白い雲海の広がる方角の反対側では、すぐ眼下に迫る高く聳える人工物がいくつも煙を立ち上らせていた。腹に響く低音はどうやらそちらから聞こえてくるようだった。何故今までこんな景色を背にしていて気が付かなかったのかと思うほど、背後の澄み切った青空との差が激しい。

 シオンはゆっくりとその人工物……どうやら、街であるらしいその上空へと移動した。
 煉瓦敷きの道と家が立ち並んでいる。全体的に赤い街並みの中に、所々黒い石造りの巨大な建物が聳えていた。何よりもまず目を引いたのは、建造物に取り囲まれるようにして回る巨大な歯車の数々。
 土の匂いも水の匂いもそこには無く、金属と火の香りが強くする。
 丘の上よりも更にマナが薄く、シオンは頭の片隅が鈍く痛むのを感じた。酸欠ならぬマナ欠である。すぐに慣れる、と捨て置いた。

   赤い煉瓦の道の上ではシオンのよく知った形の人間達が忙しなく行き交っている。
 彼らの肌はシオンのそれよりも白っぽく、毛髪は赤や金、明るい茶色等が多いようが、時折青だったり緑だったりと目立つ色も見えた。それ以外は特に変わったところは無い。例えば耳の尖った人間なんかは居ないらしい。
 幻想的な世界であれば、耳の長い人類や、獣と混じったような人類が存在しても良いのではないかとも思うが、今の所シオンはそういう人類に出会った事は無い。形に拘らなければ、前回の世界には概念からして異なる者ならば居たのだが。

 ともあれシオンは、その街に降りてみる事に決めた。人目を避けて薄暗い路地に降り立つと、少し考えてから悪目立ちのしそうなローブに認識阻害の魔法を掛けてみる。道の端に溜まった砂を掴み、それにマナを込めてからローブに振りかける。

「sangigía siss apiaren eto mäs Wanden ……」

 私の望むものへとお前の見かけを変えなさい。呪文も媒介も、賢者たるシオンには本来ならば必要無いが、シオンは言葉に魔力を乗せるのを好んでいた。

 内体に溢れんばかりに留まるマナの上澄みをほんの少しだけが吐き出した言葉は媒介にして現実に影響を与える力となり、媒介たる砂粒を依代として何の問題も無くローブに絡み付く。
 どうやら、魔法自体が損ねられる世界では無いらしい。異世界の言葉も、その阻害なく魔法となるようだ。この世界の物自体が魔法を受け付けないわけでもないらしい。
 前の世界では力を持たない言葉は──つまり話者や知るものの少ない言葉は──魔力を乗せると壊れてしまう場合もあったのだ。この世界にその法則が当て嵌まる場合、この世界の物に魔法をかけるにはまずこの世界の言葉を覚える必要があったので、少々ほっとする。
 テストを兼ねた魔法の実験に、シオンは唇の端を満足げに吊り上げた。

 地に足をつけて見回した、或いは見上げた街は上空から見下ろすよりも不思議な光景だった。
 認識できる形でマナが存在するという事は、この世界には魔法に関わらずともそれを利用する存在があるという事だ。にも関わらず、この街の建造物にマナの痕跡は一切無い。歯車は科学の象徴である。マナの存在する世界の街の中にそんなものが堂々とあるのだから、もしかするとマナは純然たるエネルギーとして利用されているのかもしれない。

 この世界の人類はまだ、もしくは永遠に魔法を使えないのかも、とシオンは仮説を立てた。その仮説は案外的を得ているような気がして、シオンは殊更に上機嫌になってレンガ敷きの赤い道を足取りも軽く歩いた。

 道行く人々はすれ違いざま、あまりのシオンの上機嫌さに不思議そうな顔を向ける。

 暫くしてその表情に気がついたシオンは、そうしてようやく、自分が現状の把握を目的とするにしては必要以上に楽しんで周囲を見回っている事に気がついたのだった。
 一つ呼吸を深く行って浮ついた気分を落ち着ける。しかし、肺一杯に吸い込んだ空気は淀んでいて重く感じられ、やはり金属と火の匂いが染みついていた。落ち着くどころか少々気分が悪くなったシオンは、日差しを避けて影の多い路地裏へと入り込む事にした。

 壁に手をつきながらひんやりした空気に包まれて細い路地を進むと、次第に金属の匂いが強まっていく。耳の奥で薄氷が降られているみたいにシャリシャリと音がした。希薄すぎる空気中のマナが崩壊反応を起こしているのだ。
 路地へ入り込んだのは失敗だった、とシオンは舌を打つ。
 マナ欠のせいで頭がくらくらする。内体に高濃度マナがこれでもかというほど満たされているのも問題だった。周囲の濃度との差が激しくて、体内のマナと空気中のマナが引き合っているせいで体中が痛い。

 う、気持ち悪い……

 とうとうマナ酔いを引き起こして吐き気さえするようになってきた。
 限界を感じたシオンは、震える手で壁を伝ってしゃがみ込み始めた。

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