これは罰なのかもしれない。着いた町では受け入れてもらえず、また放浪の日々。そして、あの硬貨はほとんど底を尽いた。町はいくつも回った。
これは罰なのかもしれない。着いた町では受け入れてもらえず、また放浪の日々。そして、あの硬貨はほとんど底を尽いた。町はいくつも回った。
泥水を跳ねながら兄妹は走る。背後では人相の悪い男達が怒声を上げながら追いかけてくる。
前の町でお金がないからとチーズを盗んだのがいけなかった。守ってくれていたものがその瞬間に離れていったのだ。
追いかけてくる男達は、どこかあの奴隷商と似ていた。捕まればあの生活に逆戻りだろう。
そんなのは嫌だ!
シェイプは大切に持っていたナイフをとうとう鞘から抜いた。町を回るうちにこれを使う日は来ないのではと考えていたが、きっとこの日のために青年の手から自身の手に渡ったのだろう。
雨脚は強くなり、さらに視界は悪くなる。灰の世界で男の腕が少年を捉えた。
大人しくしろよ。糞ガキ
ためらいなどなかった。彼は抜いたナイフで男の手の甲を刺した。無彩色の中に映える赤は鮮明で、自分が何をしたのかを伝えるには十分だった。しかし罪悪感はない。抗わなければ待っているのは死なのだ。たとえ庇護していた何かが消えても、生きていたいのだ。
男は呻き声を上げながらも少年達をぎらついた目で睨む
。
シェイプは男の方にナイフを向けながらも、目線は後方を気にしていた。妹とは逃げている最中に少し距離が開いてしまったのだ。彼女のところには男が一人。
男はディティに掴みかかった。
イや!
ディティは手を振り払い、男の胸板を押した。びくともしないと男は笑っていたが、次の瞬間奇妙なことが起きた。
……!?
足元が濡れていたからか滑ったのだろう、胴は後方へと倒れ、そのまま霧の立ち込める世界へ落ちていく。
足元がなかった。
地面に倒れるはずだった胴は空をかいて、驚いて見つめているディティと距離が離れていく。男は慌てて彼女に腕を伸ばしたが、指先さえ触れることが出来ずに奈落へと消えた。
ディティの悲鳴と男の断末魔が二重奏の旋律を奏で、ただならぬ雰囲気へと転化した。睨みつけていた男は霧の向こうへと消えた仲間を見て呆けている。
シェイプは走りだし、妹の手を引いた。
てめぇら逃がすか!
足元は男の一件で心許ないが、止まっている暇はない。どこが崖となっているか分からなかったが、運にすがって進むしかなかった。
男達は落ちた仲間との間で揺れたのだろう。怒声は雨音に混じって微かに聞こえたが距離は相当開いたようだ。
お兄ちゃん……あそこに隠れよう
震える指先でディティは岩肌にぽっかりと開いた小さな穴を指さす。男達に見つかって入って来られたら終わりだが、これ以上進んで誤って転落してしまうかもしれないことよりはいいと思った。彼女の体温も低い。
穴は思ったよりも深く、まるで冥府にでも繋がっているような恐ろしさがあったが、兄妹は迷いなく歩を進めた。
ここで終わりみたいだ
暗闇に目が慣れてきた頃、大きく開けた場所に出た。岩肌を伝うとぐるりと一周回って、入ってきた道へと戻る。
何か拭けるものがあったらな
今手元にあるのは、ナイフと濡れた自身の服だけで、とても妹の身体を拭くことは出来ない。
平気だよ
ディティは犬のように首を振ると頭の滴をそこいらにまき散らした。
風邪ひくなよ
うん
ディティが壁に背を預けて座るので、シェイプはその隣に腰掛け彼女の手を握った。外で荒れ狂う嵐は全く聞こえず、辺りは異様な静寂に包まれている。
どうか、見つかりませんように
シェイプは何度も何度もそう祈っていたが、完全に守っていたモノに見切りをつけられたのか、急に足音が遠くから聞こえた。反響する硬質な音に身が竦む。来ないで下さいと願っても道は一本で確実にこちらに近づいてくる。
ナイフを握り直し、入り口を睨みつけていると、ぬっと黒い影が姿を現した。男達の姿見からはかけ離れた細見。
誰……
首を傾け、髪の間から現れた瞳はワインレッド。彼はその眼球で兄妹を見据えると重たい溜め息を吐いた。
最悪だ……
青年の足が真っ直ぐに兄妹の元へと向かう。身体が揺れるごとに足音が反響する。
君たちは
青年に見えるようにナイフを掲げるが、彼は見えていないのか表情一つ変えず彼らの前に立ち塞がる。身を屈め、兄妹を包囲するかのように両手を岩肌につけ、彼らの顔をまじまじと見つめた。感情の感じられない瞳。青年が何をしたいのかシェイプには理解できなかった。
お前、何だよ!
本当に運が
青年の冷たい声が途切れ、彼は背後を振り返った。何かの割れる音が聞こえたかと思うと、天井から小石が降ってきた。間を置かず、青年が覆い被る向こう側で天井が崩れていく。ディティは驚いて青年と兄に抱きついた。
轟音が耳を劈き、シェイプは思わず目を閉じる。
音が収まり目をおそるおそる開けてみると世界が白に染まり何も見えなかった。光が差していると目が理解するまで数十秒。耳元で青年の溜め息が漏れた。
……終わったんだ……
ゆっくりと離れていく青年の顔はさっきとは違い疲れ切っていた。彼はそのまま力尽き、地面に膝を抱え縮こまる。
君たち、運がよかったね……
崩れた天井からはさっきまでの暴風雨が嘘のように晴天が広がっていた。雲の白と空の青が目に眩しい。青年はそれを仰ぎ、また膝に頭を埋める。
お兄さん?
ディティがそっと近づき、フード越しに頭を撫でた。青年はぴくりと身体を震わせると、またゆるゆると顔を上げた。
ありがとう、お兄さんは英雄さんね
えい、ゆう? どうして?
わたしたちのこと、守ってくれたでしょ
彼女の声は非常に無垢でその中に懸念も恐ろしさもなかった。
青年は少女の勝手な解釈に目を伏せる。守ろうとする気はなかったのだ。ディティが驚いて引っ付いてきただけ、覆いかぶさったのは。
兄妹を殺すため。
太陽光がディティを照らし、青年の目には妖精か何かが現れたように感じた。とろけるような笑みを浮かべ、彼女は懐から一輪の花を青年に差し出す。
今、これしか持ってないけど……お兄さんにあげる!
ボクにくれるの?
うん! 守ってくれたお礼だよ。お揃いにもなるから
黒い指先で花に触れると乾いた音が鳴った。少女が前の町で見つけ押し花にしたものだった。彼女はサラに花を差して以降、お揃いは幸せ、と花を摘んでは何かに付けたりしていた。色は少しくすんでいたが、美しさは保たれている。
ありがとう……
二人の様子を見ていたシェイプはナイフを鞘に収める。青年の零した笑みはこの空間にいる者の中で一番幼いものだった。押し花を胸に抱え、まるで玩具を貰ったかのように静かに喜んでいる。
ねぇ、お兄さん。入ってくる時、近くに誰かいた?
シェイプの無愛想な声での問いに青年は目を伏せがちに首を横に振った。
怒った、顔の怖い男の人とか
……怒った……あぁ……
青年は何かを思い出したのか、押し花を指先で回しながら、日が差す天井を見上げた。
いたな、そういえば。探していた子供って君たちのことか
その人達どうした? 遠くに行った?
殺した
さっきまでの表情が嘘かのような冷ややかな声色。感情はなく、結果を述べただけで青年は黙り込む。
お兄さん……辛かった?
青年の頭を撫でながらディティが訊く。
仕方ない、仕方ないんだ。ボクはそういうモノなのだから
少女の腕にすがり、彼は花を唇に当てる。
これ、ありがとう。もう外は安全だからお行き
お兄さんはどうするの?
ボクはもう少しここでぼんやりしてるよ。それに飽きたら、そうだな……お墓参りでも行こうかな。この花を自慢するんだ
本当にお兄さんはわたしたちの英雄さんね。物語に出てくる人みたい
妹は青年の頭を抱え、陽だまりの笑みで言った。