遠くから、明人お兄様の声がする。なんと言っているのかは分からない。ただ、視線が、何かの意味だけが、ワタクシの肌に刺さる。
遠くから、明人お兄様の声がする。なんと言っているのかは分からない。ただ、視線が、何かの意味だけが、ワタクシの肌に刺さる。
お兄様
お兄様、なんと仰っているのですか?
お兄様…
ふと気付くと、ワタクシの前には、沢山のティーカップが並べられていた。バターやマーガリン、ジャムや砂糖、そして沢山のお菓子も一緒だ。ポットからは微かに湯気が立っている。
お茶会だわ
木漏れ日がまぶしい新緑の庭に、大きな机が一つ、置いてあった。その上を埋め尽くさんばかりに、様々なお茶会道具が置かれている。
…汚い……
白いテーブルクロスには、紅茶色の花が咲いていた。誰かが紅茶を溢した痕に、指先で花びらを描いたようだ。全ていびつで、幼稚な形をしている。
沢山のカップの中には、茶渋の痕があった。特に大きなマグカップの中には、三層の輪が残されている。飲み干さないまま、乾いたカップに、二度、三度と紅茶が注がれ、また、乾いてしまったのだ。縁にも唇の形に、茶渋が残されている。
三段のケーキスタンドに乗せられた、キュウリのサンドイッチは、乾ききってしなびていた。その下のクリームを乗せたスコーンには、ハエが集っている。そのハエにも覇気がなく、全てが淀んで見えた。瓶に詰められた苺ジャムも、茶色く酸化してしまい、まるで血反吐のようだ。
明人お兄様は、なんと言っているのだろう。なんだか機嫌が良いようだ。きっとここでは、お茶会が終わらずに、ずっと続いているからだろう。
コップも洗わず、乾いた先からお茶をついで、もはや生ゴミと化した茶菓子を眺めながら、ワタクシと明人お兄様は、これからもお茶会を続けるのだ。
平凡な日々、万歳。
毎日がアナタの生きた尊い日。
お茶会を開こう。
生き延びた幸運を祝して。
目覚めると、ワタクシは自室のベッドにいた。
……
網膜に残るお兄様の微笑みを、私は瞼を閉じて追いかける。しかし段々とそれは遠ざかっていき、最後には脳の奥へと消えてしまった。
……
ずるりとベッドから起き出そうとする。乱れた髪を掌で踏み、バランスを崩して、ベッドの下へと落ちてしまった。
…
勉強机に置かれたむしゅふしゅは、何も言わずにワタクシを見つめる。冷たく、何の意思もない目だった。ワタクシが動かし、声をあてない限り、彼は何も出来ないのだ。
ワタクシは床に手をついて起き上がり、勉強机に手を伸ばす。むしゅふしゅの前に置かれた、帝王拳(カイザーナックル)を掴んだ。
帝王拳(カイザーナックル)を右手にはめて、自分のこめかみに押し当てる。表面に刻まれた十字の飾りが、皮膚を削り取った。少し、血が出たのだろうか。その周りが熱くなる。
…
ねえ、むしゅふしゅ
残留思念は、情念の残された物を壊せば消える。
そうでしょう?
じゃあ
ゴッ
帝王拳で、ワタクシの頭をノックする
この脳味噌に残された、お兄様の残留思念は?
ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ
リズムを変えて、何度も、何度も、脳味噌の奥に隠れてしまった、お兄様を呼ぶように。
ワタクシが、自ら頭を潰せば
ゴッ ゴッ ゴッ、ゴツ
じんじんと痛みが広がってきて、なんだか少し笑えた。
……消えて下さるのでしょうかね
むしゅふしゅは答えなかった。
ワタクシは一人、帝王拳(カイザーナックル)をはめたまま、痛む頭で項垂れる。
ワタクシの頭の中に巣くうお兄様は、決して幽霊なんかじゃない。ただ、脳味噌に残ってしまった残存思念だ。
だってそうでしょう。
そうじゃなきゃ、あまりにもお兄様が可哀想すぎる。
一匙の幸福も知らずに、ワタクシよりも先に、天国へと旅立った筈のお兄様が、幽霊となってワタクシの頭の中にいるなんて。
そんなの、辛すぎる。
お兄様……。
…
ワタクシはベッドに戻り、目を閉じる。こめかみは痛んだが、眠気の方が強いようだ。次第に身体が温かくなり、心地良い重さに支配された。
眠ると、ワタクシは必ずあの夢を見た。
終わらない、汚らしい、Mad tea party.
そこで優しく微笑む、明人お兄様。
お兄様
夜美子はいけない子です
ワタクシは、ワタクシの脳味噌の中に、お兄様の残留思念が残されていると知りながら、この脳味噌を壊すことが出来ない。
夢の中や、ふとした瞬間に、お兄様の微笑みを見られる。そんな悦楽を、自ら捨てることが出来ないのだ。
残留思念や幽霊を、恐れ、否定し、破壊しながら、自らは壊せずにいる。
矛盾と自己愛に満ちた、行為。
それでもワタクシは…
……
自分でも結論がつけられないまま、夢の中へと足を滑らせる。
また森の中のお茶会で、お兄様とまみえるのだ。
一度大きく息を吸い、意識を手放す。
…
むしゅふしゅは、何も言わずにそれを見つめていた。