茨と毒の沼地に守られた漆黒の魔王城には、自称・執筆業で生計を立てている、魔界の覇王グレゴリー・サタニノス七世が、ペットの魔ハムスター・ケルベロス君と共に細々と暮らしている。
茨と毒の沼地に守られた漆黒の魔王城には、自称・執筆業で生計を立てている、魔界の覇王グレゴリー・サタニノス七世が、ペットの魔ハムスター・ケルベロス君と共に細々と暮らしている。
──賃貸で。
魔王城の本来の主、魔王・田中武志(※名前がコンプレックス)は南国へ引っ越し、新魔王城を建築。真面目に悪事を画策しているらしい。
いつもの洗いざらしのよれよれジャージに身を包んだグレゴリーは、ちゃぶ台の上で愛らしく血滴る生肉に食らい付いている魔ハムスターの白い毛並を見つめながら、ポツリと呟いた。
……ケルベロス君って……
ケルベロス君が肉を喰(は)む事をやめ、くりくりとした大きくつぶらな目でグレゴリーを見上げる。
白い毛並が綺麗だし、赤い目もチャームポイントだけど……
ケルベロス君の口の周りには、生肉の血が付着している。グレゴリーはその血をティッシュで丁寧に拭いてやる。
……白いだけって、なんかちょっとシンプル過ぎて物足りないよね
ケルベロス君は自身の主の視線の中にチラチラと見え隠れする野望に気付き、身の危険を感じてダッと逃げ出した。──が、グレゴリーは慣れた手付きで素早くケルベロス君を掴み上げる。
ジィーッ! ジィーッ!
ケルベロス君は懸命に威嚇しながら、鋭い齧歯をグレゴリーの手に突き立てる。だが腐っても魔界の王。モブ顔と云えど覇王。多少指に穴が空いても流血する程度でさほどダメージは通っていない。
──地味にガチで痛いけど。
グレゴリーが鈍感過ぎるせいもあるのだが。
あのねあのね! 今、人間界では、日常使いのモノに萌えキャラをプリントして、〝アイタタ仕様〟にするのが流行ってるんだって! 馬車にロリ顔巨乳ミニスカウィッチプリントで〝痛車〟とか、携帯通信用からくりにロン毛イケメン騎士プリントで〝痛スマホ〟か言うんだって!
ジィーッ! ジィーッ!
ケルベロス君はなおも抗議の威嚇行動を続けるが、グレゴリーは彼を拘束したまま、嫌々もがく彼の意思を故意に無視して、自身の胸に秘めた策略を声高らかに披露する。
だからね
ケルベロス君を片手に、もう片方の手にバーチャルアイドル吟遊詩人のアイロンプリントを手に立ち上がるグレゴリー。
ケルベロス君を〝痛ハム〟にしたいなって思ってるんだ!
ジジィーッッッ!! ジジィーッッッ!! ギジジィィィーッッッ!!
ケルベロス君の断末魔のごとき威嚇が、ひときわ大きく魔王城に響き渡った。
ベショッと、グレゴリーの後頭部が真っ赤に染まる。その赤い液体はドロリと床に零れ落ちた。
グレゴリー様。何をなさっておいでです? ケルベロス君の、助けを求めるかのような悲痛な鳴き声が廊下まで聞こえましたが
あ、ドロシーちゃん。今日のジャムパン、皮薄め仕様だね。ぼくの頭に当たって割れちゃったよ
グレゴリーは赤黒いラズベリージャム塗れになりながら、笑顔で秘書サキュバスのドロシー・メルディノに手を振る。
彼女は魔王城に常駐の秘書ではなく、通いの派遣秘書だ。
えっとね。今、人間界では痛車とか痛スマホっていうのが流行ってるらしくて、ぼくも真似してケルベロス君を痛くしてみようかなって思ってるんだ。だってケルベロス君の体って、白いキャンバスみたいでしょ。創作魂揺さぶられちゃって
ドロシーはグレゴリーの手に握られて、怯えた目で何かを訴えかけてきている魔ハムスターのケルベロス君を見る。
まぁ……ケルベロス君を?
ジ……ジィー……
ケルベロス君は彼女に救済を求めるような視線で弱々しく鳴く。
ドロシーはピンヒールの踵を慣らしながらグレゴリーに近付き、すっと片手を差し出した。
はらりとポスターが広がり、紙面にはイケメンのプリースト集団が描かれている。
グレゴリー様。恐れながら私としましては、そのバーチャル歌姫より、こちらの歌って祈れる僧職系アイドルグループ、略して〝歌プリ〟のボーカル様の方がよろしゅうございます
ジジィーッッッ!?
ケルベロス君の希望は断たれた。
ケルベロス君が、熱々のアイロンの下から間一髪逃れる。アイロンはジュウと音を発てて、ちゃぶ台にバーチャルアイドル吟遊詩人の絵柄をプリントした。
ミスプリントである。
グレゴリー様。さすがに熱いアイロンを直接ケルベロス君に押し当ててしまっては、痛ハムプリントが完了する前に〝焼きハム〟になって香ばしくなってしまいますわ
あ、そうか。当て布忘れてたよ
そういう問題ではない。
※ 動物は大切に飼育しましょう。
ケルベロス君は部屋の隅まで逃げ、壁際でフルフルと震えている。そこへ歌プリのデコシールを持ったドロシーが近付いてきた。
観念なさい、ケルベロス君。私のものはシールを貼るだけですから痛くも熱くもありません。ただ粘着力が通常の三倍なだけで、剥がす時に毛が抜ける程度です
ドロシーがピンヒールを鳴らしてケルベロス君に詰め寄り、デコシールを突きつける。
ケルベロス君は強く壁を蹴ってドロシーの頭を中継点として飛び移り、彼女の背後へと飛び降りた。そのまま全速力で広間入り口に向かって走る。
あん! 私のデコシールが一枚無駄になってしまいましたわ!
想定外の場所にプリントされてしまった、皺クシャになった歌プリ・ボーカル様がドロシーの方を向いて痛々しく微笑んでいる。
でも大丈夫ですわ。こんなこともあろうかと、人間界のアニメショップをハシゴして、ボーカル様のデコシールは大量大人買いして買い占めておきましたの!
ドロシーの両手に扇状に広がるデコシール。
その恰好で人間界へ行ったのか? その恰好でアニメショップをハシゴしたのか?
挑発的な女王様ボンテージ姿で! 威圧的な十二センチの高さを誇るピンヒールで!
──ある意味ゴスロリ娘や日常的コスプレイヤーより性質が悪い。
※ 大人買いはほどほどにしましょう。
ケルベロス君は自身の主より、彼の秘書であるドロシーに底知れぬ恐怖を感じて、小さな四肢を懸命に動かし、広間からの脱出を目論んだ。
ストップ! ケルベロス君!
グレゴリーがさっとケルベロス君の進行方向に立ち塞がった。
もう逃がさな……あれ?
何者をも通すまいという意識のもと、両手足を大きく広げて立ち塞がるグレゴリーの、大きく開いた両足の間をケルベロス君は颯爽と走り抜けた。
グレゴリーと自分の圧倒的体格差を利用した、ケルベロス君の機転の勝利だった。
ハムスターの知恵に遅れを取る魔界の覇王。それがグレゴリー・サタニノス七世。
グレゴリー様! 今度からは両足の間と脇の下に網を張って立ち塞がってくださいまし
わぁ! それってビラビラがいっぱい付いてるんだよね? 八十年代オールドスターみたいで格好いい! じゃあさっそくお裁縫してく……
後になさってください! 今はケルベロス君の捕獲が先決ですわ!
ドロシーは胸元からくるみパンを取り出しながらグレゴリーの隣を駆け抜けた。
ケルベロス君! ハムスターの大好物、ナッツ入りのパンですわよ! ハイッ、召し上がれッ!
ドロシー、抜群のコントロールでスローイン。
しかしケルベロス君はドロシーの投げたくるみパンを、ペシッと小さく愛らしい後ろ足で蹴り飛ばして逃亡続行。
憐れくるみパンはコロコロと床に転がった。
ドロシーちゃん、ダメだよ! ケルベロス君は血統書付きの魔ハムスターだから肉食だもん! ナッツもヒマワリの種も食べない!
まぁ! うっかりしておりましたわ! 今度からはボンレスハム入りパンを用意しなくては
すぐに胸パット代わりの別のパンを胸元に詰めながら、ドロシーはグレゴリーの指摘に、悔しそうに唇を噛む。
ケルベロス君は懸命に走り、入り口に飛び付く。だがケルベロス君の身の丈の、何千倍とある重いドアは開かない。
人間ですら、この巨大で重い扉を開くには苦労するのだ。わずか三十八グラムの体重しかないケルベロス君一匹では、扉を揺らす事すら不可能だ。
あははー。ケルベロス君の力じゃそのドアは開かないよ。さぁ、年貢の納め時だよ。諦めてミッカミカな痛ハムにしてやんよ
ケルベロス君。私のために激マジラブ1000%なボーカル様仕様の痛ハムになってくださいまし