翌朝、
空が白み始めた頃、静かな山に小鳥の歌声と滝の音が響いておりました。

絵描きは筆を置いたまま、ぼんやりと小さな滝を眺めていました。
すぐ傍らでは、フタリシズカが大きな葉の間から二本の花序を伸ばして美しく佇んでいます。



何処からか目の冴えるような青色のオオルリがやってきて滝壺の淵の岩に止まりました。

そしてしばらく美しい声で囀り、
また何処かへ飛んでゆきました。




するとその時、
急に辺りの音が遠くなり
目の前の滝の音さえも聞こえなくなりました。

絵描きがはっとして筆を取ったのと同時に、
まだ薄暗い滝壺の中に虹色の影が浮かび上がりました。


水中をゆったりと泳ぐそれは虹色の鱗を纏い、
四本の角を持った小さな竜のような生物でした。

日の光もまだ差さぬというのに、その体は美しく光輝き、滝壺の水を青く照らしだしています。



しかし絵描きの目には
この生物がとても悲しげに映りました。

絵描きは無言のまま、大きなスケッチブックを手に取ると真っ白な紙の上でまるで何かをなぞるかのように迷いなく筆を動かしてゆきます。



竜のような生物はあっという間に滝壺の底へと姿を消し、それと同時に静寂だった世界にも音が戻ってきました。

しかし絵描きの目にはまるでまだその生物が見えているかのように、その後も筆が止まることはありませんでした。







そして辺りに陽の光が満ちた頃には、一枚の美しいヌシの絵が完成していました。

絵描きは朦朧とるす意識の中、
滝壺に向かって小さな画帳を差し出しました。

ぜひこれを受け取って下さい
最後のフタリシズカはあなた
の為に描きました。
私はあなたのことを決して忘れません…

……

深い水底へ沈んでいくような感覚の中

声がしたがその言葉を理解することは出来ませんでした





雨の音で目を覚ますと、
絵描きは見知らぬ洞穴の中にいました。

外には真っ白な白樺の木々が立ち並び、
空はどんよりと暗く曇っていて雨はしばらく止みそうにありません。


絵描きが思い出したように荷物を開けると
そこには小さな画帳がありました。

やはり夢だったのだろうか…

絵描きは大きな溜息をつきました。

画帳を開くと、
そこにはフタリシズカの絵が描かれています。

そして大きなスケッチブックの中には、
どこか悲しげな
美しいヌシの姿が描かれているのでした。



-終-

pagetop