――世の静けさは消えてゆき。

 ――夜の平穏は、昼と混じり。

 ――人の眼と妖の眼が映す世界も、同じように混じりすぎ。
 ――触れなかった禁忌も犯されながら。

 ――それでも、糧を得る日々が、優先され。

 ――倦怠(けんたい)を身体に感じていた、そんな日常の合間のことだった。

あら。お久しぶり

……?

 ふってきた声の主を探して、狐は足を止める。
 夏の青さを映した大地が眼に入るが、薄明かりの曇り空のためか、今日は元気をみせていない。

(……いったい、誰が?)

 朧な思考でさまよう道。そんな場所で、誰が声を投げたのか。
 聞こえてきた声は、騒がしい日々の中で、不思議と耳に染みいるように聞こえた。
 ゆっくりと、頭を巡らす。

 ――その行為は、以前にもどこかあったような、けれどそれは自分ではなかったような。

 じゃり、と道を踏む音が聞こえる。音の方へ視線を向けると、声の主がそこにいた。

  ―――

 しとやかな足取りで近づき、少しばかりの距離を置いて立ち止まる。
 あの夜と同じ姿で、紅い着物の少女は狐の前にたたずんでいた。

……久しぶり、か

 少しばかり言葉を濁しながら、狐は言葉を発した。

三十年と三ヶ月十三時間くらいかしら

……そんなに、なるのか

 人形は狐の言葉を聞いて、へぇと小さく言葉をもらした。
 以前とは異なり、多少だが、狐の声には感情の色がついているように感じたからだ。

(少しばかりの時間、と想ったのだけどねぇ)

 人形にとってはわずかな時間でも、狐にとっては心理的に変化が出るような時間なのか。
 それとも、狐の習性ゆえか。
 糧の対象以外とは深く関わらないのが彼らの処世術であることを、人形は聞いたことがあった。
 だから、この再会に、らしくもなく戸惑ってしまってのではないか。少女はそう感じ。

……?

――ふふ♪

 微笑を浮かべ、その様子を興味深く見る余裕があった。
 狐に対する少女の方はといえば、以前とまるで変わらない様子。
 無邪気で毒気のない、微笑をたたえた天真爛漫な笑顔を浮かべ、眼を放すことを許さない。
 人間ならたやすく騙される、模造の表情。
 人形として造られた彼女ならではの、完璧な笑顔だった。

今日もあんまりよく見えないわね

曇り空、だからな

違うわよ

 苦笑する人形に対して、狐の外見は少しばかり昔と異なる。
 以前の月明かりとは異なり、曇りとはいえ、陽の光の下で浮かぶ姿はやや明瞭だ。
 白を基調とした衣は変わらず、既視感のある瞳も変わっていない。
 ただ、以前よりも人間らしい流曲線を、身体は描いている。

(――まるで、見捨てられた花嫁のよう)

 狐の嫁入り、失敗か。
 人形には、今の狐の姿はそう見えた。

そうねぇ。……少しばかり、老けた?

……

 瞳に映る、その姿と同様に。
 内なる気は同じでも、狐の表情には、以前よりも多少の陰りが見える。
 ――表情と呼べるほど、相手の顔がはっきりしていないところは変わっていないのだけれど。
 妖怪でも、時の流れには逆らえない。寿命はあるし、年もとる。いつかは老い、自然に帰る時が来るのだ。
 だが――当たり前のことなのだが、人形にとってその概念は、やや特殊だ。
 不動を定められ、衰えていく部分はあれど、基本的には変わらぬ身体と自己。修繕が適切なら、かなり長い時を維持することができる。
 そして、その性。
 死に向かう人間――一瞬の快楽を求め、人形に魅了される人間――を愛し、陥れ、生を奪いとること。
 一瞬が永遠の存在であり、人間の刹那を糧とする人形に、時の味は他の妖(あやかし)より遠いものだった。

(……だから、かな)

 ――味わい深い気だな、と人形は感じる。以前には感じなかった、時を経た生命の感覚。
 狐という種族ゆえなのか、それとも眼前の狐だけがそうなのか。
 人形には、その判別は難しかった。
 言えることは、年月を経ることで、狐の気の味わいが増した。
 そうなれば、違う興味がわき出てくる。
 人間には常に感じている、糧としか見えなくなってしまう妖(あやかし)の性。
 それを今の狐に対して、人形は感じてしまっていた。
 人形がそんな好奇心を胸に浮かばせていると、狐が口を開いた。

あなたも、少しばかり古びてる

 その声音は、以前と似た感触だと人形には想えた。
 押し殺しているのか、抑揚が上手いのか。外見の流麗さに比して、その色味のなさはひどく映える。
 そんなところもまた、人形の興味をかきたてる。

あんたのほうがひどいわよ。人間の騙しすぎで、疲れているのかしら?

 微笑む色を言葉に乗せて、人形は狐をからかう。
 騙し、奪い、まぐわい、誤り、残し、消えてゆく。
 それが妖(あやかし)としての狐だと、人形は知っているからだ。
 色のある人形の言葉に、狐は少しばかり間を置いて――ためらってから――口を開く。

騙しきれては、いない。最近の人間は、なかなか信じてくれない

……

……そうかもね

 苦笑して、人形もうなずく。
 確かに最近の人間は、騙しにくくなってきた。
 科学という名の魔法で、昼の光を夜に持ちこみ、人造の陰影で自身を保とうとしている。
 美しく惑わされても、必死にその理性にすがり付こうとする。
 刹那の魔性の魅力より、平静の永を生きようとする。
 そんな人間たちの変化は、妖(あやかし)にとって滑稽ではあったが、困りごとでもあった。
 糧が糧であることを忘れてしまうと、欲しているものは消えてゆくしかないからだ。

けど、人間にすがるんでしょ?

 だが、そんな人間の愚かさもまた愛しいのが、人の形を模して造られた人形の性でもある。
 神の似姿たる人が、神を見限れないように。
 人形もまた、人のなにかを断ち切れない。

あんたはどう? わたしと同じように、すがるのかしら

 狐は、どうだろうか。
 人形は、多少の皮肉をこめて、狐へと同意を求める。
 人形が興味をひかれるのは、自分にはない狐の部分。
 同じく人間を惑わす存在なのに、と考えて。
 こんなに無愛想で内に気をためたものが、どうして人間をとりこめるのか。
 狐はまた考え込むようにして、口を閉ざす。
 それほどに難しい話ではなかろうに、とも人形は想う。
 もしや、間をおいて話すのは、この狐の癖なのかもしれない。
 今更ながらに、そう想った時。

すがる、というのも適切じゃない。……けれど、間違いでもない。そうなのかもしれない

 ゆっくりとつむがれた狐の言葉は、そのどれもが、淡々と風に乗るばかり。
 答えでない答え。
 曖昧で迷う、意味のない言葉の羅列。
 間をおいたから、反動として、余計にそう感じる。
 あくせくとした人間には、好まれないだろう回答。
 その空気感を、妖(あやかし)でもある人形は、だが嫌いではない。
 これ以上、答えは出てこないと感じて、人形は話を変えることにした。

……狐って、アンタが会うのが初めてだけど

――わたしも、人形に会うのは、あなたが初めて

 人形としての同族など会ったこともないし、なにより人形は、固有でしか存在できない。
 だから彼女は、同族などいようはずもないと想っていた。
 だけれど。

そう。不思議よねぇ

 狐の存在は、妖(あやかし)の中でも有名な部類に入る。
 だからこそ、人形はその噂と眼の前の差異に、興味を感じざるをえない。
 人間の耳には、優しくも怪しい調べに聞こえるという、狐の声。
 それが人形には、機械の造るツギハギの言葉のように聞こえる。
 むしろ、人形は――人形だからこそ――思ってしまう。

 ――狐の声のほうこそ、まるで人形のようだと。

 そう想うのは、流麗な感情を言葉の色で編みながら、その身がひどく固い自身の身体ゆえか。
 だが、眼の前を見れば、温かみのある造りこまれた外見があり。
 おぼろな美しさの下には、何者をも寄せ付けない冷たい内心があると想え。

 ――狐のそれこそが、本来の『人形』のイメージと重なるのではないか。

 たたずむ白無垢の存在は、どこか、そんな人間の思い描く『人形』の形を思い出させる。

 紅い唇の奥で、人形はそんな想いを持ってしまう。

あんたに騙されてみようかな。噂も広がる、世界も広がる。びっくりするわ、妖(あやかし)同士の化かしあい

 小さく微笑みながら、人形は戯(たわむ)れを口にした瞬間。

びっくりするのは、あなたの立ち居振る舞い

 すんなりとした返答が、狐から返される。さきほどの間はなんだったのか。
 そうは想いながらも、弾む会話を好む人形は、言葉を返す。

あら、驚くことなんかなにもないわよ?

……人形だということを、忘れそうになる

へぇ?

内にあるのは、人が形にできぬ、ものばかりだから

……

 一瞬、人形はらしくもなく言葉に詰まる。
 考えでも読まれたか。
 狐ではなく、サトリであったか。
 初めて会った時と変わらない、無邪気で邪悪な淑女を想わせる、人形の微笑み。
 造りこまれた、少女としての仮面。
 その内心が、見た目ほどの一面でないことを、狐は言い当てた。
 だから、その内心を少しさらけだす。
 望んだのは、狐自身なのだから。

女の形は、あらゆる外形の基礎なのよ。だからこそ、魔を孕んでいるの

 自身の姿に魔が宿っている、そう人形は語る。
 狐は一拍おいたあと、口を開く。

自虐的。ひどく

 狐の感想は、簡素でいて正確だ。

そうじゃないわ。そうであるように、わたしは造られたの。わかる?

 ふわり、と人形の足が土を踏む。
 踏んだかどうかもわからない一瞬の後、人形は狐の眼前で瞳を交わす。

わたしは、わたしを愛するものを吸い尽くすために、造られたのよ

 舞うような優雅さ。
 狐に近づいた人形は、瞳を凝らす。
 既視感のある、綺麗な二つの瞳に向かいながら。
 まるで狐を魅入るように、ガラス玉の瞳でじっくりと。

人間を、生命を、わたしを愛するものを滅ぼすために

……まさに、妖(あやかし)、だ

あんただって、そうでしょ?

人を吸うということなら、変わらないかもしれない。ただ、妖(あやかし)は、みな糧がある

みんな同じってこと? まぁ、そうだけど……でも、わたしとあんたは似てるかもね

似ている?

今日は、ずいぶんと可憐だわ

 ふった話には受け答えず、人形は狐の擬態へ感想を漏らす。
 人形の瞳は、どうしてか先ほどよりも少しだけはっきりと、狐の姿を捉えられるようになっていた。

以前よりも雰囲気は暗いのに、姿形はまだ見やすいわ。どうして?

……綺麗な少女を、望む方だったから

 呟きながら、狐は、数日前までともに過ごした男のことを想い返す。
 ――酒と女で身を崩し、病に犯された、純真で哀れな文学青年。
 その絶望に疲れた心が、輝き色を戻していくさまは、狐の心をひどく満たした。
 満たされることと、相手が死ぬこと。それが、なによりも狐の心を癒す。
 ――偽りの幸せで人が朽ちてゆくことで、狐の心はなによりの癒しを得ることができる。

姿形だけの少女。今日は、わたしと似ているわ

 眼の前の人形は、さして変わらないと言う。
 狐の癒しが、自身と変わりないと。

ただ、過程が違うだけ。でも、結果が過程を正当化するならば――一緒でしょう?

 人形が求めているのは、人間の絶望。
 光を与え、夢を支え、手に入れようとした瞬間の希望――それが、絶望という言葉でひどく黒ずむ。
 その絶望を与えるのは、全ての光の源である人形そのもの。
 初めから計画されていた、終わりの物語。
 微笑みで始まり、微笑みが偽りになる、氷の微笑。
 真実という名の刃が刻む、幸せの終幕。
 瞬間に惹きこんだ渇望と絶望が、妖(あやかし)としての人形の心を満たす。

……似ている?

 二度目の、同じ返答。
 曖昧にではあるが、人形という存在がどういう糧を求めているか、狐も知っている。
 だからこそ、曖昧な返答を返すことしかできない。
 人形の言葉に気づきながら、怪訝に重ねた返答をすることしかできない。

わたし、形しかないもの。そうあるように、定められた形。人間を騙すことだけに優れた、蠱惑な形。それだけ、だもの

……綺麗、だと思う

世辞すぎるわ。今、言ってもらっちゃあね

 苦笑する人形は、まんざらでもない雰囲気ではある。
 ――そう見えるようにしか、外面を造られていないのかもしれないが。

ならば、似ていない。形という意味では

 狐は、だから、狐としての言葉を返す。
 狐の個は、種族としての側面もあるのだから。

そう? あんた、キレイよ

 すっと。
 人形の細い指先が伸ばされる。
 ――その指先で触れられたら、どれほどの温もりがあるのだろう。
 そんな想いを抱きながら。

……!

 すっと。
 狐は空へと身を躍らせる。
 人形の指先を、避けるように。
 最後の一言を、会話の呼び水としないために。

わたしに、明確な形はない。あるのは、相手の瞳が見ている、わたしの幻だけ

 その声は、森の暗さと光が交じわる、闇のなかへと溶けてゆく。
 同じように、狐の姿も消えてゆく。
 白さだけを残して、形を失ってゆく狐。
 そんな白さに、人形は言葉をかける。
 最後の一言を、閉じる一言としないために。

なら、わたしはまたアンタのことを見つけてみせるわ。見たいもの。アンタを見ている、わたしのなかの幻。――いいでしょ?

……

 答えのないまま、人形の言葉は風へと消え、狐の気配はその場から消えたのだった。
 残された人形は、ただ、微笑を浮かべてたたずんでいた。

―――

 ――目じりを下げた眼つきと微笑は、人形らしからぬ生気と色気を感じさせた。

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