― 1 ―

 次の日、俺たちは文芸部室にいた。

大神早紀

……来ると思ってたわ

 大神早紀は、意外なほど落ち着いていた。
――俺たちを殺そうとしていたとは思えないほど、涼しげな瞳だった。

中田 実

説明してもらおうか

大神早紀

すべては、ひとつの予言から始まったわ

中田 実

予言? 何の予言だ?

大神早紀

むかしむかしあるところに、お爺さんとお婆さんがいました……

中田 実

ふ、ふざけんな!

大神早紀

まじめな話よ。よく聞いて。昔話にある『桃太郎』、あれは未来を予言してるのよ

 河内も、あまりの突拍子のなさに苦笑しながらこう言い返した。

河内 優

俺にはとても、まじめな話をしているようには思えないんだが……

中田佳奈

そうよ。桃太郎は、予言じゃなくておとぎ話でしょ?

 しかし、早紀はにこりともせずにこう続けた。

大神早紀

ひとつの予言を、広く世に伝えたいと思ったら……物語の形として口伝するのもいい手だとは思わない?

 誰が作者なのかも判明していないおとぎ話。でもそのおとぎ話が、どんな意図で作られて、広められていったのか?……それを説明する前に、まず鬼についての話を聞いてね

 川を流れてきた大きな桃から、男の子が生まれるなんて荒唐無稽な話には、俺も正直あまり興味がなかった。しかし、鬼の話なら別だ。俺は現実に鬼を目撃し、何度も戦ってきている。

 俺のそんな思考を見透かしたのか、早紀はこちらを見てにこっと笑った後、まるで世間話をするみたいな明るい表情で、鬼について語り始めた。

大神早紀

私が使った鬼を操る力、あれは『鬼道』って呼ばれていてね。卑弥呼の時代からこの国に連綿と受け継がれている、まぁ呪いみたいなものよ。

 この能力には個人差があるわ。そして特に強い能力を持った一族は、鬼族(きぞく)と呼ばれたの

大神早紀

 歴史の教科書に載っている『貴族』は、この言葉が語源になっているのよ。鬼族は本当に鬼道が使えて、人を自在に操ることができる権力者。そして貴族は、能力もないくせにただ権力だけを持たされたもの……そんな違いはあるけどね。

 この国のタブーみたいになってるから、あんまり表舞台に出ることはないけど……歴史的な大事件には、たいてい私たち、鬼族の力が働いているわ。

中田佳奈

え? 私たち……って?

中田佳奈

大神の一族は、鬼族のなかでもかなり優秀な人材を輩出した家系よ。私のお父さんが、内閣で働いてるの知ってるでしょ? つまりそういうこと。鬼族は今でも、この国を動かしているわ

 話のスケールが大きくなってきて、なんだか実感が湧かない。しかし確かに鬼を放って人を自由に操れるなら政治の世界では、オールマイティの力を持つと言ってもいいのではないだろうか?

中田佳奈

でも、それと桃太郎の話と、どう関係があるの?

中田佳奈

そうね。やっと桃太郎まで話が戻ってきたわね。うふふ。ごめんなさい。話が長くて……

 あのね? 御伽草子って知ってる? 江戸時代に刊行された物語集よ。一寸法師や浦島太郎なんていう有名な昔話ばかりを集めた本なんだけど、でもね。桃太郎のお話って、あんなに有名なのに、この本には載ってないの。

 それだけじゃないわ。この時代、桃太郎の物語は幕府によって弾圧され、抹殺されようとした記録が残っている。……桃太郎は、江戸幕府にとって忌むべき物語だったのよ。そして、江戸幕府を陰で動かしていたのも私たち鬼族なの。

中田 実

まぁ確かに、鬼退治の話だからな

大神早紀

でも、たかがおとぎ話を、なぜ当時の鬼族たちがこれほどまでに恐れたのか、今となっては全くわからないわ。

 そんななか、この研究をしていた私のお父さんが、ひとつの仮説を立てたの。桃太郎の物語は、ただの作り話じゃないって……

中田 実

つまり、予言ってことか

大神早紀

そうね

中田 実

いや、でも……

大神早紀

聞いて。1868年の明治維新、ここから始まる何十年間かは、私たち鬼族が権力を追われた時代でもあるの。そしてその時期と重なるかのように、国定教科書に桃太郎のお話が載せられ、今では日本一有名な物語になったわ。

 つまり、鬼族にとって忌むべき物語が、それと対抗する勢力にとっては、広く普及させたい物語だったってことよね。……桃太郎の物語は、たかがおとぎ話ってことではすまされないくらい、その背後で多くの人たちが動いてるのよ。

 ……でも。よく考えてみて、桃から人が生まれるなんて、ナンセンスじゃない?

中田 実

それはさっき俺も思った。なんか、リアリティに欠けるって言うか……

大神早紀

でもね。実さん、あなた、桃から生まれたのよ

中田 実

え?

 一瞬、言っている意味がわからなかった。俺が桃から生まれた? いったい、どういう意味なんだ?

 驚いた表情のまま固まっている俺を見て、早紀はくすりと笑った。

大神早紀

17年前、この町の東にある河原で、女性の全裸バラバラ死体が発見されたわ。

 胴体だけ……それも臨月のお腹の死体がね。当時は結構大きなニュースになったから、調べたらすぐにわかるわよ。そして、その死体のお腹の中から、仮死状態になった男の赤ちゃんが発見されたの。

 ……中田君、それがあなたよ。臨月の女性の切り離された胴体部分は、まるで大きな白い桃みたいに見えたらしいわ。つまり桃から生まれたって、このことの暗喩なのよ

中田 実

う、嘘……だろ!?

 俺は、瞬間的に佳奈の顔を見る。

中田 実

だ、だって俺は、中田家の長男で、父さんと母さんの子供……な? 佳奈! そうだろ!?

 しかし佳奈は、黙って俯いていた。

中田 実

こ、答えてくれ! 佳奈!!

 俺は一瞬にして頭に血が上った。ほとんど怒鳴るような口調で、佳奈を問いただす。

中田 実

おい! 佳奈! お前、何を知ってるんだ? 俺は、お前の兄貴じゃないのか?

中田佳奈

ご、ごめんなさい!!

 そう言って、佳奈は泣き崩れた。

中田佳奈

ぐすっ……ご、ごめんね。私、聞いちゃったの! お父さんとお母さんが深刻そうに話してるところ……うぅっ……お兄ちゃんが十八歳になったら、ちゃんと話すって……

中田 実

そ、そんな……

 目の前が真っ暗になった。……そういえば、あのとき父さんがこう言ってた。

中田 徹

 母さん、体調を崩して……俺も精神的に、ちょっとやばかったかもしれない。

 夫婦の危機ってヤツだ。そのときに思ったんだ。このままじゃ駄目だ。俺たち、子供を持とうって……ちょうどそんな時期に、お前を授かった

 そうだ。よく考えたら、体調を崩してた母さんが俺を身ごもるなんて、ありえない話だ。

 あのとき父さんは『授かった』って言葉を使った。そう、『生まれた』なんて一言も言ってないんだ。……慎重に言葉を選んで、俺に嘘をつかないようにしてくれてたんだ。

 そして恐らくその後に――電話の割り込みさえなければ、俺に本当のことを打ち明けようとしていたんだ。

 気がつくと俺は泣いていた。心は凍ったまま、何の感情も浮かばないのに……ただ涙だけが、ぼろぼろとこぼれ落ちていた。

― 2 ―

大神早紀

冷静に話を聞ける状態じゃないかもしれないけど、続けるわね。

 バラバラ死体の胎内からから奇跡的に生まれた男の赤ちゃん、これが桃太郎で予言された子供ではないかと……当時、鬼族の人たちは思ったわ。それでずっと鬼を放って監視させていたのよ。その監視役を任されたのが、私たち大神の一族。もちろん私も手伝ったわ。

 最初の十六年間は、何も起こらなかった。でも、十七年目になって急に、あなたは鬼が見えるようになった。それで私たちは確信したの。あなたこそ予言の子供。このままでは、私たち鬼族にとって脅威となるわ。だから組織をあげて殺そうとした。……どう? これで話は、ちゃんとつながったでしょ?

 俺はまだ、呆然としていた。頭がちゃんと働かない。心がちゃんと動いていない。

 それでも必死になって、俺は早紀に問いかけた。

中田 実

ま、まだ……言ってないことがある……だろ? なぜ鳥海や、風香ちゃんを殺した?

 俺がそんな、忌むべき存在なら……俺だけを殺せばよかっただろ?

大神早紀

答えは簡単よ。桃太郎には、犬、猿、キジの仲間がいたでしょ? あれは鬼門、つまり艮の方角に対して裏鬼門に位置する戌(いぬ)、申(さる)、酉(きじ)が鬼に対抗する動物として登場したんだって話よね。

 あなたたちの誰が犬で、猿で、キジなのかは知らないし興味もないわ。……でもね。私には未来が見えたの。あなたと風香ちゃん、河内さん、そして鳥海さんが、私たち鬼族の敵に回る未来が……だからまず、鳥海さんを殺した。これは成功したわ。

 次に河内さん、あなたを殺そうとしたんだけど、あなたはあなたで強い力を持ってるみたいだから、まず相打ちを狙ってみたの。

河内 優

くそっ! だから俺に関する嘘の情報を流したってことか!!

大神早紀

そうよ。ごめんなさいね

中田佳奈

でも待って! 私は? 私は何で狙われたの?

大神早紀

ああ。あなた? あなたは単に、邪魔だっただけ

 その言葉を聞いて、凍っていた俺の心が爆発した。

中田 実

人の命を……邪魔だって理由だけで奪おうとしたのか!?

大神早紀

あら怖い顔ね。でも邪魔なものは邪魔としか言いようがないわ。それに……命には、軽い命と重い命があるのよ

中田 実

ふざけんな!!

 怒りで髪の毛が逆立ってきているのを感じる。

大神早紀

ふーん。本当に強い『気』の力ね。……ねぇ! あなたも私たちの仲間にならない?

中田 実

うるさい! 俺は今、むちゃくちゃ気が立ってるんだ!

大神早紀

その『気』を『鬼』に変えるのは、実は簡単なことなのよ

中田 実

黙れ!!!

大神早紀

くすっ。それじゃ、しょうがないわね。
とっておきの鬼を出してあげる!

 大神が低く呪文を唱えると、目の前に巨大な鬼が現れた。……銀髪で鋭い目。額の左右には小さな二本の角が生えている。裸の上半身は瘤のような筋肉が隆々としていて、その太い腕には黒光りする大きな斧。

 そいつは今までの鬼とは比べものにならないくらい凶悪な姿をしていた。

ぐるる……ぐるるるっ

 これまで見た鬼は、すべて饒舌だった。あれはあれで不気味ではあったが、でも目の前にいるコイツ――ただ猛獣のようなうなり声を上げているだけのコイツの方が、ずっと敵としての強さを感じる。ライオンの檻の中に放り込まれたような、そんな絶望感だ。

河内 優

ひょっとしてあいつ……北斎漫画に描かれていた、前鬼?

 河内が驚きの声を上げた。

中田 実

な、なんだそれ?

河内 優

その昔、呪術者・役小角(えんのおづぬ)が使役したと言われる鬼神だ!

大神早紀

ふーん。くわしいのね。だったら話は早いわ。ここであなたたち全員、前鬼に喰われなさい!

ぐるる……ぐるるるっ

中田 実

じょ、冗談……だろ?

 こんなバケモノ、どうやって倒せばいいんだ?

― 3 ―

 正直、泣き出したかった。正直、逃げ出したかった。
さっき聞いた話も、今目の前で起こっている出来事も……全部夢であって欲しかった。

 でも、今の俺は戦わなければならない。佳奈のために。河内のために。そして犠牲になったみんなのために。

 ……そう思った瞬間、俺の右手の中で式神の剣が実体化した。

大神早紀

へぇ。それが噂に聞く、式神の剣ね? いきなりそんなものを扱えるようになるなんて、あなたってやっぱり……

ぐぉーーーーーー!!

 大神の話が終わらないうちに、強烈な斧の一撃が襲ってきた。くっ! こいつら卑怯だ!

 かろうじてその攻撃を剣で止める。しかし、ものすごい衝撃を受け、俺は背後に吹き飛ばされてしまった。

 どごっ!!!

 床に背中を思いっきり打ち付け、一瞬意識が飛ぶ。

中田 実

やばい! 剣は……どこだ!?

河内 優

危ない!!

 河内の声に振り向くと、斧を構えた前鬼が目の前に迫っていた。

中田 実

くそっ! 剣を拾わなきゃ!

 殺られる! そう思った瞬間、河内の鋭い声が響く。

河内 優

カラリンチョウカラリンソワカ

 見ると前鬼の周囲に、紙でできた人型の式神が何体もまとわりつき、その動きを食い止めていた。

中田 実

ナイス!

 しかし、前鬼の力は桁外れだった。河内の放った大量の式神は、一瞬のうちに霧散してしまう。

中田 実

剣は!? どこだ!

中田佳奈

お兄ちゃん! 後ろ!

 佳奈の声が響いた。見ると式神の剣は、10メートルぐらい後方に落ちていた。

 急いで拾おうとするが、前鬼も猛スピードでこっちに迫ってくる。間に合うのか!……いちかばちか、ジャンプして手を伸ばす。くそっ! あと30センチ!! このタイミングでは間に合わない! 前鬼は勝ち誇ったようなうなり声を上げた。

――そのとき、奇跡が起こった。
式神の剣がひとりでに動き出し、俺の方へと近づいてきたのだ。

中田 実

え? 何で?

 慌てて拾って構え直す。見ると前鬼は、俺のすぐ目の前で仁王立ちしていた。

中田 実

くそっ!! こいつ笑ってやがる!

 河内の助けがあるとはいえ、それでも圧倒的な力の差がある。まともに戦ったら勝てない。だからといって、高木ブー作戦も通用しないだろう。

 だとしたら……
そのとき、一つのアイディアが浮かんだ。

中田 実

大神さん! この前鬼ってヤツは、大神さんの手下みたいなもんなんだろ?

 突然の質問に、早紀は虚を突かれたようだった。

大神早紀

そうだけど、それがどうしたの?

中田 実

だとしたらさ、俺がこの剣で、大神さんを直接攻撃したらどうなるんだ?

大神早紀

ぷっ、うふふ。何を言い出すのかと思ったら……そんなこと? 断言してもいいわ。あなたに人は斬れない

中田 実

斬れるさ。心を鬼にすればね

 俺はそう言いながら、早紀に向かって剣を構えた。

中田佳奈

やめて! お兄ちゃん!!

中田 実

覚悟しろ! 大神早紀! 敵討ちだ!

中田佳奈

きゃーーーーー!!!

 佳奈が悲鳴をあげる。そのとき――前鬼も動いた。

 不自然な体制から、早紀をかばうような、俺に攻撃を加えるような、そんな中途半端な行動をとる。

中田 実

隙あり!!!

 そう言うと俺は、真っ直ぐに剣を振り下ろした。
早紀にではなく、前鬼に向かって……

ぐぉーーーーー!!!

 獣のような咆哮を上げた後、前鬼はその場に倒れ込んだ。

大神早紀

ま、まさか……最初からそれを狙って?

中田 実

さて、どうだろうね

 見ると前鬼の身体は白い煙を上げて消え去ろうとしていた。

中田 実

よし! 倒したぞ!

 俺が剣をおろした瞬間、早紀がにやりと笑った……気がした。

河内 優

油断するな! 前鬼がいたのなら、必ず後鬼(ごき)がいる!

 慌ててそう叫ぶ河内の声。

中田 実

え? どういう意味だ

大神早紀

うふふ。よく気付いたわね。……でも、もう手遅れよ。河内さん!

 見るとさっき倒した前鬼とそっくりな別の鬼が、河内の背後に立っていた。

中田 実

あっ! 危ない!

 鬼――後鬼は、河内の首を片手でつかみ、そのまま勢いよく投げ飛ばした。

河内 優

うわーーーーーーー!!!

 ものすごい音を立てて、河内の身体が壁に激突する。

中田 実

だっ! 大丈夫か! 先輩!?

 しかし返事はない。河内は口から血を流して倒れ込んでいた。

中田 実

先輩! しっかりしろ! 先輩!

 その様子を見て、早紀が勝ち誇ったように笑う。

大神早紀

うふふ。勝負あったみたいね。あなた一人じゃ、この後鬼を倒せないわ。……さっきみたいな手も、二度と通用しないだろうし……どうするの? 中田君?

中田 実

くっそーー!!!

 早紀の言うとおりだった。勝算は限りなくゼロに近い。

 後鬼は細い棒のようなものを持っていた。それをぶんぶん振り回しながら襲ってくる。

ぐぉーーーーー!!!

中田 実

うわっ!

 ヤツの動きは素早く、避けるのが精一杯だった。

中田 実

ひっ!!

 このまま鬼ごっこを続けていたら、体力を奪われて仕留められてしまう。……だとしたら、こちらから攻めるしかない。

中田 実

くらえっ!!!!

 俺の振り下ろした剣と、後鬼の振り下ろした棒が激しくぶつかる。……今度は絶対に、この剣を離さない!!

中田 実

もういっちょっ!!!!

 しかし相手に避けられ、逆に足払いをされてしまう。

中田 実

ぐぁっ!!!!

 足首に激しい痛みを感じた。それと同時にものすごい寒気が襲ってくる。

 見ると右足首が不自然な角度で曲がっていた。

中田 実

くそっ! 折れたか……

大神早紀

うふふ。やっぱりあなた、戦い慣れていないみたいね。わざわざ怪我の状況を報告してくれるなんて……

中田 実

くっ!

大神早紀

それじゃ後鬼! とどめを刺しなさい!

ぐるる……ぐるるるっ

中田佳奈

や、やめて……やめて……いやーーーーー!!!

 佳奈が悲鳴を上げた瞬間――時間が止まったような気がした。それと同時に、まぶしい光のような……美しい音楽のような……その中間にある未知の感覚が、佳奈のいる位置を中心にして放たれた。

中田 実

な、なんだこれ!?

 疲れていた俺の身体に、力がみなぎってくる。絶望していた俺の心に、希望の光が差す。

 気が付くと動かなかったはずの右足首にも、感覚が戻っていた。

中田 実

怪我が……治った?

河内 優

お、おい! 何が起こってるんだ?

 気絶していた河内も、いつの間にか意識を取り戻していた。

大神早紀

こ、これは『祈』の力!? でもまさかこんなに強い力が……

 大神が呆然とした表情で立ちつくしている。

中田 実

佳奈! 佳奈がやったのか!?

 しかし佳奈はその場に倒れ込んでいた。

中田 実

お、おい! 佳奈!

河内 優

気絶してるみたいだな。能力を一気に解放したからだろう……

 そういえば、魔人ブーと戦ったときの怪我も、起きたら嘘みたいに治っていた。……あれも佳奈が看病してくれたおかげだったのかもしれない。

河内 優

見ろ! 後鬼のヤツ……

 河内に促されて振り返ると、後鬼は頭を抱え明らかに苦しんでいた。……そうだった。『祈』は『鬼』を倒す力になるんだ!

中田 実

マサル先輩! 同時に行くぞ!

河内 優

ああ。わかった!

 今が絶好のチャンスだ! 俺は式神の剣を構えた。

中田 実

くらえ!!!!

河内 優

臨(リン)兵(ビョウ)闘(トウ)者(シャ)皆(カイ)陣(ジン)裂(レツ)
在(ザイ)前(ゼン)!!!

 二人の攻撃が、同時に後鬼に襲いかかる!
後鬼の身体は真っ二つになり、やがて消え去った。

大神早紀

くっくっくっくっ……くっくっくっくっ

 後鬼を倒した直後、大神早紀は、笑い声のような……嗚咽のようなそんな声を出し続けていた。

中田 実

大神……さん?

河内 優

ヤツの目……見ろ!

 見ると美しかったはずの彼女の瞳に狂気の色が浮かんでいた。

河内 優

おそらく……気を、違えたんだ。

大神早紀

ははは、あはは。あーっはっはっは!

 俺たちの制止する間もなく、彼女は6階の窓の外から飛び降りた。

きゃーーーーーーーーー!!!

 グラウンドから誰かの悲鳴が聞こえてくる。俺たちも慌てて窓の外を見る。すると――

 あのときの鳥海涼子と同じように、早紀の頭からも真っ赤な血が流れていた。

中田 実

人を呪わば穴二つ。こういうことか……

― 4 ―

 すべてが終わった。
俺とマサル先輩は、その場でへたり込んで、こう言い合った。

河内 優

中田! お前のおかげで、助かった。ありがとな!

中田 実

こっちこそ。先輩の術があったから、前鬼の攻撃をかわ……

河内 優

か、『皮』で区切るなって言っただろ!?

中田 実

……あ! いや今、佳奈が起きそうだから


 まだぶつぶつ文句を言っている先輩を無視して、俺は佳奈に駆け寄った。

中田 実

佳奈、起きたのか?

中田佳奈

お兄ちゃん! それに河内さん! 無事だったのね?

中田 実

ああ。佳奈のおかげだ!

河内 優

佳奈ちゃんの怪我は?

中田佳奈

私も大丈夫。……あ! そうだ。大神さんは?

中田 実

………………

 窓の外では、さっきからざわざわとした野次馬の声が聞こえている。俺たちも窓から様子をのぞいてみた。

 すると――

 驚いたことに、大神早紀の死体が……起き上がっていた。

きゃーーーー!!!

……ば、化け物だ!!!

 早紀……いや。さっきまで早紀だった死体は、グラウンドに落ちていた金属バットを拾い上げ、野次馬たちに殴りかかってゆく。

 ぶん! ぶぉん!!
 どごっ!!!

 どれだけ怪力なのだろう。フルスィングの音が6階まで聞こえてくる。

 そして、野次馬たちの骨が砕ける嫌な音も……

中田佳奈

お兄ちゃん! 急がなくちゃ!

中田 実

ああ! 彼女を止めよう!!

 どうやって止めるのかなんて、見当も付かなかった。
しかし俺たちは階段を駆け下り、グラウンドへと向かった。

 グラウンドは、地獄絵図のようだった。……血まみれになった死体が、ごろごろと転がっている。その中央に立つ、金属バットを持った早紀。

 制服は血に染まり、長い黒髪はぐちゃぐちゃに乱れていた。眼窩に眼球は無く、口は悪魔のようなニヤニヤ笑いを浮かべている。

大神早紀

ぐぐごっ! ごがががが!!

 おそらく声帯がつぶれているのだろう。早紀だったものが声を上げると、今度は周囲にいた死体までが起き上がった。そして、彼女を中心に集まって、固まって……

中田 実

え!?

 目の前では、信じられないようなことが起こっていた。死体たちは重なり合い、粘土のようにつぶれ、やがて大きな人型へと変化していった。そう。それは死体で出来た巨大な鬼の姿だった。
鬼の頭部には、昨日展望台で俺をぼこぼこにした新城とヤスの首がくっついていた。そして右手はサッカー部の主将。左手はラグビー部のマネージャーだ。
 俺たちはもう、声を出すことすらできなかった。夢だろ!? これ……悪い夢なんだろ!?

 死体でできた巨大な鬼――その身長は、5メートルを超えていた。

中田 実

こ、こんな怪物、どうやって倒すんだよ?

ほう。この私を倒すつもりなのか? ふっ、面白い!

 そのときヤツの声が聞こえてきた。いや、俺の頭の中に直接声を送り込んできたのかもしれない。

 その声は神のような神々しさと、悪魔のような邪悪さと、父親のような優しさをもっていた。

聞け! 愚かな人間どもよ。
私の名は神鬼(じんき)。鬼を統べる者だ。
人間どもは、大きな勘違いをしている。
人が鬼を操っているのではない。
鬼が人を操っているのだ。
見よ! 死してなお、この私の下僕となる者たちの姿を……

 そう言うと神鬼は、右手を振り下ろしてグラウンドを殴った。

 どごんっ!!!

 ものすごい衝撃とともに、地面には大きな穴が開く。
同時にラグビー部主将の身体もぐちゃぐちゃになった。

見ての通り、人間は弱い。
身体は弱く、心は卑しい。
そんな醜い生き物が、何千年もの間生きながらえていたとは……嘆かわしいことだ。
人間など、無意味で、無価値な存在だ。
これからは我々鬼族が、この地上を支配する!

 今度は、左手を振り下ろす。
ラグビー部マネージャーの身体が、ぺしゃんこに潰れた。

 ひょっとしたらヤツの声には、催眠術のような効果があったのかもしれない。俺はもう、すっかり戦意を喪失していた。あの直撃を食らったら、今度こそおしまいだ。逆らうのはもうやめよう。戦ったって、何の得にもならない。

 そうだ。人間は弱い存在なんだ。無意味で、無価値な存在なんだ。

犬飼風花

が・ん・ば・って……

中田 実

え?

犬飼風花

がんばって!

中田 実

だ、誰だ?


 絶望の中、声が聞こえてきた。

犬飼風花

実さん、頑張ってください!

 風香ちゃんの声だ。
 やがて、鳥海涼子の声も続く。

鳥海涼子

優! あんたもね。
ここで男を見せなくて、どうするの?

中田 実

りょ……涼子……

 その声を聞いて、俺は瞬時に理解した。

中田 実

ひょっとして、あのとき式神の剣を動かしてくれたのは……鳥海の念動力?

鳥海涼子

言ったでしょ? 世の中に無駄なものなんてないのよ!

 もう見られないと思っていた、とびっきりの笑顔が、ほんの一瞬だけ見えたような気がした。

中田佳奈

そうよ! 二人とも頑張って! 私も一生懸命、祈ってみる!

佳奈の声も聞こえてきた。

 ……生きてるヤツも、死んでるヤツも、みんなの『気』が、俺の周囲に集まってくるのを感じる。そうか。『気を合わせる』……これが『気合い』ってヤツなんだ。

 気がつくと俺は、自分でも信じられないほどの大声で、こう叫んでいた。

中田 実

聞け! 神鬼!
そりゃ人間は、確かに弱い。
でも、だからこそ! 力を合わせて生きてるんだ!
心を合わせて頑張ってるんだ!
無意味? 無価値?
ふざけんな!!
理由があるから、俺たちはこの世に生を受けた!
そして、歯を食いしばって生きてる!
そうだ! 生きてること、そのものが価値なんだ!

ふっ、戯言を……

 またあの声が頭の中で響く。しかしもう俺は迷わなかった。

中田 実

俺は! お前を! 許さない!!!!

 やがて、みんなの『気』が『祈』となって、俺の身体に流れ込んできた。

 ……そうだ。人間は決して、弱くなんてない!!

な、なんだこの……ものすごい『祈』の力は!?

 神鬼が動揺しているのを確かに感じる。
さぁ今だ! 気合いを入れろっ!!

中田 実

人間をっ! なめんなーーーーっ!!!!

 俺は最後の気力を振り絞って、式神の剣を振り下ろした。

ぐぉぁあああああぁーーーーーーーーーーーー!!!!!

 落雷のような悲鳴と共に、神鬼は霧散した。

彼岸花 第七章 『祈(き)』

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