深い深い森の奥、
とてもよく澄んだ小さな川が在りました。
川沿いには苔むした大岩が立ち並び、
頭上では木々が自由に枝を巡らせ、透き通るような若葉が初夏の日差しを遮っています。
木々の間には美しい小鳥のさえずりが響き、
岩の陰からはホロホロとカジカの歌う声が聞こえました。
その岸辺を一人の男が歩いておりました。
男は大きな荷物を背負い、岸辺にかかった蜘蛛の糸を払いながら川を登ってゆきます。
時々、心地の良い風が通り過ぎては男の銀色の髪を揺らしました。
深い深い森の奥、
とてもよく澄んだ小さな川が在りました。
川沿いには苔むした大岩が立ち並び、
頭上では木々が自由に枝を巡らせ、透き通るような若葉が初夏の日差しを遮っています。
木々の間には美しい小鳥のさえずりが響き、
岩の陰からはホロホロとカジカの歌う声が聞こえました。
その岸辺を一人の男が歩いておりました。
男は大きな荷物を背負い、岸辺にかかった蜘蛛の糸を払いながら川を登ってゆきます。
時々、心地の良い風が通り過ぎては男の銀色の髪を揺らしました。
随分と登った頃、
視界が急に開けて目の前に小さな滝が現れました。
滝壺は何処までも深く青く、
木漏れ日を反射して美しく輝いております。
この辺りか
男はそう呟くと、平らな岩の上に背負っていた荷物をおろしました。
そして中から筆やパレットを取り出し、バケツに川の水を汲むと、最後に大きなスケッチブックを開き腰をおろしました。
ふう
男は大きく息を吐き、ゆっくりと辺りを見回しました。
滝の音と、何処から聞こえる美しい小鳥のさえずりが男の疲れた体に沁み渡ります。
ふと目をやると、近くの岩の陰に小さな白い花があるのに気が付きました。
フタリシズカか…綺麗に咲いている
しばらくこれを描いて待つか…
男は荷物の中から小さな画帳を取り出し、白い花のスケッチを始めました。
あのう…
わあっ
突然、背後から声がして男は大きく飛び上がりました。
あ、ごめんなさい…驚かせてしまって
いえ、こちらこそ失礼。
まさかこんな山奥に人がいるとは思っていなかったもので…
声を掛けてきたのは藤色の着物を着た美しい娘でした。
私もこんな所に人が来ているとは思っ
てもみませんでした。
私はこの上の集落に住んでいる者です
そうでしたか…こんな奥に集落があったとは知りませんでした
余所から人が来ることなんてほとんどありませんから…誰も知らないんです。
あなたは旅人さんですか?
まあ
あ、フタリシズカを描いていらっしゃるのですね、とてもお上手。
私この花が大好きなんです
私もです。
ここのフタリシズカは今まで見た中で一番美しい…きっと水が良いのでしょう
まあ、嬉しい!
私、外へ行ったことがないから他の山のことは何も知らないんです…もし宜しければ旅のお話を聞かせてはくれませんか?
構いませんよ
…これ、ご覧になりますか。
今まで出会った珍しい花などもありますよ
絵描きは画帳をぱらぱらとめくって見せました。
そこには数えきれないほどのあらゆる植物が細密に描かれています。
わあ、宜しいのですか…描いている最中でしたのに…
いいんですよ。
これは暇潰しに描いているようなものですから
ではぜひ
娘は絵描きから画帳を受け取ると1頁1頁食い入るように見ながら、花の名前や旅の出来事を訊ねては大変興味深く聞いていました。
七年に一度現れる幻の池の話、
赤い川の話、
毎日広がり続ける湖の話…。
絵描きの旅の話は四季折々、様々な土地のものばかりで、とても数十年で経験できるものではないように思えました。
それに、この画帳。
見た目は百頁ほどに見えるのに、どんなにめくっても最後の頁に辿り着く気配がありません。
まるで無限に頁が増えているようでした。
しかし、娘は不思議に思いながらもあえてそれを聞くことはしませんでした。
娘にとって絵描きの話は本当に新鮮で、いつまでも聞いていたいとさえ思っていました。
娘の質問も絵描きの話もまったく途絶えることを知らず、あっという間に時間は過ぎてゆきました。
やがて日が傾き、夜の虫たちの声が聞こえ始めました。
もっとあなたのお話を聞いていたいのですけれど、そろそろ帰らなくてはなりません。
絵描きさん、よろしければうちへ泊まってゆきませんか
ありがとうございます
しかし私はここで大丈夫です
こんな山の中で…本当にいいのですか
はい、慣れていますのでお気遣いなく
そうですか…
あの…明日もお話を聞きに来てもよろしいでしょうか?
…お好きなように
有難う御座います!
ではまた明日
娘はそう言い残し、山の奥へと駆けてゆきました。
それを見送って絵描きは大きな溜息をつきました。
悪い夢でないといいが…
しかし何処へ連れて行くつもりだったのだろうか