それは、マリアもユキもまだ小学校に上がる前の、ある春の休日のこと。
それは、マリアもユキもまだ小学校に上がる前の、ある春の休日のこと。
……一郎伯父さん、写真撮って
普段聞かない、可愛らしいユキの声に、振り向く。
自分の家族と、従弟であるユキの家族と毎年一緒に行っている動物園の駐車場。丸顔の所為か同い年なのに幼く見えるユキが、無骨なカメラを首からぶら下げたマリアの父のポロシャツを引っ張っているのが、見えた。
あんまり引っ張らないで欲しいなぁ、お父さんの服
父が着ているポロシャツは、昨日母と一緒に選んだもの。折角のポロシャツが伸びてしまう。この場にはそぐわない心配を、マリアはしていた。……本当は、マリアの心は、別の場所にあるというのに。
一方、そんなマリアの心には気付く様子のないユキは、あくまで無邪気に見える。
伯父さんの車、カッコいいもん
ユキにそう言われた父の顔も、マリアが嫌になるほど綻んでいる。こんなとき、自分が男の子じゃないことに、悔しくなる。男の子だったら、ユキともっと仲良くなれたかもしれないし、父とももっと色々話せるかもしれない。……父と母とは、今のままでも色々喋ることはできるが、ユキと、は。
そうかそうか
そう言いながら、父はユキを自分の車の前に立たせる。そして父が一歩下がってカメラを構えた、次の瞬間。
マリアもおいでよ
不意に、ユキがマリアの腕を引く。ユキに引かれるまま傍に立った、マリアの手を、ユキはそっと、握った。
……ユキ
顔が真っ赤になるのを、感じる。写真を撮るというのに、マリアは顔を上げることができなかった。何故ユキは、知っているのだろう? マリアがユキと二人っきりで写真を撮りたかったことも、ユキと手を繋ぎたかったことも。動物園内では、できなかった。ユキの二つ下の妹、ハルがいたから。幼い言葉で「ユキは私のお兄ちゃん」と強く言われてしまったら、遠慮する他ないではないか。
マリア、顔を上げて
……
父の言葉に、何とか顔を上げる。
マリア、笑って
……
だが、笑うことが、できない。
嬉しいのに。何故だろう?
しょうがないなぁ
父には、分かったのだろう。苦笑いの後でシャッター音が聞こえてくる。
ユキも、これで我慢してくれ
父の言葉に、ユキが笑って首を横に振るのが、見えた。
恥ずかしそうにしてしまったが、本当は、嬉しかったのだ。でも、そのことをユキに言うことは、できなかった。
視界が、暗転する。
気が付くと、マリアは暗い部屋の中に、いた。
……
目の前の、白い飾り気のないベッドで、大きくなってもまだ幼く見えるユキが眠っている。いや、ユキは眠っているわけではない。二度と開くことのない瞳と、青白い顔が、暗い空間にはっきりと浮かび上がって、いた。
……ユキ
悲しさが、胸を突く。
そっと、身を乗り出し、マリアはユキの冷たい唇に自分の唇を、重ねた。
携帯電話のポップな目覚まし音が、夢を中断させる。
……最悪
クリーム色の天井を睨みつけ、息を一つ吐いてから、起き上がる。また、ユキの夢を見てしまった。泣いて、しまったのだろう。こめかみと、頬の上の辺りが大分濡れている。
最悪
もう一度、同じ言葉を呟いてから、ベッド傍の机を見る。携帯電話の横にある写真立てでは、父の昔の車の前で幼いユキが微笑んでいた。
ユキにとって、この頃が一番幸せだったのではないだろうか。そっと、写真立てを手に取る。ユキの家族は、この写真を撮った後すぐの夏、花火大会を見に行った帰りに事故に巻き込まれ、ユキを残して皆亡くなってしまった。家族を一度になくしたユキを、「妹の子だから」という理由で父は引き取って自分の養子にした。その時からずっと、ユキはマリアの家族として、一つ屋根の下で一緒に暮らして来た。……この初冬に、ユキが病気で息を引き取るまでは。小さい頃から身体が弱く、中学生の頃から入退院を繰り返していたユキは、それでも、通信制の高校を卒業し、マリアと同じ大学に通っていた。だが、……命は、尽きてしまった。
最悪
微笑むユキの横の、俯くダメダメな自分を罵倒したくなる。だが、昔の自分を責めても不毛なことは、マリア自身が一番良く知っていた。
夢の中での、口づけの冷たさが、まだ唇に残っている。こんな写真を未練がましく飾っているから、あんな夢を見るのだろうか? だが、……ユキのことを忘れないと、誓ったのは、自分なのだ。それでも。あるいは。
最悪
写真立てを元のように机の上にきちんと置き、顔や肩に絡まっている長い髪をかきあげながら、マリアは何とかベッドから起き上がった。
徐に、携帯電話を開く。
……嘘っ!
液晶画面が示すデジタル時計の数字に、マリアは思わず声を上げた。
今日は、学部の卒論発表会の日。二年生であるマリアは、会場のセッティングをするよう三年生に云われている。遅刻するわけにはいかない。
大慌てで、着替える。
後期の授業が終わり春休みに入っているが、これがあるから二月中は春休みとは思えない。顔にファンデを叩きながら、マリアは大仰に溜め息を、ついた。