台に乗りながらはたきで本を叩いていると、後ろから袖を引かれた。シェイプが振り返るとディティが不穏そうな顔で外を指さしていた。
ねぇ、お兄ちゃん
うん?
台に乗りながらはたきで本を叩いていると、後ろから袖を引かれた。シェイプが振り返るとディティが不穏そうな顔で外を指さしていた。
何かしたのか?
雨降りそう……
ウソだろ! まじかよ!
シェイプは慌てて台から降りようとして失敗した。顎をしたたか打ちながら、それでも開けっ放しの扉に飛び出し、店の軒先で陳列していた本を掴む。空を睨むと、不穏な雲がこちらに近づいていていた。窓から見える空は晴天だったので気づかなかった。
ここに住まわせてもらって数日。きっと本を濡らせば外に放り出されるだろう。
重たい台を両手で掴み、よたよたしながらも店の中へしまい込む。
倒したりしたら汚れる
奥で寝ている老人が起きて惨事を見たら締め出される
冷や汗がどっと流れた。台を置いて、数分後、ディティの宣告どおりぽつぽつと雨が降り始めた。それはシェイプが見上げる先で本降りとなる。
小僧
背後から声がして、シェイプは怯えながらもゆっくりと振り返った。眠りこけていた老人はいつ近づいたのか、腰を屈めながらシェイプの顔を覗き込んだ。鋭い瞳は笑わない。
よ、汚してません!
怯えた言葉に老人は何も言わず、小さな頭を撫でた。皺だらけの手はあまり力が入らないのか、髪を滑るような撫で方だ。
茶でもいれようか……
離れた手の跡をシェイプは自身の手で触れた。意味が理解できなかった。しかし、何故か心の奥底は温かい。
老人の後を追い、外にある料理場へ向かう。雨音が世界を包んで、大地には三人だけが存在するような感覚に陥る。屋根で雨水を避けた向こう側は半透明に沈んでいる。
ほれ
ありがとう……
熱い紅茶の入ったカップをもらい、ふぅと息を吹き掛ける。ディティは何故か冷まさず飲み始め。
あちっ
と言いながら舌を出していた。
茶は逃げんぞ
そう言いながら老人も一口。
あちっ
どこを見ていたのだろうかと思ったのは胸中に仕舞っておこうとシェイプは思った。
でも、強い雨だな
数分前には晴れてたのにね
そうだな。しかしお前さんがたには助かった、私一人だったら濡らしていたわ
シェイプが汚い効果音と共に、カップの中で紅茶を噴き出した。耳を疑ったほどだった。
今、褒めた?
老人は数日一緒に生活までしていたが、一度も笑顔を向けたことはなかった。固い表情に睨みの効いた瞳が通常で、褒めることなどないと思っていたのだ。
お兄ちゃん汚い
えっ、と
腹が減っているか?
はっはいっ!
思わず固い口調で返事を返した少年はこっそりと目線を上げ、目を疑った。老人の顔はいつもより柔和で笑っているように見えたのだ。
じゃ、作りま
簡単なのだからいい。さ、手を出し
老人に言われるままに手を出すと、ライ麦パンがカットされ掌に落ちた。三等分にしているようだが、明らかに老人の物は小さく、自分達は貰い過ぎのような気がした。じっと見つめていると軽く炙ったチーズがパンの上にどろりと乗る。
オレ多くない?
私はこれだけでいいんだ
老人はそう言って味わっているのか分からないぐらいの速さでぺろりと平らげた。
……優しんだ
そう思いたいなら思っておけ
おじいさん、もっと笑顔見せればいいのに。そうすれば人来るよ
余計な御世話だ、お前達が懸命に働けば自然と人はくるわ
はいはい、頑張るよ。摘まみ出されたくないから
悪いことをしない限り、別に構わんさ
ディティの柔らかい笑い声が二人の間に重なる。
幸せね、ここは幸せな場所ね
頬が染まったのはシェイプだけで、顔色の変わらない老人に一人舌打ちをしていた。
暗闇の中で少女のすすり泣く声がしていた。シェイプは毛布の中でもぞりと動き、横にいる妹を覗いた。
どうした?
ディティは毛布に顔を埋め、シェイプの声には答えずに泣き続ける。彼女を撫でようとして、積まれた本に毛布をひっかけ雪崩を起こした。その音でも妹は顔を上げようとしない。
大丈夫か?
怖いよ……
ディティの身体は異様に震えていた。
わたしは人を殺したのに、幸せになって、怖いよ……
自分が幸せに満たされるごとに、彼女の中にはあの日の情景が蘇っていた。見開かれた瞳、霧に消える四肢。手を伸ばせばよかったのか。
幸せになっちゃいけないのかなって思うの。怖いの
馬鹿だろ!
深夜だがシェイプは叫んでいた。そのままディティの肢体を包み込む。
お前、覚えてないの。黒髪の兄ちゃん
ディティの身体は痙攣して瞳孔が開いた。
あいつ救ったんだろ。花貰ってオレ達より子供みたく喜んでたじゃん
……
清く貪欲に生きろ
不意にいつかの女の台詞が脳裏に浮かんだ。どんなに頑張っても潔白にはいられない。盗んで、刺して、落として、それでもここにいたい。誰かを不幸にする傍らで誰かを幸せにして、それを相殺として生きては駄目でしょうか?
オレ達は善人なんかじゃない。人間なんだ、ただの生きたいともがく人間なんだ
いいこと言うな、小僧
いつの間にか定位置である台から起き上がってきた老人は、ランタンで兄妹を照らした。暖かいオレンジは自然と心を落ち着かせ、不安が小さくなる。
人間なんてどれもこれもまともじゃない。潔白な人間なんて
そう言って一冊の本を捲った。剣士が一人、丘に立ち風に髪を揺らしている挿絵。
物語の世界だ
老人は兄妹を強く抱きしめた。
もう、お前さん方は悪にならなきゃいけない世界にいないのだろう。ならこれからでいいじゃないか。もうナイフも人を蹴落とす手も捨てていけ
ナイフ……
青年から渡された、人を一度刺したあの剣を明りに照らす。
何で知ってるの?
持っていることは老人に言っていない。
この数か月、お前は何回それを見つめた? 一度ぐらい見るわ
……………
その表情を見れば、使ったか使ってないかなんて解るわ。私の方が生きているからの
老人は満足したような顔で高みから兄妹を見下ろした。
小僧よ、ナイフを見つめる代わりになることを教えてやろうか?
少年は話の流れが分からずに眉間に皺を寄せる。老人は今までにみたことないように楽しそうにしていた。
お前はぼそぼそと何か言っているな
ちょっと! それも見てたの!
この空間しかないのに、見ない方がおかしいわ
老人は決して広くない部屋に手を広げる。貸本屋兼住居の一部屋のみで確かに見ないでというのは無理があった。
呟いているモノは物語だな
悪いかよ
悪くない。貸本屋にはもってこいだ
こんな時に限って笑うものだから、シェイプの顔はどんどん不機嫌なものへと変化していた。仏頂面で膨らんだ頬をディティは突っついた。
やめろよ
やめなくていいぞ娘。このことも一つの糧よ。小僧、物語を綴れ、紙は使いたいだけ使えばいい
…………下手だよ
下手なんて関係ない。声じゃ消えてしまうからの。私はそれが勿体なくて仕方がなかった
あんたには絶対見せない
こっそり見てやろう
絶対この人には勝てないと思った。実際、シェイプは老人に参ったと言わせることが出来なかった。
生涯、たった一度として。
と、めでたしめでたし
御噺にどっぶり浸かっていた少女の瞳は輝き、語り手を終わった青年に拍手を贈った。
王子様とお姫様、結婚できてよかったね
はい、語ったんだから帰りな。もう外は赤いよ
少女は未練がましそうだったが、台から下ろしてやるともう足は帰路へと向かっていた。振り返りながら少女は言う。
次は人魚の話がいいな
考えておくよ
ばいばいと手を振ったのに振り返して、青年は再び紙へペンを走らせる。私達がと書いたところを訂正して、続きを綴る音だけが赤く染まる貸本屋に響く。
今、少女が私に物語をねだってきたので、ありがちな王子様とお姫様のお話を聞かせてあげました。紙に書いたのは、ここの元亭主であり、私達を育てた老人の導きです。狭い部屋に紙の束が積んであるのは全て私が綴った物語です。
ここでひとつ、貴方にもお話を綴ろうかと思います。
とある、兄妹のお話です。しかし、その話に出てくる『守ってくれるもの』は、貴方ではないでしょうか?
私はそう思うのです。