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河内の家は、高台に作られた新興住宅地の中にあった。
こういう場所はたいてい、似たような家ばかりが並んでいて、非常にわかりづらいものだ。この『望洋台団地』も例外ではなかったようで、さっきから何度も地図を広げて確認をしているのだが、見る度に混乱し、挙げ句の果てには、今いる場所さえ見失ってしまった。
これじゃ『望洋』じゃなくて『茫洋』だ。
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河内の家は、高台に作られた新興住宅地の中にあった。
こういう場所はたいてい、似たような家ばかりが並んでいて、非常にわかりづらいものだ。この『望洋台団地』も例外ではなかったようで、さっきから何度も地図を広げて確認をしているのだが、見る度に混乱し、挙げ句の果てには、今いる場所さえ見失ってしまった。
これじゃ『望洋』じゃなくて『茫洋』だ。
ねぇ。私たち、迷っちゃったのかな?
そんなはず無いわ! この道を進めばすぐに河内の家が……
しかし、その先にあったのは小さな商店街だった。
あ! 広東食堂だって! 中華料理屋さんだね? ここで晩ご飯食べてかない?
ああ。用事が済んだらな
でも……またここに戻ってこれるかしら?
いつの間にか早紀も道に迷っていることを認めたようだ。
こっちのの分かれ道は、どっちに行ったらいいの?
地図だと右が正解じゃない?
いや、でも今いる場所がここなら、左に行くべきだよ
それ違うわ! 私たちはこの道を来たわけだから……
そうじゃなくてこっちの道を……
気が付くと、もう夕方になっている。夏なのでまだこの時間でも明るいが、日が落ちて暗くなってゆくのは時間の問題だ。
じゃあ二手に分かれない? 何かあったら携帯に連絡すればいいし……
そうだな。俺は左を行ってみるよ。佳奈は大神さんに付いててあげて
うん。わかったわ
それじゃ、私たちは右に行ってみるわね。……あ、この地図持っていってね!
え? でもそっちは?
私、もう一つ持ってきてるから
すごい! 用意がいいんですね
くすっ。まあね
とにかく! 暗くなる前に、河内の家を見つけなければ……
― 2 ―
しばらく歩くと、展望台のような場所に来た。眼下には、夕日を反射してきらきらと黄金色に輝く海が見える。なるほど、だからここは『望洋台団地』というのか……
この展望台を目印にすれば、きっとヤツの家もすぐにわかるはずだ。
そう思いながら地図を広げていると……
ん? お前……中田 実だな?
見慣れない二人組に、いきなり声をかけられた。
だ、誰だ?
見るからに不良そうな大男と、その子分っぽい小男のコンビだった。
俺たちが誰かなんて、お前には関係ねぇ!
新城さん! 間違いありませんぜ!
コイツ中田 実ですよ! ほら、写真の顔と同じです!
ヤス! 余計なこと言うな!
す、すみません。新城さん!
二人の間抜けなやりとりによって、大男の方が新城。小男の方がヤスということだけはわかった。しかしなぜ、この二人が俺に絡んでくるのだろうか?
ひとつ忠告しておこう。犬飼風香の件から、手を引け!
やはりそうか……しかしこの二人組、俺の疑問に次々と答えてくれる。
案外、いいヤツなのかもしれないな……などと考えていると、突然左の頬に激しい衝撃を感じた。
ぐはぁっ!!
どうやら俺は、新城に思いっきり殴られたらしい。
その勢いで倒れ込んだ俺は、コンクリートの地面に思いっきり後頭部をぶつけた。
口の中が切れて、血の味が広がる。
痛てぇ……
鬼との戦いでは感じなかった、リアルな痛みが身体中を走る。……そっか、喧嘩って、こんなに痛いものなんだ。
新城はすぐに俺の身体を無理矢理起こし、背後に回って羽交い締めにする。すると今度はヤスが俺の腹に何発もの蹴りを入れてきた。
おら! おら! おらっ!!!
コイツら……頭は悪いけど、喧嘩の強さだけは、本物だ。軟弱に過ごしてきた俺にとって、初めて味わう『圧倒的な暴力』だった。
ヤスのケリは止まらない。10発、20発、30……発? その間、何度も意識が飛ぶ。どこか骨、折れたんじゃないか? これ以上やられたら、死ぬんじゃないか? もう痛みよりも、恐れの方が大きかった。
や、やめ……ろ……
声に出そうとして気付いた。口の中が腫れて、もうまともに声が出せない。
ぐもっ……ごほっ、げぼっ!
身体が細かく震えているのは、恐怖のせいなのか?
それとも怒りのせいなのか? 寒い……夏なのに身体がものすごく寒い。
よし! これくらい痛めつけりゃ、懲りるだろ!
永遠に続くかと思われたリンチが、その一言で、ぱたっと止まった。……良かった。まだ、生きてる。やがて二人が去ってゆく気配。……助かった。
しかし、目を開いた俺は、さらに最悪の事態が起きていたことに気付く。倒れ込んでいる俺の目の前に――鬼が立っていたのだ。
― 3 ―
よ! 迎えにきたぜ! ……地獄へな!
ごほっ! くる……な……
へへへ。身体うごかねーのか? なさけねーな。
そう言うと、鬼はその小さな手で、俺の頬をぺちぺちと叩いた。
男の身体の中に入るのは趣味じゃねーんだが、まぁ、仕方ないな
な、なにをする……
簡単に想像つくだろ? あんたの身体を操って、ここから飛び降りるのさ。この高さなら落ちてる途中で気絶するだろうから、あんまり痛い思いせずに死ねるぜ
やめ……ろ……
そうはいかないさ。あんたを殺らないと、俺たちが殺られるからな
鬼の声がどんどん近づいてくる。右耳の端に、小さなツメが触れるのを感じた。
さぁ! 入るぜ!
追い払いたくても、指先ひとつ動かせない。逃げ出したくても、足の感覚がなくなっている。
もう……だめか……
しかし、そのとき――
― 4 ―
おい! お前……大丈夫か?
……え?
誰かが、俺の身体を抱き上げた。
……か、かせい?
だ、誰が仮性だって!? い、いきなり何を言うんだ!
その声を聞いて、俺はようやく思い当たった。河内 優だ。
いや違うって……加勢に来てくれたのか?
あ? ああ、そっちの『かせい』か。まぁ、そんなもんだ。しっかりしろ!
お、おに……
何だって!? ……なるほど。確かに強い鬼(き)を感じるな……よし!
そう言うと河内は、両手で印のようなものを結び、鋭い声を発した。
臨(リン)兵(ビョウ)闘(トウ)者(シャ)皆(カイ)陣(ジン)裂(レツ)
在(ザイ)前(ゼン)!!!
うぎゃーーーーー!!!
呪文を唱えた途端、鬼は悲鳴を上げて消え去った。
……わけがわからなかった。敵だと思っていた人間に、助けられて……しかも一瞬で鬼を消滅させた。コイツいったい何者なんだ?
お、お前……
まだ喋るな! 怪我の様子を見てやる。……うん。骨に異常はないな
痛てててててて!!
大げさに痛がるな! たいした怪我じゃない
(いや、相当な重傷だと思うぞ。)心の中ではそう思ったが黙っていた。
よし! うちへ来い! 手当てしてやる
その言葉を聞いて安心したせいか、俺は一瞬で意識を失った。
― 5 ―
また、夢を見た。
ドブみたいな川の、決して綺麗とは言えない水の流れの中……首だけの女が泣いている。
『みのる……みのる……』
すぐ目の前にいるのに、彼女は俺の存在に気付かない。
なんだか透明人間になったような気分だ。
首の断面が見えた。
……血と、骨と、皮と、肉だ。
美しいその顔とは対照的に、あまりにもグロテスクな部分……
この人は……いったい誰なんだ?
そんな身体になってまで、俺に何を訴えたいんだ?
手を伸ばそうとしても、身体は全く動かない。
もういいよ!
安らかに眠ってよ! かぁさ……
俺がそう叫んだ途端、夢は急に覚めた。