Ⅰ 恋に落ちた日

十月、未だ忌まわしい伝説の巣食う街アーカム。
ミスカトニック学園に入学したフェリシアは、同級生のベティとともに学内のベンチに並んで座っていた。
周囲に植えられた広葉樹は黄色や赤に染まり始め、冷たい風が吹いている。陽射しが暖かいのが唯一の救いだが、あと二週間もすれば雪が降るだろう。

どう?私が作ったサンドイッチ。思ったより上手く出来たでしょ

うんうん。美味しいよ。まぁ、誰が作っても同じ味だろうけど

辛辣だなぁ、ベティは

うそうそ。フェリシアの愛がこもってるこれは格別だよ!

フェリシアが作ったピーナッツクリームとストロベリージャムを塗ったサンドイッチをほおばりながら、二人は笑い合う。
この学園に入学して一ヶ月。州西部の小さな村・ダンウィッチ出身のフェリシアは、女子寮のルームメイトのベティとすっかり意気投合し、暇さえあればこうして取り留めのない話をしている。
ベティはボストンの銀行家令嬢だが、気さくな性格と辛辣な毒舌が楽しくて、すっかり大昔からの親友のように打ち解けている。

でもさあ、ベティがクラーク先生の前で泣くなんて思わなかった。ちょっと見直した

指導教員であるクラークに注意された時のことを、フェリシアは口にする。
二階の教室外の排水路に嵌まり込んだ仔猫を助けたベティは、彼に叱られてしまったのだ。
クラークは社会科教員だが、アーカムの歴史に精通し、この地に伝わる伝説や怪しげな書物の研究も行っており、大学でも教鞭を取っている。
堅物で知られ、拓かれたこの時代にあっても<女性は危険なことをするものではない>というのが彼の持論だった。

ああ、あれねえ……ずっと、死んだ飼い猫のこと思い出してたの。プルートっていう黒猫なんだけどね。怒られる時はいつもプルートとの楽しい日々と冷たくなってたあの朝のことを思い出して……ああ、駄目。また涙が

言いながら、ベティは目頭を押さえている。

えええっ?反省したから泣いてたんじゃないの?なんだかガッカリ……

そんなわけないでしょ!私が泣くのは猫と家族とそれからフェリシアに何かあった時だけよ

ちょっと!なに突然、告白してるのよ、ベティってば!私に媚びても何も出てこないわよ

もう!頬を赤らめちゃって、可愛いんだから。

あっ、ねぇそれよりフェリシア、あれがこの前に話したこの”噂の王子様”。この地方一の貿易会社の子息でもある、ウィルフレッド・フィールドよ

ベティの指差す方へ目をやる。

……

そこにいたのはすらりとした長身の青年だった。ゆるやかにカーブしたヘーゼルナッツ色の髪に、潤んだ大きな薄茶色の瞳を持っている。透けるように白い肌や薄く色づいた唇は、見るものに中性的な印象を与えた。

王子様、ねえ……

心の底から興味が持てないという口調で、フェリシアは言った。貧しい故郷から無理をしてこの町へ来て学園で学ぶことを決めたのは、一つには立身出世のため。将来はボストンで弁護士として生計を立てたいと思っている。だが、もう一つ大きな目的があった。

――それは、父の死の秘密を探ること。

治安判事だったフェリシアの父は、ダンウィッチで起こる怪異について、独自に調べようとしていた。そして、『死霊秘法(ネクロノミコン)』だとか、『妖姐の秘密』だとか、耳慣れない怪しげな書物を閲覧するため、ミスカトニックの図書館を訪問しようとしていた矢先に、忽然と姿を消したのだ。

父の失踪の秘密は、それらの書物に違いないわ


そう確信したフェリシアは、猛勉強の末、ミスカトニック学園への入学を果たした。
だから、遊んでいる暇など無い。
授業はレポートが多く、課題をこなすだけでも精一杯だ。今日も午後の授業を終えたらまっすぐ寮に戻り、レポートに取り掛からなければならない。
学内で”噂の王子様”と呼ばれる彼のことなど、まったく気にしていなかった。
だが、青年が振り向きフェリシアと目を合わせた瞬間、世界が変わった。

……


それはフェリシアが初めての恋に落ちた瞬間だった。

Ⅰ 恋に落ちた日

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