音もなく、影が動く。
月明かりの下を歩く影。
音もなく、影が動く。
月明かりの下を歩く影。
紅い着物を身にまとう、長い黒髪の影。
ゆっくりとゆっくりと、森の中で歩を進める。
―――
枯れた空気を身にまとう、古風な佇まい。
音もなく、ただまっすぐに、紅い少女は森を行く。
暗く不吉な影をつれて。
――今夜の月は、嫌に明るい。
だからこそ、光と闇の区別は明瞭にされる。陰影という形でもって。
少女の形も、その理には逆らえない。
―――
紅い着物と対比するかのような、白い肌が印象的な顔。そして、彫り込まれたかのような流曲線の身体。
くりりとした大きな瞳がはめこまれた顔と、腰までも届く長い黒髪が、少女の造られたような美しさを補完する。
その姿を視界におさめた者は、こう言うかもしれない。
――闇夜に歩く少女は、人には見えない、と。
……?
人形のように整えられた表情を、ゆっくりとだが懸念に染めて……少女は歩みを止める。
月明かりの照らす、頭上の一角。
そこへ、頭を巡らして。
あら。珍しい
月光の灯火は、声までもくっきりと明確にする。
夜とは思えぬ月明かりの世界とはいえ、闇夜は深い。
なのに、少女はしっかりと視線を向けて口を開く。
目立ってしょうがないわ。それとも、目立ちたいのかしら?
視線の先には、森の群れ。空へと枝を伸ばす、木々の羅列。
平素なら生命を象徴する形が、この闇夜では、天に仇なす亡者の群にも見える。
だが、少女の目的はその亡者でもない。
ぽつり。
ただ一点の違和感。
見上げた先で瞳に映りこんだ色は、夜の闇につぶされそうな純白。
汚れの一点もなく、汚れたことすらなさそうな、一色に塗られた潔癖さ。
嫌にはっきりと輪郭の見える、白無垢姿。
夜の闇には不釣り合いね。どうしてそんな場所にいるのかしら?
お互い様、か
白無垢から声が出る。
その着物と同じく、どこか白さを感じさせる声音。
明確な白さは、なぜか闇夜に溶け込むことはなく、対比するかのように朧な輪郭をまとっている。
ただ、その全体像は明瞭でない。姿はあれども、視覚には収まるけれども、しかしはっきりした姿を意識することはできない。
声もまた、どこか曖昧でつかみどころのない、抑えたもの。
小さな唇からつむがれる言葉の色は、感情を知らないかのような冷たさを含んでいる。
そういう口調で言ったのか、そういう口調なのか。
真似しないで欲しいわ。恋人が、困ってしまうじゃない
曖昧な姿と声音に対し、紅い少女は声と衣(ころも)をなびかせて、白無垢へと声を返す。
ゆっくりと、艶やかに。
少女は、外見にそぐわぬ妖艶な微笑みを浮かべる。
人恋しい紅色で染め抜かれた着物と合わさる姿は、見るものを魅惑せずにはおれない。
まるで造り物のような精巧さ。強調さ。完璧さ。
少女の声は、色のついた口調。感情が見え隠れする、七色の声音。
白無垢の声とは真逆の、奔放な感情のついた声。
それは、聞くものに人懐こさもいぶりだす。
まるで、少女に誘われているのかと錯覚するように。
困るほどの、飢えを持っているわけでもなさそうだが
白無垢は、しかしその見目に惑わされることもなく、明確で冷静な返答を言葉にする。
惑わされることを拒否するかのような言葉に、紅い着物の少女の表情が変わる。
少しばかりの驚き、感心。
あら。アンタ、わたしのことがわかるの?
造られたものが造った者を糧にするなんて、珍しくない
さすがに、騙りをさせれば勝てないモノの代名詞ね。出会ったのも、なにかの縁かしら?
笑いをどこか隠し切れない様子で、少女は白無垢へと微笑みを返す。
笑いの意図を含んだ、恐喝の意味。
それなのに、少女に浮かんだ笑みは、どこか憎みきることはできない無邪気さが映っている。
――わたしは、あなたのやることに興味はない
笑みの意味を察して、白無垢はそんな言葉を投げる。
少女が歩みゆこうとした方向へ、意識を向けながら。
今から会いにゆく方に、興味がない?
少女もまた、白無垢と同じ方向へと視線を巡らせる。
お互いの視線の先が、交わるところ。
そこには、少女の目的とするものが待っている。
――ばさり、と音がする。なにかが開く音。
一輪の花――傘を開き、少女は影をまとう。
そう。そうね、待たせてはいけないわ。ただ、焦らせるのも面白いかもしれないけれど
広げた色も、また紅色。
まるで花弁のように、少女を頭上から覆う。
月明かりの下で、肩元へと傘をかけるその姿は、一枚の絵のような出来過ぎたものだった。
その姿は、月夜の下と相まって、ひどく女の陰性を強調する。
傘で天より守られた少女へ、白無垢はゆっくりと声をかける。話の続きをするように。
糧は、自分で育てる。それに……
声の調子が、やや強くなる。
すると、白い空間に変化が起きる。わずかな変化。
ぼんやりと。ゆっくりと。
二つの瞳が浮かび上がる。
黒く大きな、はっきりとした、切れ長の瞳。
傘の下から伺って、少女は不思議な既視感を覚える。
それは、どこかで見たことがある瞳。
思い出せない、けれどひどく身近な、とても見知った二つの瞳。
人形の好む者は、わたしの対象には入らない
ぽそりと呟かれる言葉に、そんな既視感は流される。
自身の正体を言い当てられても、少女が驚いた気配はない。
想定していた答えに、むしろ言い返す口実を得たかのよう。
裏切れないから、かしら。優しいのね
――その瞬間こそが、とても愛しいのに。
少女は苦笑して、白無垢へと背を向ける。
こちらの獲物が対象に入らないのなら、こちらとて興味を向ける必要もない。
障害にはならないのだから。
今、少女が欲しているのは、障害でなく、育てている糧なのだから。
また機会があったら会いましょう。今度は、あなたの本当の姿とね
足を踏み出しながら書けた言葉は、傘越しの曇った言葉。
少女の言葉に応える声は、二歩三歩と進んでも返ってはこない。
ぴたり。
少女が足を止めて、くるりと振りむく。視線の先に、白無垢の姿をしかと見つけて。
それとも、狐には本当の姿なんてないのかしら? そこのところも、今度教えてもらおうかしら
白無垢の正体を見たり、とした口調ではっきりと告げる。
……あの御仁、待ちくたびれている
白無垢――狐は、しかし驚いた様子もない。
浮かぶ瞳にも、感情の揺らぎは見られない。
ただ、狐が細めた瞳の先には、人形を待っているであろう男らしき姿が映る。
その言い方に、何故か、困ったような距離感を感じて。
そうね。それではまた、いつかの機会に
またいつかを考えながら、少女は人形としての自身に戻る。
去り際は鮮やかに。
色を残さず、形骸だけを残す。
それが、人の形を模して造られたものの特色であり、美徳でもある。
大輪の紅が、目的の闇へと消えた後。
月明かりの下には、白い影と瞳だけが残される。
……
そこで初めて、二つの瞳に揺らぎが生まれる。
ほんのかすかな、戸惑いのようなもの。
微笑んだ口調を崩さず、人形の美しさを残していった少女。
――そうね。それではまた、いつかの機会に――
そんな言葉が、狐の心に少々の不安を覚えさせる。
再会を求められるなど、慣れていない。
妖(あやかし)は、同族ですら馴れあうことはない。
なのに、まるで異なる人形と狐が、再会を求めるなどと。
約束ですらない、明日には忘れてしまうかもしれない、会話の一片。
そんな、予期できない未来へ、なぜか狐は不安を覚えた。
だからといって、できることなどなにもない。
できることといえば、厄介にならなければいい、と願うことくらいしかない。
月夜を見上げて、狐は朧な姿のままに、闇のなかへと溶けこんでゆく。
白い影が闇に消え、不気味な木々の影だけがその場に残される。
周囲には、風と森の音だけが満ちてゆき。
妖の気配は、月明かりの闇の中へと帰っていった。