ぐおッ!?

後頭部を衝撃が襲った。
彼は突然の痛みに驚愕し、次いで呻いた。

ぐ、ぐ……

後頭部を両手で覆い、固い地面を転がる。

(何が起きた!?)

痛みと驚愕に揺らぐ思考。

(あの勇者が何かしたのか?)

痛みの直前までの記憶はそれだ。しかし、己の本能がそれを否定している。

何とか目を開け、ぼやける視界で周囲を確認する。
少しずつ焦点が定まり、彼の目にまったく予想もしなかった光景が広がっていた。

ここは、どこだ

周りを見回すと、彼のいる場所の四方に篝火が立てられていた。それによって今が夜で、周囲が深い森に覆われていることが分かる。
固いと思っていた床は、どうやら地面を掘って平石を敷き詰めたものらしい。
周囲一〇メートルほどの地面が同じように加工され、そこに複雑な文字がびっしりと書き込まれていた。

祭壇か?

そして石畳の中心に、一抱えほどの大きさの石を加工した台がある。上には宝石で装飾された鏡とナイフ、そして水晶玉。それはかつて彼が用いていた祭祀場によく似ていた。

 その代わりなのか、周囲の空気が高濃度の魔力を帯びている。
 かつての場所にそのような地があれば、自分が気付かない訳も手を伸ばさない理由もない。故に、彼はこの場所を異なる世界だと判断した。

だが、俺はこのような場所など知らんぞ。それに、俺は完全に消滅したはずだ

勇者と呼ばれる天敵との戦いの記憶はまったく薄れていない。
自分は間違いなく、世界がそう予定した通りにあの場から退場したはずだ。それが魔王としての役目なのだから。

消滅した者が新たに生を得るなどという話は聞いたことがない。それに、この世界は俺がいた世界とは違う

夜空を見上げれば、まったく知らない姿の月が浮かんでいた。
彼の知る月は、魔力生成炉である恒星から魔力を受け、より適した形に変化させて地上へと送る反射鏡だった。だが、今浮かんでいる月は多少の魔力を感じさせるものの、かつてのような力はない

その代わりなのか、周囲の空気が高濃度の魔力を帯びている。

かつての場所にそのような地があれば、自分が気付かない訳も手を伸ばさない理由もない。故に、彼はこの場所を異なる世界だと判断した。

くそ

小さく吐き捨て、彼は立ち上がる。
だが、それにも多大な苦労を要した。身体がまるで言うことを聞かないのである。
 傷を負った感覚はない。だが、どうにも身体が重い。

一体何がどうなって――!?

自分はどうなってしまったのだと両手を目の前に差し出してみると、そこにあったのは皺に塗れた老人の手。
彼はそのまま自分の顔に触れ、同じように皺だらけの皮膚があることを確認すると、慌てて祭壇に駆け寄り、鏡を覗き込んだ。

ふ……ふふ……

映し出されたものを見て、彼は笑いを堪えきれなかった。

ふははははははははっ!! 醜悪、実に醜悪。貴様この世界をどれほど憎んでいたのだ?

鏡には、深い皺と落ち窪んだ眼窩の醜い老人の顔が写っていた。
笑みを浮かべてなお拭いきれない憎悪。まるで憎しみが人の形をとったかのようにさえ感じる。

あの世界に貴様がいたら、配下に加えていたかもしれんな

彼はそこで、祭壇の片隅に置かれた本に気付く。
それを手に取り、捲っていく。日記とも、研究記録とも言い切れないものだった。
記された概念を直接読み取る彼にとって、文字はほとんど意味がない。
この老人が何故ここにいたのか、そして何故自分がここに居るのか必要な情報だけを読む。

――ああ、貴様は世界に復讐しようとしていたのか

老人は宮廷魔道士としての地位を追われ、刺客によって家族を殺されていた。
追っ手から逃れつつ、復讐のための知識を蓄え、異なる世界から邪悪な存在を召喚する術を開発した。
長い時間を掛けて各地を巡り、星辰を詳らかにし、この地が儀式にもっとも適していると知ると、老体に鞭打ちながら祭祀場を整え、この日ようやく悲願を遂げた。

だが貴様、死んだな? 悲願の成就を前にして、その矮小な肉体故に!

老人は儀式の最中、命を落とした。
外的要因ではなくただの寿命だ。
しかし術者の死によって儀式手順は狂い、邪悪なる存在を呼び寄せることには成功したものの、それをこの世界に固定するための器を用意できなかった。
大いなる魔法の才を持った、老人の身体以外は。

そうか! そうか! そうか!! やはり貴様は、なかなか見所のある男だったのだな!

彼は心底楽しそうにページを捲る。

実に素晴らしい。何もかもを恨み、憎み、そしてそれを力に変えた! 世の総てが貴様を邪悪と罵るだろう! だがそれこそが貴様にとっての復讐! 貴様の存在を世界が認めれば認めるほど、貴様の願いは成就する!

素晴らしい生き様だった。
ただひとつの欲望のために己の人生を最後まで燃やし尽くしたのだ。魔にあって魔を生きる者たちよりも、よほど純粋な“悪”である。

ふははは! そして、未練さえも忘れていない! これぞ人の子よ!

最後のページに綴られた家族への想い。それは全くの無垢であり、邪念に曇っている様子もない。そんな男が、異なる世界で悪の中の悪と呼ばれた者の魂を引き寄せたのだ。
この上なく愉快だった。
彼にとってこの世でもっとも尊いものは、意思ある者の欲望だ。あらゆる者の欲望が彼に力を与え、その存在を定義する。
かつての彼であれば、褒美のひとつも取らせただろう。それほどまでに、彼はこの老人の人生を気に入った。

勿体ないことをした。あと少しだけ早くあの勇者に滅ぼされてやっていれば、貴様の願いを完全に叶えてやれたものを!!

しかし、ままならぬからこそ欲望は生まれる。
すべてが満たされ、欲望が失われた世界に彼は存在できない。
彼は一頻り笑うと、再び鏡を覗き込む。

これが人であれば、褒美代わりに家族とともに弔うのであろう。 だがもはやこの身体は俺のものだ。火にくべて葬ってやることはできん

彼は己を楽しませたこの老人を気に入った。その人生そのものを悲劇として彼に奉納したのだ、その代価を支払うことに躊躇いはない。

ああ、これでいいか

彼は自らの手の中にある本を見下ろした。
老人の意思をこの世界に残しているものはもはやこれだけだ。これこそが今の老人そのものと言っても良い。

ならば、逝くがよい

彼はふわりと本を浮き上がらせ、篝火のひとつにそれを放り込んだ。

と、大きな炎が上がり、火の付いた紙片が夜空へと登っていく。

良き見世物であった。次はもっと俺を楽しませよ!

彼は名も知らぬ老人をそう言って見送った。

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