吹き荒ぶ風が肌を撫で、髪とローブの布を煩く巻き上げる。
 その中に、慣れ親しんだ雷鳴の音や、妖精の嘯きが聞こえない事に気がついて、シオンは億劫さを振り払いやっとその身を起き上がらせた。

 彼女が眠りこけていたのは、どうやらかなり高くまで聳える丘の上。

「土……」

 まずシオンが認識したのは、己が身を横たえていたその下にある、小さな野草が生い茂る湿った土だった。
 手が汚れるのも気にせず掬い上げると、この十年でよくよく見知った乾いた砂とは全く異なる重みと湿り気がほろりと崩れる。

 次にシオンは、天を振り仰いだ。
 そこには抜けるような蒼天が広がっていた。
 もう二度と見ることは無いと思っていた、青空の色だった。

蒸気機関と魔法陣

 シオンはかつて、赤いランドセルを背負う子供だった。
 時たま雲に覆われる青空の下、アスファルトで舗装された道を歩き、コンクリートの家にすむ生活を送っていた。
 そうして十年前からは、複雑な紋様が織り込まれたローブに身に包み、今常に稲妻の光る暗褐色の曇天の下、永遠と続く砂岩の道を踏みしめるようになった。大樹の枝の上を家とするような生活だった。

 今は──何処とも知れぬ世界が目の前に広がっている。

 妖精の囁く声の代わりに何か巨大なものの動く低い音が、一定感覚でシオンの腹に響いている。
 大気中のマナはかなり薄く、オーロラに似たマナ光も見えない。

 二度目の世界旅行か、とシオンは小さく呟いた。行くばかりで戻れぬその旅行の切符は彼女自身だ。
 シオンのエーテル体の核にその大魔法は刻まれていた。
 マナさえ注ぎ込めば何時でも発動するそれは、論理上、エーテル界以下の階層に存在する異世界ならば何処でも飛べるようだが、悲しいかなその魔法は十年掛けて異世界の賢者となったシオンですらも半分も理解できないような代物で、単なる発動以外は出来そうに無かった。

 一度目のものは、物質界の世界故に認識もされぬマナを知らぬ間に溜め込み、肉体から内体へのパスを無理矢理抉じ開けての発動だった。
 即ち、死に直面しての覚醒により、あの世界では数少ない内体とのパスを繋げた者となった。

 二度目の今回は、まさしく暴発である。
 神子アンヴェルローザの精製したマナ結晶は認識以上に濃密過ぎるマナを有していて、取り込んだシオンの身体が破裂するかという程だった。
 流し込んだ先にあったのがエーテル体の大魔法で、無論それは発動し、今に至る。
 お陰で普通ならばマナの枯渇で死にかける筈が、今尚マナに満ち溢れている。
 げに恐ろしきは半神の賢者の身体を構成する内体のマナ含有率かな。肉体が水を含むよう、内体もまたマナを含む。内体が強大なものであればあるほど、その量は増えていく。

 飛んだ先であるこの世界のマナの薄さに、もしもそのマナ結晶が無ければ一月は苦しんだかもしれない。そのマナ結晶さえ無ければこの世界に来ることも無かったのだが。


 シオンはゆっくりと立ち上がると、ローブの裾を払って浮かび上がった。寝転がっていた小高い丘から、更に高く。そうして視線を遠くへ向ければ、おかしな事に気がついた。
 雲が下にある。まるで海のように、水平線のあるべきところに白い雲が波打っていた。

 浮遊大地か、とシオンはにっこり笑った。
 前の世界は魔法の世界ではあれど、どうにも生まれ落ちた世界で見ていた幻想的な世界には程遠く、不可思議な自然の美しさとは無縁だったのだ。あの暗い世界は異世界への好奇心よりも先に不安感を呷る。

 それがどうだろう。この青空の下の、明るい世界と言ったら!

 上機嫌で別方向へと身体を向けたシオンは次の瞬間には唖然と呆ける事になった。

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