バーチャルアイドル吟遊詩人・歌魔音(うたまね)ミカのアイロンプリントを手にしたグレゴリーがニヤニヤしながら迫る。
さあ……
バーチャルアイドル吟遊詩人・歌魔音(うたまね)ミカのアイロンプリントを手にしたグレゴリーがニヤニヤしながら迫る。
うふふ……
歌って祈れる僧職系プリースト集団 “歌プリ” ・ボーカルのデコシールを手にしたドロシーが嬉々とした表情で迫る。
ジ……ジィー……(た、助けて……)
ケルベロス君の弱々しい鳴き声は、迫る二人の魔族の発する含み笑いに打ち消される。
ここまでかとケルベロス君が諦めかけた時、入り口のドアの向こうから、カリカリと木を齧るような音が聞こえた。ケルベロス君がぴょこっと耳を立てて振り向くと、ドアの塗装一角がペリリと剥がれ、隙間からブルーグレーの毛並みが美しい、ケルベロス君とは別の魔ハムスターが顔を覗かせた。
あっ! きみは確か、ケルベロス君の兄弟のヘルハウンド君!
ジーッ!(おお、兄弟!)
ジジッ!(こっちだ!)
ヘルハウンド君はケルベロス君を、たった今、自分が噛み空けた穴に誘導する。そのまま二匹は広間の外へと逃亡した。
兄弟のピンチに颯爽と現れるなんて、なんて美しい兄弟愛なんでしょう。ドラマチックですわ
ドロシーは感心して艶やかな唇に指を立てる。
でもケルベロス君、逃げちゃった。せっかく痛ハムって名案だと思ったのに
歌プリ痛ハム、見とうございました
ドロシーは手にしたデコシールを見つめ、ふと何か思いついたのか、グレゴリーに歩み寄った。そしておもむろに、彼の顔にデコシールをペタリと貼り付ける。
何するの、ドロシーちゃん?
痛ハムスターの願いは叶いませんでしたが、〝痛魔王〟になりましたよ。グレゴリー様
グレゴリーの顔全体に歌プリ・ボーカルのプリントが。
わあ! じゃあぼくの顔、ちょっと目立つ感じになった?
ええ、とても痛々しい意味で。ある種サッカーのフェイスペイントのようなものです。会場で一時的に盛り上がってノリでフェイスペイントを施したものの、帰りの電車で我に返って降車ドアの方に顔を向けてこそこそしている、にわかサッカーファンのような、特殊で独特の目立ち方をしております
ドロシーは声を発てずに、プフッと一笑する。
やったぁ! これでぼく、もうモブ顔って言われないね!
ええ、大変目立って痛とうございます
ドロシーちゃん! もっと貼って! もっとシール貼って、ぼくをすごい痛魔王にしてよ!
グレゴリーは、痛魔王という響きが大層気に入ったらしい。
魔王! 観念なさい! この魔女っ娘勇者フィアナちゃんが来たからには、もう悪事は許さない!
広間入り口のドアが開け放たれ、小柄な人影が仁王立ちになっている。
煌びやかなスパンコールとフリルたっぷりのミニスカートに、真っ赤なビキニメイル。いわゆる倫理隠して体隠さずという、お約束的衣装である。手には魔女っ娘御用達の、ハートのヘッドが付いたピンクのミラクルステッキ。
一見痛々しい安アイドルだが、本人は至って真面目な、自称・美少女魔女っ娘勇者だった。
ゴーゴーレッツゴー! レッツゴー! ラブ! ラブ! ラブリー・フィ・ア・ナ!
魔女っ娘勇者フィアナの背後には、お揃いのピンクの法被を着たデブとガリの親衛隊が、気味悪い脂っこい汗を迸らせながら、サイリウムとメガホンを両手に、肉と皮を揺らして踊り狂っている。
みんなぁー! 応援ありがとうー!
うおおお! フィアナたーん!
フィアナたん! 目線こっち目線ちょうだい!
萌えーッ! フィアナたん萌えーッ!
今度のニューシングルも握手会応募券のために百枚買うからね! 借金してでも買うからね!
美少女勇者は親衛隊にとびきり明るい笑顔を振りまき、大きく手を振っている。今にも即席路上ライブをしそうな勢いである。
魔王討伐に乗り込んできたと言う割には、グレゴリーの事などまるで無視だった。目立つ事が目的で勇者を名乗っているのかもしれない。
……グレゴリー様、いかがいたしましょう?
ドロシーがグレゴリーに対応を求めると、グレゴリーは笑顔のまま美少女勇者に近付いた。
ねぇねぇ、ぼく痛魔王なんだけど、これどう? ぼく目立ってる?
少女勇者はきょとんとして、顔中を痛プリントで痛々しくしたグレゴリーを見つめていた。が、ふいに涙目になった。
いやーん! この人痛ぁい! 怖ぁい!
ぬおおおお! フィアナたんを怖がらせるなんて、許せねぇ!
フィアナたんいじめたら、お前なんか実名写真付きでネットに晒して掲示板炎上させてやるぜ!
呪いのツイートしてやる! アカ変えてもどこまでも追いかけて粘着してやるからな! フィアナたんいじめた報いだ!
親衛隊が口々に叫ぶ。俗に云う──狂信的信者かキモオタという人種らしい。
……なんか、思ってたのと反応違う
グレゴリーがつまらなさそうに呟く。
ドロシーちゃん、掃除しといて。痛魔王飽きちゃった。顔洗ってくる
承りました。さぁさぁ勇者とお付きの皆さん。とっとと退場なさってください
ドロシーの背中の羽根がファサッと広がった。同時にどこからともなく吹き荒れる暴風が怪音波を乗せ、美少女勇者と親衛隊をなぎ払う。
きゃあ! あたしアイドルなのにー!
フィアナたーん!
お前らー! 肉壁となってフィアナたんをお守りするんだー!
フィ、フィアナたん最後に握手してー! 目線だけでもッ!
怪音波が少女勇者と親衛隊の体を分解し、跡形もなく霧散させた。
ドロシーちゃん、ご苦労様
お褒めいただき光栄です
グレゴリーがいつものちゃぶ台の前に座ったので、ドロシーはほうじ茶を煎れる。
ふぅと一息吐き、グレゴリーは温かいほうじ茶を啜った。
グレゴリーの顔には、まだ若干のデコシールの痕跡が残っている。ドロシーが用意した歌プリデコシールは、粘着力が通常の三倍だったので、洗うだけでは取れなかったのだ。
……あ、そうだ。ケルベロス君を痛ハムにできなかったし、ぼくも痛魔王っていうには反応イマイチだったけど、思い切ってこの魔王城を丸ごと痛くしちゃったらどうだろう? ほら、クリスマスシーズンとか、やたら家丸ごとキラキラデコレートしちゃう、ちょっと痛いご家庭とかあるじゃない?
グレゴリー様、それは名案でございます。ですが少々問題が
ドロシーがすっと何かの紙をグレゴリーの前に差し出す。
こちらの賃貸契約書によりますと、退室時には壁・床・天井等の現状復帰が必須とございます。痛魔王城にしてしまうと、その復帰リフォームの代金を請求され、尚且つ敷金が返還されない恐れがあるのではないでしょうか?
賃貸契約書を覗き込むと、約款が細かく書かれている。読むのも嫌になるほど細かい文字で。しかも『甲』だの『乙』だのの意味が分かりづらい。
あ、そうか。うーん……やっぱり賃貸だと思い切った事ができないから、やっぱり痛ハムくらいで我慢するしかないよね。ぼく、免許持ってないし
ドロシーは口元に指先を当ててしばし思案し、切れ長の目をグレゴリーに向ける。
ケルベロス君が帰ってくるのを待って、餌を食べている隙や寝ている時など、油断した所を狙って捕獲いたしましょう。やはり私、〝痛ハム〟が見とうございますわ
彼女の提案に、グレゴリーは小さく拍手する。
そうだね。あ、じゃあ次は歌魔音ミカのイラストじゃなくて、渋く筆文字のお経を書いてみようか!
よろしゅうございますね。耳なし何とかという民話のようで、大変愉快だと思いますわ
ケルベロス君の不幸はどこまで続くのか──それはグレゴリーたちが飽きるまでである。