― 1 ―

 河内の家は、高台に作られた新興住宅地の中にあった。

 こういう場所はたいてい、似たような家ばかりが並んでいて、非常にわかりづらいものだ。この『望洋台団地』も例外ではなかったようで、さっきから何度も地図を広げて確認をしているのだが、見る度に混乱し、挙げ句の果てには、今いる場所さえ見失ってしまった。

 これじゃ『望洋』じゃなくて『茫洋』だ。

中田佳奈

ねぇ。私たち、迷っちゃったのかな?

大神早紀

そんなはず無いわ! この道を進めばすぐに河内の家が……


 しかし、その先にあったのは小さな商店街だった。

中田佳奈

あ! 広東食堂だって! 中華料理屋さんだね? ここで晩ご飯食べてかない?

中田 実

ああ。用事が済んだらな

大神早紀

でも……またここに戻ってこれるかしら?

 いつの間にか早紀も道に迷っていることを認めたようだ。

中田佳奈

こっちのの分かれ道は、どっちに行ったらいいの?

大神早紀

地図だと右が正解じゃない?

中田 実

いや、でも今いる場所がここなら、左に行くべきだよ

大神早紀

それ違うわ! 私たちはこの道を来たわけだから……

中田佳奈

そうじゃなくてこっちの道を……


 気が付くと、もう夕方になっている。夏なのでまだこの時間でも明るいが、日が落ちて暗くなってゆくのは時間の問題だ。

大神早紀

じゃあ二手に分かれない? 何かあったら携帯に連絡すればいいし……

中田 実

そうだな。俺は左を行ってみるよ。佳奈は大神さんに付いててあげて

中田佳奈

うん。わかったわ

大神早紀

それじゃ、私たちは右に行ってみるわね。……あ、この地図持っていってね!

中田 実

え? でもそっちは?

大神早紀

私、もう一つ持ってきてるから

中田佳奈

すごい! 用意がいいんですね

大神早紀

くすっ。まあね


 とにかく! 暗くなる前に、河内の家を見つけなければ……

― 2 ―

 しばらく歩くと、展望台のような場所に来た。眼下には、夕日を反射してきらきらと黄金色に輝く海が見える。なるほど、だからここは『望洋台団地』というのか……

 この展望台を目印にすれば、きっとヤツの家もすぐにわかるはずだ。
そう思いながら地図を広げていると……

新城

ん? お前……中田 実だな?

 見慣れない二人組に、いきなり声をかけられた。

中田 実

だ、誰だ?

 見るからに不良そうな大男と、その子分っぽい小男のコンビだった。

新城

俺たちが誰かなんて、お前には関係ねぇ!

ヤス

新城さん! 間違いありませんぜ!
コイツ中田 実ですよ! ほら、写真の顔と同じです!

新城

ヤス! 余計なこと言うな!

ヤス

す、すみません。新城さん!


 二人の間抜けなやりとりによって、大男の方が新城。小男の方がヤスということだけはわかった。しかしなぜ、この二人が俺に絡んでくるのだろうか?

新城

ひとつ忠告しておこう。犬飼風香の件から、手を引け!

 やはりそうか……しかしこの二人組、俺の疑問に次々と答えてくれる。

 案外、いいヤツなのかもしれないな……などと考えていると、突然左の頬に激しい衝撃を感じた。

中田 実

ぐはぁっ!!

 どうやら俺は、新城に思いっきり殴られたらしい。

 その勢いで倒れ込んだ俺は、コンクリートの地面に思いっきり後頭部をぶつけた。

 口の中が切れて、血の味が広がる。

中田 実

痛てぇ……

鬼との戦いでは感じなかった、リアルな痛みが身体中を走る。……そっか、喧嘩って、こんなに痛いものなんだ。

 新城はすぐに俺の身体を無理矢理起こし、背後に回って羽交い締めにする。すると今度はヤスが俺の腹に何発もの蹴りを入れてきた。

ヤス

おら! おら! おらっ!!!

 コイツら……頭は悪いけど、喧嘩の強さだけは、本物だ。軟弱に過ごしてきた俺にとって、初めて味わう『圧倒的な暴力』だった。

 ヤスのケリは止まらない。10発、20発、30……発? その間、何度も意識が飛ぶ。どこか骨、折れたんじゃないか? これ以上やられたら、死ぬんじゃないか? もう痛みよりも、恐れの方が大きかった。

中田 実

や、やめ……ろ……

 声に出そうとして気付いた。口の中が腫れて、もうまともに声が出せない。

中田 実

ぐもっ……ごほっ、げぼっ!

身体が細かく震えているのは、恐怖のせいなのか?

 それとも怒りのせいなのか? 寒い……夏なのに身体がものすごく寒い。

新城

よし! これくらい痛めつけりゃ、懲りるだろ!


 永遠に続くかと思われたリンチが、その一言で、ぱたっと止まった。……良かった。まだ、生きてる。やがて二人が去ってゆく気配。……助かった。

 しかし、目を開いた俺は、さらに最悪の事態が起きていたことに気付く。倒れ込んでいる俺の目の前に――鬼が立っていたのだ。

― 3 ―

よ! 迎えにきたぜ! ……地獄へな!

中田 実

ごほっ! くる……な……

へへへ。身体うごかねーのか? なさけねーな。

 そう言うと、鬼はその小さな手で、俺の頬をぺちぺちと叩いた。

男の身体の中に入るのは趣味じゃねーんだが、まぁ、仕方ないな

中田 実

な、なにをする……

簡単に想像つくだろ? あんたの身体を操って、ここから飛び降りるのさ。この高さなら落ちてる途中で気絶するだろうから、あんまり痛い思いせずに死ねるぜ

中田 実

やめ……ろ……

そうはいかないさ。あんたを殺らないと、俺たちが殺られるからな

 鬼の声がどんどん近づいてくる。右耳の端に、小さなツメが触れるのを感じた。

さぁ! 入るぜ!

 追い払いたくても、指先ひとつ動かせない。逃げ出したくても、足の感覚がなくなっている。

中田 実

もう……だめか……


 しかし、そのとき――

― 4 ―

河内 優

おい! お前……大丈夫か?

中田 実

……え?

 誰かが、俺の身体を抱き上げた。

中田 実

……か、かせい?

河内 優

だ、誰が仮性だって!? い、いきなり何を言うんだ!

 その声を聞いて、俺はようやく思い当たった。河内 優だ。

中田 実

いや違うって……加勢に来てくれたのか?

河内 優

あ? ああ、そっちの『かせい』か。まぁ、そんなもんだ。しっかりしろ!

中田 実

お、おに……

河内 優

何だって!? ……なるほど。確かに強い鬼(き)を感じるな……よし!

 そう言うと河内は、両手で印のようなものを結び、鋭い声を発した。

河内 優

臨(リン)兵(ビョウ)闘(トウ)者(シャ)皆(カイ)陣(ジン)裂(レツ)
在(ザイ)前(ゼン)!!!

うぎゃーーーーー!!!

 呪文を唱えた途端、鬼は悲鳴を上げて消え去った。

 ……わけがわからなかった。敵だと思っていた人間に、助けられて……しかも一瞬で鬼を消滅させた。コイツいったい何者なんだ?

中田 実

お、お前……

河内 優

まだ喋るな! 怪我の様子を見てやる。……うん。骨に異常はないな

中田 実

痛てててててて!!

河内 優

大げさに痛がるな! たいした怪我じゃない

 (いや、相当な重傷だと思うぞ。)心の中ではそう思ったが黙っていた。

河内 優

よし! うちへ来い! 手当てしてやる

 その言葉を聞いて安心したせいか、俺は一瞬で意識を失った。

― 5 ―

また、夢を見た。
ドブみたいな川の、決して綺麗とは言えない水の流れの中……首だけの女が泣いている。

『みのる……みのる……』
すぐ目の前にいるのに、彼女は俺の存在に気付かない。
なんだか透明人間になったような気分だ。

首の断面が見えた。
……血と、骨と、皮と、肉だ。
美しいその顔とは対照的に、あまりにもグロテスクな部分……

この人は……いったい誰なんだ?
そんな身体になってまで、俺に何を訴えたいんだ?
手を伸ばそうとしても、身体は全く動かない。

中田 実

もういいよ!
安らかに眠ってよ! かぁさ……


俺がそう叫んだ途端、夢は急に覚めた。

彼岸花 第五章 『気(き)』

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