『立つ鳥跡を濁さず』という言葉を知っているか?

もし知らないなら不勉強だな。ちょっと小学生からやり直してこい

君の勉強具合はともかくとして、このことわざは中々に良い言葉だ。人間いついかなる時も後腐れなく行動できるのが一番だ

だがな、人間という生き物が有機物である以上、万事そうできるかというと話ではない

そりゃそうだろう。君は自分が■■■時の面倒も自分で見るのかい――?

ここがお願いしたい部屋になりますんで……

老人はそう言って、ドアの鍵を恐る恐る開けた。
住宅街によくある少し古めの集合住宅。その2階の真ん中辺りの部屋だ。外見からは特に変わった所はない。

作業が終わったら、また言いに来てください。戸締りしますので

あー、これは以前にもお伝えしましたが、今日1日で終わらないかもしれません。それはご理解いただいてますね?

……そうでしたね。いえ、分かってます。そう簡単じゃないことは……

ご気分を悪くしたならすみませんね。契約上、そこはしっかり説明しておけと言われているもので

老人の表情がさらに暗くなったので、一応フォローを入れておく。実際、作業完了についてのトラブルはよくあるのだ。この人なら大丈夫だろうが、念を入れておくに越したことはない。

それじゃあ、よろしくお願いしますね

老人は手を合わせると、ドアに向かって黙祷してから去っていった。
今時にしては何とも敬虔な人だ。まあ、アレを見たらしいし当然か。

さて、早速お仕事を始めますかね――

俺はドアノブに手を伸ばして、そこで1つのことに気付いた。

おっとまずいまずい。準備が完了してないじゃないか

肩にかけた鞄に手を伸ばし、中から円盤状のフィルタがついたマスクとゴーグルを取り出す。
下手に人に見られると通報されかねないからギリギリまで着けないようにしているが、そのせいでいつも忘れそうになる。アレは片づけられているらしいが、昔同じことをやってめちゃくちゃ後悔した。数日肉が食べられなくなったぐらいに……。

まあ、あの時は夏で、今は冬だしそこまで酷くないだろうけど……

あの時の臭いがフラッシュバックして胃液が逆流しそうになるのを堪える。
準備を整えた俺は今度こそドアノブに手を伸ばして思い切ってドアを引いた。

薄暗い部屋の中はホコリが舞って、長い時間人が立ち入っていないことを如実に表していた。ただ、家具や部屋の奥にある子どもの遊具は古いものではなく、最近まで人が生活していたことを感じさせる痕跡もいたる所にある。
ここの住人がいたのがどれほど昔なのか、その判断を狂わせているのが――

あまりにも綺麗に片付きすぎだな

水回りに皿が置かれていることもなく、食器は棚に片付いている。しかも人が生活しているならあるであろう食べ物の類が調味料以外には一切ない。しかも子どもがいたとなると、遊具が散らかっているのが大方だが、それさえも綺麗片付いている。
それらの状況を見て、大体この部屋にどういう事情があるかは推測できる。

まあ事前の調べで大体分かってるんだけどさ

独り言を呟きながら、俺はキッチン周りから、さらに部屋の奥にはいる。
部屋の構造は1K。玄関入ってすぐにキッチンと食事のスペースがあり、右に行くと風呂とトイレ、奥に行けば居室だ。テレビが置かれた部屋は窓に面しているが、今はカーテンで閉ざされていて光がほとんど入ってこない。
ありがたいことに現場については前の業者がしっかり清掃してくれたらしい。俺としてはそれだけでありがたい。状態にも寄るとはいえ、アレの掃除はヘビーだからだ。

――さてさて、それでこれが例の奴か

部屋の端っこに置かれたクマのぬいぐるみ。
大きさは30センチを超えるぐらいで、表面の毛の使われ方や作りを見る限り安いものではなさそうだ。親が子どものために奮発して買ったものだろう。
そんなぬいぐるみが部屋の端っこに野放図に置かれて座り込んでいる。

それが今回俺がここで仕事をすることになった理由。
前にこの部屋にやって来た業者が匙を投げた理由。
こんなぬいぐるみで何があるのかと普通なら思われるかもだが、これが脅威なのではない。
これをトリガーにして起こることが問題なのだ。

まずはどういう奴か見てみるか――

俺は慎重にぬいぐるみに向かって手を伸ばす。そして手袋をはめた手が表面に触れた時、

うおっ!?

突如足元が揺れた。
片膝を床につけたいてもバランスを崩すほどの大きな揺れ。まるで大地震でも起きたのかと思えるほどの揺れは依然として続き、足元だけでなく部屋全体を揺らす。部屋に置かれた家具がガタガタと揺れて今にも倒れそうだ。
そんな揺れにも関わらず、外が騒ぎになる様子はない。聞こえてくるのは普通の生活音だけ。

やっぱりここだけってことね……!

ひとまず立ち上がろうとするが、それさえも上手くいかない。仕方なくぬいぐるみから手を離すと、揺れはゆっくりと収まっていく。

中々手強そうな奴だけど、こいつが本体なのか?

できればしっかりとこのぬいぐるみについて調べたいところだが、今の揺れが再発しては部屋自体が崩れかねない。そうなれば依頼が達成できないどころか賠償問題だ。

これは困ったな。触るだけで起こるんじゃどうしようもないし……

―――――――ねぇねぇ

困り果てていると、後ろから声が聞こえた。
さっきまでこの部屋には鍵がかかっていたのだ。室内に人がいた様子はなく、それは俺が中に入った時にも確認済だ。
それにも関わらず聞こえてくる声。よろしくない事情があった部屋で聞こえてくる声といえば、どういうものかは相場が決まっている。

ねぇねぇ、聞こえてる?

声は再度俺を呼ぶ。おそらく前の業者はこの声にまでは気付かなかっただろう。特殊な体質だから気付ける声。
俺は1つため息をついてから、ゆっくりと体を回した。

ああ、聞こえてるよ。君は一体誰だい?

呼びかけた先にいたのは、白いワンピースを着た5歳前後ぐらいの少女だった。
自分で呼びかけてきたわりに俺が答えるのが意外だったのか、少女は口を開けて驚きの表情を浮かべている。
だが、彼女はすぐに笑みを作り、

わたし? わたしはショーコ!

元気に名乗ってきた。
くったくない笑みを浮かべる彼女だが、その顔は真っ白で生気は感じられず、体はうっすらとぼやけている。
それを見た俺はもう一度ため息をつく。
仕事だから仕方ないとはいえ、できればそう見たいものではないからだ。
『幽霊』なんて――。

少女とぬいぐるみ①

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