彼の名は羽咋射気(はくい・いるき)。
石川県に住んでいる、しがない大学生である。
ただいまー
彼の名は羽咋射気(はくい・いるき)。
石川県に住んでいる、しがない大学生である。
おかえり、羽咋。
ただいま、蟻子。
この蟻子という人は、ちょっと不思議な羽咋射気の彼女。
本名を篠崎蟻子(しのさき・ありこ)といった。
学生ではない。無職である。
蟻子は、羽咋の部屋で、同棲生活をしている。
両親からの仕送りが入ってくるらしい。
彼女の両親の姿をみたことは、羽咋にはまだない。
ある日、羽咋と蟻子は美術館でであった。
金沢21世紀美術館の不思議な黒い絵の前で、蟻子は一人で座っていた。
羽咋は立ったり座ったりしていた。
(あれはなんだろう。黒い丸みたいなものだけど・・・)
(細長い楕円形だ。)
(現代アートだ。)
(絵の前に椅子があるぞ。座ってみよう・・・)
(おっ?)
(形が変わったぞ?)
(もう一回立ち上がってみよう。)
(おお!)
(現代アートすげー!!)
それは、金沢21世紀美術館の常設展にある、アニッシュ・カプーアの「L'Origine du monde(世界の起源)」という作品である。
傾斜のかかったコンクリートの壁一面に描かれた黒い円形は、鑑賞者の視点の高さによってその姿を変えていくのだ。
金沢21世紀美術館にいけばいつでも無料で見られるので、みんなも興味があったら覗いてみよう。
(北陸新幹線も通ったことだしね)
(現代アートすげえな……)
現代アートを前にして、羽咋射気は立ったり座ったりしながら、作品を楽しんで鑑賞していた。
この作品を前にしてぼんやりと立ちつくしていた篠崎蟻子は、立ったり座ったりを繰り返している羽咋射気をさも楽しげにみていた。
…………面白い美術館だよね、ここ……。
えっ?
それが、羽咋射気と篠崎蟻子の初めての会話だった。
それから、二人はこの楕円形の現代アートを前にして、色々な話をしていた。
現代アートを好きでみにいくような人は、大抵変な人であるのが世の常である。
例に漏れず、羽咋と蟻子の二人はどっちも変な人だった。
羽咋はUFOが大好きで、UFOの目撃例や世に知られる宇宙人の型式・種類などを余すことなく網羅していた。
休みの日には海や山へ駆り出し、未確認飛行物体の姿をこの目で視ようと、UFOウォッチに明け暮れていた。
蟻子は自然科学に詳しく、とりわけ古生物学・古環境学などに精通していた。
羽咋と蟻子はすぐに仲良くなり、幾度かのメール文通や外出を繰り返した後、交際することになった。
それから、羽咋は大学に進学した。
羽咋はアパートの部屋を借りて、蟻子と同棲することになった。
羽咋は蟻子のことが大好きだった。
蟻子も羽咋のことが大好きだった。
二人の関係は、他人からみると、いささか奇妙に見えたが、二人は互いを信頼し、この関係がずっと続けばいいと思っていた。
しかし、実は羽咋は蟻子の人としての生い立ちを、殆ど何も知らない。
出身は金沢といっていたが、家族関係も、学歴も、何も教えてはくれなかった。
家族からの仕送りが、彼女の生活の収入源になっていたようだが……。
それでも、羽咋にとっては、蟻子と一緒の生活が刺激に満ちていた。
羽咋は、蟻子のそんな不思議な所、ただの人ではないその異常な感じが、たまらなく好きだったのだ。
そんなわけで、これから起こる出来事も、羽咋と蟻子の刺激的な日常の一幕である。
ねえ羽咋、
ん?
羽咋は、私が一人じゃなかったら、
一体どうなるの?
どういうこと?
私がもし、一人だけじゃなくて、
この部屋に二人以上の私がいたとき、
羽咋はどうする?
……えーと……。
家に帰ってきて、「ただいまー」って言ったら、
2人の蟻子が「おかえりー」って言ってくれるの?
そうよ。
それはとってもいいね。
ステキだ。
そうだよね。
翌日
ただいまー
おおかかええりりーー
どどううししたたのの??
ごごははんん、ももううすすぐぐででききるるよよ。。
これは一体!!!!
二二人人ににななっったたよよ。。
どっちが本当の蟻子なんだ!!!!!
どどっっちちもも本本当当のの私私だだよよ。。
声が聞き取りづらい!!!!!!
はい。
わかるように説明してほしい。
それは、何をやってそうなったんだ?
かげぶんしんだよ。
影分身…………
三人になることもできる。
三人!!!!!
三人とも、私であることに代わりはないんだよ。
今居るこの三人は、本当に紛いなく、正真正銘の蟻子なんだね?
そうだよ。
そうなのか…………。
俺の目がおかしくなっているだけなのかもしれない。
羽咋くんの目に嘘偽りはないよ。
そこにあるのは、真実の光景……
そ、そうなのか。
四人になることもできるよ。
四人!!!!!!
羽咋くん、私お腹空いた。
羽咋くん、今度テレビで新しく始まった番組、録画しようよ。
羽咋くん、今日は雨降らなかったね。
羽咋くん、今日はサークルに行かないの?
もはやどうしていいか、
わからない!!!!!
大丈夫だよ。
私たちはみんな、一人の蟻子なの。
羽咋くんを思う気持ちが強すぎて、
羽咋くんに聞きたいことが多すぎて、
私たったひとつの身体だけじゃ収まりきらないの。
そこにいるのは一時間前の私、
そこにいるのは三時間前の私、
そこにいるのは九時間前の、羽咋くんと朝ご飯を食べていたときの私だよ。
だけど、私は私。
それだけは嘘偽りがないわ。
これから4人の私が羽咋くんと話すことの全ては、
今現在の私の姿に繋がっているのよ。
…………。
だから、
たまには貴方を含めた五人で、
テーブルを囲んで、
みんなで一緒に楽しみましょうよ。
…………うん……。
ふふふ、ありがとう!
私達、羽咋くんのこと、大好きだよ。
僕も大好きだよ。
(なんだかよく分からないけど、まあいいや……。)
それから羽咋は4人の蟻子と、
ご飯を食べたり、
ゲームをしたり、
なんだかんだで盛り上がったりしながら、
夜が更けていった。
翌日
おはよー
おおおおおおおおおははははははははよよよよよよよよよよーーーーーーーー、羽羽羽羽羽羽羽咋咋咋咋咋咋咋咋咋くくくくくくくくくんんんんんんんん!!!!!!!!!!!!!!
ほああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ちょっとふざけすぎたんじゃない?
そうかな
流石に羽咋がかわいそうだよ
まあ確かに、それもわかる
あんまわかってないだろ
まあな
こんなことでへこたれる男ではない
羽咋は
そうかな…
まあ私がそういってるんだから、
本心からそう思うよ、
実際
だよな
完