街に初めて雪が降った日。

 その日も、セツナはこっそりと早木医院に忍び込んだ。

 優秀なマリアが大学の授業をサボるとは思えないが、それでも用心の為に、セツナはいつも医院裏手にある非常階段から出入りしている。三階の非常口近くにユキの病室があるので、訪問に便利であるという理由もある。

 だが。この日は、非常口からユキの病室に辿り着くまでの間にマリアに捕まった。

何であんたがここに居るのよ!

 セツナを見るなり金切り声を上げるマリア。

 何故この女は、俺にこんなに敵意を燃やすのだろう。セツナの当惑は、しかしソウイチロウの出現であっけなく解決した。

静かにしないか、マリア

 ソウイチロウの言葉に、口を閉ざしたマリアがセツナを睨む。

 その時になって初めて、マリアの目がいつもより真っ赤になっていることに気づいた。

 まさか。嫌な予感は、すぐに裏付けられる。ソウイチロウが静かに、ユキの病室のドアに掛かっている札を指差したのだ。

昨日、容態が急変したの
今も、面会謝絶

 今は薬で眠っているが、いつまた急変するか分からない。切れ切れのマリアの言葉が、張り詰めたセツナの気持ちを切った。

……そんな

 尻餅をつきそうな身体を、何とか支える。昨日訪れたときには、確かに元気だったのに。

 ソウイチロウに支えられて去って行くマリアの小さな背中を、セツナは呆然と見詰めていた。

 その夜。

 セツナは再び、非常階段を上って医院に忍び込んだ。

 昼間よりも、人が手薄な夜の方が忍び込みやすいだろう。セツナの予想は、あっけないほど簡単に当たった。

 機械の音のみが響く病室を横切り、ユキが眠るベッドの側に立つ。様々な管に繋がれたユキの身体は、夜であることを差し引いても、今にも崩れてしまいそうなほど青白く見えた。

 叔父の時と、同じだ。切なさが、胸を刺す。機械と管が有るかどうか、それだけの違いだ。

 そっと、ユキの冷たい手に触れる。その、次の瞬間。

ごめん、セツナ

 消えそうなほどか細い声が、機械音の間から聞こえてくる。

 目を剥くセツナの目の前で、ユキがゆっくりと目を開いた。

約束、守れそうにない

 辛そうなユキの瞳の色に、胸が締め付けられる。セツナの勝手な約束なのに、ユキはそれを守ろうとしている。そして、守れないことを、悔いている。一緒に桜を見ようと約束したことを、今更ながらセツナは悔やんだ。

後悔は、するな

 叔父の声が、セツナの心に響く。

ユキ

 セツナはユキの耳元に顔を近づけると、一瞬躊躇ってから言葉を発した。

約束、今果たしてくれないか?

 セツナの言葉に、ユキの目が大きく見開かれる。

 そして。

分かった

 ユキはセツナを見詰め、そして大きく頷いた。

 繋がっていた管を全て外し、側にあった毛布をユキの細い身体にぐるぐると巻く。

 荷物状になったユキを抱え、セツナは非常階段から外へ飛び出した。

 行き先は勿論、あの桜の下。

……綺麗だね、星

 あの時みたいだ。そう、ユキが呟く。

 叔父が好んだ桜の木は、寒々とした枝を冬空に伸ばしていた。

 その桜の下に、ユキを抱いて座り込む。

 途中のコンビニで買ってきたサイダーを開けると、下戸だった叔父のことをまざまざと思い出した。

 桜は、未だ咲かない。

 しかし、セツナの瞳には、満開の桜が映っていた。

 おそらく、ユキの心にも。

あ、雪

 不意に、ユキが声を上げる。

 ひらひらと舞い落ちる大きめの雪は、かつて叔父と見た桜吹雪に確かに似ていた。

ありがとう

 ユキの耳元に、そっと呟く。

ううん

 セツナの言葉に、ユキは首を横に振って、答えた。

 腕の中でいつの間にか眠ってしまったユキを連れて医院に戻ったセツナを待っていたのは、真っ赤に泣き腫らした目を吊り上げたマリアと、そのマリアの肩を抱いて押さえているソウイチロウ。

 だが、安らかに眠っているユキの顔を見たマリアは何も言わずにセツナに背を向け、冷え切ったユキの身体をセツナから受け取ったソウイチロウも、セツナに対し非難の言葉一つ発しなかった。

 そして、翌朝。

 ユキはそのまま、目を覚ますことなく、息を引き取ったという。

 これで、良かったのだろうか。後になってセツナは何度も自問した。あの時ユキを外に連れ出さなければ、ユキは持ち直したかもしれないのだ。

 だが。

後悔しないで、セツナ

 セツナか自問する度に、ユキの声がどこからか聞こえてくる。

 それは、自己満足かもしれないし、罪を軽くしたいセツナの逃げかもしれない。

 それでも。

俺は、後悔していない

 それだけははっきりと、言える。

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