ペンを放り投げて、テーブルに突っ伏す。
……終わらねぇー!
ペンを放り投げて、テーブルに突っ伏す。
大丈夫?
セツナのその姿に、資料探しで本のページを捲っていたユキがくすりと笑った。
僕の見ても良いよ
そしてできあがったばかりの自分のレポートをセツナの方に差し出す。流石、真面目なユキ。仕事が早い。セツナは正直感嘆した。
だが。
いや
少しだけ笑って、首を横に振る。
人のレポートを写すのは、沽券に関わる。だからセツナは再びペンを握ると、もう一度レポート用紙に挑み掛かった。
春に逢って以来、セツナとユキは暇さえあれば大学周辺の飲食店を渡り歩く仲になっていた。そして夏休み直前の今では、セツナの家で一緒に試験対策とレポート作成をする位の仲になっている。友達づきあいは「とりあえず浅く」がモットーのセツナとしては、これはかなり珍しいことだった。
何故、自分はユキとつるんでいるのだろうか? 時々本気で、首を傾げる。おそらく、ユキが「か弱い」から、放っておけないのだろう。それが、セツナを納得させている、ユキとつるむ理由。
ユキの方がセツナとつるんでいる理由は、もっと単純だった。
セツナ、さ、最初から僕を男扱いしてくれたじゃない
最初に大衆食堂に行った時に、ぼそりと呟いたユキの言葉。確かに、そうだったな。この言葉を聞いた時、セツナは一人納得した。でも、俺だって、抱き上げなければユキが男だと気付かなかった、と思う。それも本音。そして。
初めての店に入るのって、一人じゃちょっと勇気が要る
何回か一緒に昼食を食べたあと、授業中に呟かれたユキの言葉に、セツナは正直驚いた。
高校で買い食いぐらいしたことあるだろ
通信制だったから、高校
幼い頃から身体が弱く、入退院の繰り返しだった為、ユキはまともに学校に行っていない。だから勿論、友達もいないし、放課後の楽しみも知らない。
そして。丸顔で小柄の所為か中学生にしか見えないユキだが、実はセツナと同い年だった。そのことを知った時、セツナは正直仰け反った。
それはともかく。
出席日数、足りるかな?
汗で滑るペンと格闘しているセツナの横で、ユキが呟く。
六月に体調を崩し、一ヶ月ほど休んでしまったユキにとって、出席回数は懸念材料だった。その間の授業については、セツナができるだけ出席してノートを取り、それをコピーしてユキに――大抵は、一緒に暮らしている従姉のマリアの仏頂面しか見ることができなかったが――届けているので、ユキの授業理解については問題はない。実際に、傍目に見てもユキのレポートはセツナのより上手くまとまっている。だが、最近の大学は出席に厳しい。ユキの心配も尤もだ。
誰だよ、授業時数の1/3欠席で単位出さないなんて決めたヤツは
顔も知らない大学上層部に、腹を立てる。しかし怒ってもどうにもならないことは、去年授業を休みまくって単位を悉く落としたセツナが一番よく知っている。
だから。
大丈夫だろ
少し断定口調で、言ってみる。
アマギの野郎は、そう言ってたぜ
実は、学科主任で必修科目の担当教員であるアマギ教授に、事前に確かめに行っていたのである。
まだ若いのに――といっても四十は過ぎているはずだが――教授で、女に甘いが男には皮肉しか言わない。セツナの留年が決まった時も、女々しいだのなんだのと散々に嫌みを言われている。大嫌いな奴だが、背に腹は替えられない。
まあ、問題ないだろう
幸い、虫の居所が良かったらしく、アマギ教授はセツナの質問に皮肉無しで答えてくれた。
だが。
そういえば、井川
教授の研究室を出る間際に、皮肉な声が投げられる。
最近おまえ、一限目でも遅刻せずに来ているそうじゃないか。どういう風の吹き回しだ?
やはり、アマギはアマギだった。セツナは内心肩を竦めた。
ユキの為だとは、誰にも言えない。だからセツナは、教授を無視して研究室のドアをバタンと閉めた。
……うーん、でも
アマギとのことを思い出し嫌な気分になったセツナの横で、ユキはまだ出席のことを気にしている。これでは、自分もユキも勉強が進まない。
ところで
だから無理に、話題を変える。
今日は許可出てるのか?
許可? 誰の?
勿論、お節介小姑の
セツナの言葉に、ユキはぷっと吹いた。
それ絶対怒るよ。マリアが聞いたら
彼女に聞こえないから言っているのだ。心の中でそっと呟く。
ユキに、近づかないで!
あなたはユキに相応しくない!
ユキと食べ歩きをするようになってすぐ、セツナはマリアからきついことを言われていた。場所は、大学構内。
この後すぐ、マリア――高月真理亜――が同じ大学の英文科二年であることを、セツナは人伝に聞いた。
大学内の人間関係に疎いセツナは知らなかったが、その少しきつめの美貌とあっさりとした明るい性格で、マリアは大学内では男女を問わず人気があるらしい。だから、彼女に関する情報は、注意すれば調べるまでもなくセツナの耳に入ってきた。英文科のみならず教養科目でも一、二を争う成績の持ち主で、教授陣からの信頼も厚いことも、幼なじみで同じ大学の医学科に通う年上の恋人がいることも。
たかが従弟のことなのに、何故、マリアがこれほどまでにユキに拘るのか、今になってもセツナには分からない。おそらくユキの健康状態を気遣って必要以上に過敏になっているのだろう。セツナは勝手にそう、理解していた。しかし、ユキが誰を友人に選ぼうがマリアには関係ない話ではないか。
腹の立つマリアのことを思い出した所為で、ますますレポートに手が付かなくなる。
何かを熱心に読んでいるらしく、俯いたままのユキを見てから、セツナはふと立って台所へ行き、買っておいたアイスを出した。
アイス食うか?
大学駅前の和菓子屋さんのだぜ
うん
セツナの言葉に、ユキはこくんと頷いたが、またすぐに持っていた本に目を落とす。
出席と成績が、そんなに気になるのか? セツナの疑問は、しかしすぐに解決した。ユキが持っていた本は、教科書ではなかったのだ。
これ、桜ばっかりだね
ユキが、持っていた本をテーブルの上に置く。そこに現れた物を見て、セツナは動揺を隠すのが精一杯だった。
ユキが見ていたのは、叔父が残した小さなアルバム。どうやらそこら辺に投げ置かれていた物を拾って見ていたらしい。
叔父が、好きだったからな、桜
何とか、動揺を取り繕う。
ユキはセツナの動揺に気付かなかったのか、ある写真を指さして言った。
これ、綺麗だね
ユキが指さしたのは、田舎のはずれにひっそりと咲いた枝垂れ桜。確かに、糸の上に並んだように咲いた白桃色の小さな花は、可憐で上品だ。
糸桜、って叔父は言ってたな
叔父が話していた地元の人のこだわりを思い出しながら、息を吐く。
……良かった。
「あの」桜ではない。
だが。
あ、これも綺麗
次にユキが指さした写真に、背中が震える。
この、桜は。初夏の日差しにくっきりと映る、儚げなほど淡い紅色の花、は。
見たくない
本能的に、目を逸らす。それでも、心が痛くなるのを止めることができない。
あ、アイス溶けるぜ
セツナはそれでも何とか立て直し、誤魔化すようにユキに小さなアイスのカップを差し出した。
あ、ありがとう
嬉しそうな声で、アイスを受け取るユキ。
ユキが写真のことを忘れてくれたことに、セツナは正直ほっとした。
……それにしても。
……何時、出したんだ?
叔父のことを思い出す写真、特に桜を写した写真は、去年、叔父の部屋の鍵のかかる引き出しに厳重に収めた筈である。何故この部屋にあったのだろうか。収め忘れたのだろうか。それはあり得る。叔父が趣味で撮った写真は、アルバムだけでも膨大な数有ったから。それとも。……叔父の『意志』だろうか? 全てを無理矢理忘れようとしている自分を叱咤する為に、叔父が態とセツナには見えない位置にアルバムを一つ置いたのだろうか。
分からない。でも。……今はまだ、心が痛む。
セツナは心の中で首を振ると、やりかけのレポートに気持ちを無理矢理集中させた。