ヌシの絵です。
私は川や池に棲むヌシを描きとめるため旅をしているんです。
…この滝に来たのもそのためです
娘は一瞬顔を曇らせ、聞き返しました。
…どうしてヌシの絵を描いているのですか
初めてヌシに出会った日から…
どうしても描かずにはいられないのです…
…それに、私は1つのヌシを描き上げるまで
一睡も眠ることが出来ません。
しかし、ヌシを描き上げると途端に意識が遠のいて、目を覚ますとまったく別の知らない世界に来ている…そしてまたその世界でヌシを描くまで眠れない…
夢の中で夢を見続けるようにずっと旅をしているのです
…!
娘は悲しげな表情を浮かべ
無言のまま滝壺を見つめていました。
絵描きはそれ以上語らず、
静かにスケッチの続きを描き始めました。
早朝の森はいつの間にか明るくなっていて、川の水が陽の光を反射し青く透き通るように輝いておりました。
時々、二人の間を風が通り抜けては木陰を揺らしています。
しばらくして、娘が口を開きました。
ねえ絵描きさん、
いつまでもここへ居てはくれませんか。
ヌシを描かなければずっとここに居られるのでしょう?
絵描きは筆を止め娘の目を見て言いました。
申し訳ないが、それはできません。
私は…あなたを描きたい。
!
知っていたのですね
はい
しかし人の姿になって現れたのはあなたが初めてですよ
…
…絵描きさん、
私はずっと一人ぼっちでした。
ここは本当に深い山だから、
人などほとんど来ないのです。
…それに、もし来たとしても私の姿は
ほとんどの人の目には映りません。
私はこれから先もずっと一人ぼっちのままなのだと思っていました
絵描きさんは…
永遠に続く夢が怖くはないのですか
私もいつまで続くのかと
不安になることはあります。
でもいつか必ず
夢が覚める日が来ると信じています。
夢も現実も永遠に変わらぬものなど、
ありはしませんよ
…
娘は俯いて、しばらく何かを考えているようでした。
そして顔を上げ、言いました。
ねえ絵描きさん。
もう少しだけ私に夢を見させて下さい
旅のお話をもっと聞きたいんです…
はい、構いませんよ
ありがとうございます
絵描きはフタリシズカを描きながら、今までの不思議な出来事や出会ったヌシたちのことを語りました。
それを娘は大変幸せそうな顔で聞いていました。
時間はあっという間に過ぎて、
さっき顔を出したばかりの日はいつの間にか山の陰に沈みかけていました。
絵描きさん、私夜が苦手なのでそろそろ帰らなければいけません
あ、集落ではないんですが…
ふふ、分かっていますよ
あの…
明日もお話を聞かせてくれませんか
いいですよ
あなたにすべて任せます
ありがとう絵描きさん、
あなたはとてもお優しいのですね
それではまた明日…
娘は暗くなりかけた山の中へと消えてゆきました。
それを見送り、絵描きはフタリシズカを描き上げた画帳をそっと閉じました。