しかし、この身体は腹が減る

しかも、どれほど先があるとも分からぬほど老いているときた

まず食料を確保しなければならなかった。
以前ならば何も口に入れずとも死ぬことはなかったが、この身体は外部から栄養を取り込まなければ容易く衰えてしまう。

その先に待っているのは『死』だ
それもなかなか贅沢ではあるが、ここで尽きるのもつまらん

ならばどうするか――
この男の答えは何とも分かりやすいものだった。

身体を作り直したのだ。

くく、なかなかいいじゃないか

鏡で顔を確認し、若い人間が悪辣な笑みを浮かべているのを見て、彼はそう漏らした。

新しい身体ならば、周囲の森で動物を狩ることなど造作もない。
魔法で獲物を仕留め、祭壇にあった短剣で獲物を捌く。そして荷物の中にあった調味料を適当に使い、食らった。
狩りや料理は、概念としては理解していたものの、自分がそれを行うことになるとは思っていなかった。だが、存外悪くはない。

さて、いつまでもここに居るわけにはいかないな

やがて、彼は荷物の中にあった別の本からある程度の知識を手に入れると、この場所から移動することを決めた。
同じく荷物の中にあった地図によると、ここは〈グラント〉という小国の僻地らしい。近くに村があるらしく、老人はこの地を訪れてからずっと、そこで生活に必要な様々なものを手に入れていたようだ。

何の因果か消滅を免れたのだ
与えられた役目もない
ならば、適当に楽しませて貰うとしよう

ローブを纏い、短杖を腰に差し、荷物の入った革袋を担ぐ。
彼は最後にひとりの老人が命を落とした祭祀場を振り返り、酷薄な笑みを浮かべてその場を立ち去る。
その旅立ちに怯えるように、空が急速に鈍色へと変わっていった。

いたっ

地面から顔を出していた木の根に足を取られ、アイリーンは地面に倒れた。
愛用の杖が遠くに転がり、彼女は尻餅を付く。

おい、こっちだ!

聞こえてきたその声に、彼女は慌てて両手を使って後退る。
しかしすぐに背中が何かにぶつかり、それ以上下がることはできなくなってしまった。

そんな……

背後には巨大な木があり、周囲は開けている。
その天然の広場に、ほとんどその機能を失っているだろう皮鎧や、ぼろぼろの衣服を纏った男たちが姿を見せた。
その数、四人。

へへ……
その足でよくもまあ、散々手こずらせてくれたな

その中でもっとも年嵩の男が、アイリーンの姿に舌舐めずりする。
男の視線が下卑た感情に支配されていることを見て取ると、彼女は怯えたように身体を萎縮させた。

でもまあ、わざわざ村から遠ざかってくれたんだ。その期待には応えないとなぁ?

男の言葉に、残る三人がげらげらと笑い声を上げる。

早く済ませようぜ、野営地に戻るのが遅くなったらドヤされちまうよ

分かってるっての、こういうのは下拵えってのが大事なんだよ

山賊が出るなどという話は、村から出発するときもまったく聞かされていなかった
もしそんなことになっていれば、そもそも自分のような戦う力を持たない人間は、村から出ることさえ許されなかっただろう。

おい

ひっ

男が目の前に屈み込み、手に持った刃毀れだらけの短剣をこちらに突き付けてくる。その刃を見て悲鳴を上げたアイリーンだが、鈍い光を放つそれはゆっくりと彼女の胸元へ下がっていく。
服を留めている革紐が切られ、ボタンの糸が切られ、少しずつ肌が晒されていく。

や、やめてください……!

アイリーンはこれから自分に降り掛かることを知っていた。
ある程度の年齢になれば、誰もが親や村の大人から聞かされることだ。
それが嫌ならば危険には近付くなと。

やっぱり若い娘はいいなぁ。街の娼婦なんかとは反応が違う

肩を揺らしながら男が笑う。
残る男たちも似たような表情でアイリーンを囲み、見下ろしていた。

何でこんなことに……

自分は母の代わりに山菜を採りに来ただけだった。
生まれつき足が悪い自分でも、村の周囲だけならばひとりで行き来することができる。こうして山菜採りに出掛けるのも、ほとんど日課のようなものだった。

かえして……

ああ?

涙が溢れる。

村に帰してください……食料なら分けて差し上げますから……

アイリーンは目の前の男たちが、生きるために人々を襲っているのだと思っていた。
そうしなければ生きていけない可哀想な人々なのだと。
それが表情に出ていたのだろう、男はアイリーンの顔を見て一瞬呆然とし、続いて真っ赤に紅潮した顔で腕を振った。

あう……!

男の手の甲が、アイリーンの頬を打ち据える。
そのまま倒れそうになった彼女の身体を、男が無理やり引き戻した。

おい女、俺らはお前みたいな病人に心配されるほどやわじゃねえんだよ
それに食べ物だってわざわざ頭を下げて分けて貰う必要もない
全部まとめて奪えばいいんだからな

――!!

男の言葉の真意に気付けないほど、アイリーンは馬鹿ではなかった。
この男たちは自分たちの村を襲おうとしている。

やめてください!
そんなことをすればあなたたちだって!

俺たちがなんだ?

そこで浮かべた男の顔は、アイリーンにとって衝撃的だった。
略奪行為はその程度に関わらず、捕らえられてすぐ死罪である。だというのに、男はそれを恐れる様子がない。

領主様の警備隊が俺たちを捕まえに来るってか? ぎゃはははは!

ひとりの男が笑い声を上げると、目の前の男を含めた三人が同じように哄笑した。
アイリーンはその笑いの意味が理解できず、また突然目の前に迫ってきた男の手を避けることができなかった。

んん!?

口を押さえられ、くぐもった声しか出すことができない。
そのまま両脚を押し広げられ、身体を押し付けられる。

~~ッ!!

アイリーンは首を振り、両脚を――片方は弱々しい動きだが――ばたつかせて必死に抵抗する。だが、彼女の力は男を押し退けることさえできない。

やっぱり、こういう顔が最高だ

男は涙を浮かべるアイリーンの表情を見て大いに喜んだ。
残る男たちもそれを囃し立て、彼女の服へ男の手が伸びる。

んん~~!!

死にたくない!
何でこんな……こんな所で今日死なないといけないの!?

明日も明後日も、もっと先も生きていたい。
 行き過ぎた幸せなど求めない。だが、人として平凡な幸福くらい手に入れたい。
(嫌だ!!)
 声にならない悲鳴――或いは願い。
 そこにいる五人以外、誰の耳にも届かない声。
 そのはずだった。

嫌だ!!

 突然の高笑いが、その場に木霊する。誰もが動きを止め、その声の正体を探った。

ふはははははははっ!!

実に素晴らしい!
良い欲望だ、女、女、おんなぁっ!!
なるほど男ならばそうでなくてはなぁ

拍手と共に聞こえてくるのはバリトン。
脳の中に直接響くような声だった。

だが、つまらん!!

ご、と鈍い音を立ててアイリーンにのし掛かっていた男の側頭部に拳大の石がめり込む。

ぐっ!?

男は一瞬で白目を剥き、ばたりと倒れた。アイリーンは無意識のうちに服をたぐり寄せ、その場で小さくなる

っ!!

誰だぁ!?

慌てて身構える男。
しかしその腰は引けており、まともに戦えるとは到底思えない。

つまらん、つまらん!
たった一晩を望む欲望だけでは俺の腹は膨れん!
四人も居てその女ひとりの欲望にすら勝てぬとは、情けない限り!!

再び飛来する礫。
今度は尖った石で、声を上げた男の肩に突き刺さった。

ぎゃあああああああッ!?

肩を押さえ蹲る男。
残ったふたりが礫が飛んできた方向へと顔を向けた。

お、お前は一体

貴様らは何故それほどつまらぬのだ?
人間だろう?
人間なのだろう?
分不相応な願いを延々と抱き続け、いずれそれを成就させるのが人間であろう?
魔王を滅ぼすほどの、世界を救うほどの欲望を抱くのが貴様ら人間なのだろう!?

狂ったかのような笑みを顔に貼り付け、しかしそこには他を圧倒する理性がある。

ま、魔法使い!

若い男は手のひらの上でふたつの石を浮かべている。それは若い男が魔法の使い手であることの証拠だった。
だが、若い男が発した言葉の意味は半分も理解できない。
欲望?
一体何を言っているのだ。

魔法使いが何でこんな場所にいるんだ!?

魔法使い?
何を言うか、俺は魔の王
世界の欲望を体現する者ぞ

ま、魔王? そんなお伽噺みたいな……

冷や汗を浮かべてじりじりと下がりながら、男は目の前の魔法使いの正体を探ろうとした。
しかし、それは許されなかった。

物語は貴様らの欲望の現れ、なるほど俺のような魔王はお伽噺の存在だ。しかし、俺はここにいるぞ?

そう言った刹那、手のひらの石がふたつ同時に男たちへと放たれる。
男たちはそれを防ごうと腕を前に出したが、その程度で防げるほど石は小さくも軽くもない。

ぎゃッ!?

石は男たちの腕の骨をへし折り、残った力でその身体を吹き飛ばした。
地面に転がって呻き、芋虫のように身動ぐ男たちの姿に、アイリーンは呆然とする。

どうだ? 確かに俺はここにいるだろう
貴様らがそこで這いつくばっているのは、夢でも幻でもないのだからな

男は地面に転がる賊のひとりに近付くと、その頭を踏み付ける。

恥じるが良い。小娘ひとりに勝てぬ己をな

そのまま頭を蹴り飛ばし、賊の意識を刈り取る。
アイリーンはその姿に恐怖を抱き、身体を震わせた。

そこな娘

は、はい!

次は自分か。
あの言動だ。彼女は目の前の若い男が正義感から自分を助けた訳ではないと気付いていた。

魔王……そんなもの聞いたことがない
でも、この人は……

この男が、常人と異なる価値観を持っているのは間違いない。その価値観によって自分は一時的に救われた。
だが、それが単なる気紛れである可能性は否定できない。彼女は四方に手を伸ばし、身を守ろうと武器になるものを探した。
しかし、地面には何もない。せいぜい、小石が転がっているだけだ。投げ付けたところで結果は変わらないだろう。

そんな……

アイリーンは絶望した。結局何も変わらなかったのかと悲しくなった。
だがこの時確かに、彼女の運命は大きく変わっていた。

これは貴様のものか

え?

男は地面に転がっていた杖を手にとり、それを彼女に差し出している。

その服装、近くの村に住む者だろう

はい、そうですが

この男は村に一体何の用があるのだろうか。
アイリーンは警戒しつつも、杖を受け取った。

時間があるならそこまで案内せよ
無論、お前がこいつらのいる森にまだ残っていたいというなら、止めはしないがな

男がそう言って周囲の男たちに視線をくれる。
よく見れば、その全員とも命を奪われた訳ではないようだ。
このままここに残っていれば、再び同じ目に遭うかもしれない。
アイリーンは先ほどまでの光景を思い出してぶるりと身体を震わせ、杖を使って立ち上がった。
そして、恐怖に潰されそうになる自分を奮い立たせながら言った。

分かりました、ご案内します。ですが……

ん?

若い男は小さく首を傾げる。
アイリーンはこれまでとは趣きのまったく異なるその仕草に愛敬を感じ、少しだけ肩の力を抜いた。

せめて、お名前をお聞かせください

――ふ、ふふふ

男はアイリーンの言葉に笑い声を上げた。何が面白いのかと訝るアイリーンの前で、腰を折ってさらに笑い声を上げる。

名か! 俺の、俺だけの!

かつての彼には名前などなかった
西からの侵攻者――ゼファールドと呼ばれるようになり、やがてそれが彼の名前であるかのように扱われた
しかし、それは本来の彼の名ではない。彼は名前など持っていない持つ必要がないからだ
魔王――――ただそれだけで総てが事足りた

くく、くはははははははははッ!!

この世界は彼を知らない
なんの役割も持たされていない
魔王を現す言葉は、それしか存在しなかった。ならば欲望かと考えたが、それでは逆に数が多すぎる

ならば、名は必要だな。しかし、名など俺には……

魔王を現す言葉は、それしか存在しなかった。ならば欲望かと考えたが、それでは逆に数が多すぎる
彼は考える。己をもっとも現した言葉はなんだ
自分が自分だともっとも感じた音は何だ

あった

己がもっとも充実していた瞬間、己を示していた言葉
それこそが己の名に相応しい

よい、これでよい!

彼は笑い声を止め、僅かに口の端を上げながらアイリーンに言った

ゼファー。俺の名はゼファーだ!

勇者よ、貴様が名付け親だ。
かつての魔王は心底嬉しそうに笑っていた。

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