彼岸花
  ~ 序章 『起(き)』 ~

 かったるい月曜の昼下がり……
しんと静まりかえった教室に、謎の呪文が響き渡る。

山崎

な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね。……これを、『ナ行変格活用』といいます。

 声の主は、国語教師の山崎。
ヤツのあだ名は、『ツェツェ蠅』だ。

山崎

せ・し・す・する・すれ・せよ。……これを、『サ行変格活用』といいます。ら・り・り・る・れ・れ……

 刺されると眠り病になると言われているこの虫同様、ヤツのぼそぼそとした声を聞くと、みんなの意識がどんどん遠のいてゆく。

山崎

こ・き・く・くる・くれ・こ・こよ……

 ひとり、ふたり……今日もまた生徒たちが次々と夢の世界へといざなわれていった。

 気が弱いのか、それとも最初からあきらめているのか、山崎は注意ということをしない。
だから俺たちにとって、この時間は格好の睡眠タイムになっている。

山崎

ゑ・ゑ・う・うる・うれ・ゑよ……

(……日本語なのかよ? それ!)


 心の中で、そう突っ込みながら、いつものように、ウトウトとまどろむ……

 俺の名前は、中田 実(なかた・みのる)。
自分でも嫌になるくらい、平凡な高校生だ。
そして毎日、こんなふうにありきたりの日常を過ごしている。

いや、ありきたりの日常を過ごしていた。
……奴の姿を見るまでは……

中田 実

――ん?

 授業も終盤にさしかかったとき……目の端に、異様なものの姿がとまった。

中田 実

……う、嘘だろ!?

 俺の机の上に、鬼が立っていた。
身長15センチぐらいの小さな鬼……そいつがギロリとこちらを睨んでいる。
上半身は裸で、あばら骨が浮き出して見えるほど痩せていた。
そのくせ腹だけはぼこっと不自然に膨らんでいる。腰にはボロボロの布きれ。
そして頭のてっぺんには、にょきっとした角のようなものが生えている。
金棒こそ持っていなかったが、その姿はおとぎ話に出てくる鬼そのものだった。

中田 実

……お、おに?

 俺は完全に動転してしまい、見たとおりのことをそのまま口にしていた。
しかし、これが最悪の結果を招くことになる。
それまでニヤニヤと下品な笑みを浮かべていた鬼は、その声を聞いた瞬間、
さっと表情を硬くし、深刻そうな声でこう呟いたのだ。

お前……俺の姿が見えるのか?


 この質問に、いったいどう答えたらいいのだろう?
俺の身体は硬直し、思考は完全に停止してしまった。

……けっ! だんまりかよ。まぁいいや。お近づきの印にいいもの見せてやるよ! とびっきり綺麗な、彼岸花だ!

 そう言うと鬼は、俺の前の席にいる鳥海涼子の方へと歩いていった。

俺はあんまり、異性と積極的に話をするタイプではない。でもこの鳥海涼子とだけは、何となく気が合うというか……いや、向こうが気軽に話しかけてくるというのが正解かもしれない。

彼女――涼子は、クラスでも比較的地味な存在だ。
成績は中の上。スポーツもそれなり。特別社交的なタイプでもないし、かといって暗い性格でもない。
この特徴は、そっくりそのまま俺にも当てはまる。だから妙に気が合うのかも……って、え?

 見ると、鬼は彼女の背中にしがみついている。やがて鋭い爪を使ってじりじりとよじ登り、肩の辺りで一休みをした。

中田 実

な、何するつもりなんだよ!?

まぁ見てなって! 鬼には鬼の仕事があるんだ!

 やがて鬼は、彼女の左耳に手をかけ、その穴の中にぐいぐいと頭を押しつけ始めた。
……無理だ。いくら鬼が小さいからって、そもそもサイズが合わない。
しかしその直後、鬼の頭はぐにゃっと粘土みたいに変形して、ずぶずぶと耳の穴の中に入り込んでゆく……やがて肩が潜り込み、両腕が吸い込まれてゆき、最後に残った両足もちょうど水泳のバタ足みたいな動きをしながら彼女の中に入っていった。

……う、嘘だろ!?

 いったい何が起こったんだ? 彼女――鳥海涼子は、どうなってしまうんだ?
ほんのついさっき目の前で起こった状況を理解できずに呆然としていると、突然涼子が
立ち上がり、教壇の山崎に向かってこう言った。

鳥海涼子

山崎先生!

山崎

……ん? どうしたんだね? 鳥海! 急に立ち上がったりして……

鳥海涼子

先生! 知ってましたか? 人はみんな、心の中に綺麗な花の種を持ってるんです。
でも、水をやることを忘れている。肥料をやることを忘れている。
太陽の光を浴びることを忘れている。
だから心の中で、葉が枯れて、茎が折れて、根が腐ってゆくんです!

山崎

な……何を言ってるんだね?

鳥海涼子

私、騙されませんよ。ちゃんと自分の花を咲かすんです。
今はまだ、つぼみだけど。ちゃんと咲くんです!

山崎

言ってる意味がわからんが、なにかの比喩の話しかね?

鳥海涼子

ちがいます! 本当に咲くんです! 綺麗な彼岸花が……

 ――『彼岸花』その言葉を聞いて、俺の心臓が痛いくらいに、『ドキン』と高鳴った。
ついさっき、鬼が言っていた言葉と同じだ。

鳥海涼子

見ててくださいね。ほら!

 そう言うと鳥海涼子は、開け放たれた四階の窓から――飛び降りた。

中田 実

お、おい! ちょっと待て!

きゃーーーーーーーー!

 怒号! 泣き叫ぶ女生徒たち。そして、視線を下へと向けると――
鳥海涼子の頭を中心にして、幾筋もの真っ赤な血が放射線状に広がっていた。
それはまさに、コンクリートの床に咲いた血の花……彼女の言ったとおり、そして鬼が予言したとおり……本当に彼岸花のように見えた。

 ……綺麗だ。ものすごく不謹慎なことはわかっているけど……気がつくと俺は、心の中でそう呟いていた。

彼岸花 序章 『起(き)』

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