お兄ちゃん!

その言葉はシェイプを覚醒させるのには十分だった。いつの間にか彼の意識はおぼろげになっていた。足元に妹の姿はない。
鉄格子の向こう側は昼間なのに薄暗く、いくつもの煉瓦の壁が空間を圧迫していた。ディティは檻の向こうに広がる、そんな『絶望』を具現化した世界へと解き放たれようとしていた。

血とは時に恐ろしいものだ。

銀髪の少年の顔が脳裏をよぎる。記憶の中に埋没して忘れたとばかり思っていたのに、あの時の瞳や揺れる髪の毛一本一本まで鮮明に眼に映る。

あの時出来なかったことが今なら……

身体は動くことを拒絶していたはずなのに、猛りが奥底から湧き上った。

なっ……!

男達は抵抗しないだろうと踏んで子供達一人一人に枷や鎖は付けていなかった。それが今の彼にとって幸いした。しなる筋肉が少年を弾丸と変え、妹を掴んでいる男に体当たりを食らわす。緩んだその手から彼女を奪還し、二人は石畳の街を駆けた。

にっ逃がすか

やめとけ、ここは王都だ。余計なことをすればあいつ等に見つかる。それにあんまり動けないないだろう、放置してればいつか死ぬさ

男は灰となった葉巻を石畳に落とし踏みつけた。

兄妹は何も考えずただひたすらに足を動かしていた。反応していたのは本能だろう。いつの間にか薄暗い通りを抜け、大きな広場へと着いていた。裏路地から人の流れを凝視する。

どうしてここに着いたのか。それは考えるよりも身体は明確に知っていた。鼻がひくつき、口の中に唾液が広がる。久々の空腹感にシェイプは無意識に腹部を撫でた。
ディティは力を使い果たしたのか、膝に顔を埋め縮こまっている。

食べたい

妹と一緒にアレに齧りつきたい。

シェイプはまばたき一つせず、雑踏の中で声を張り上げる露天商の持つものに惹かれていた。大ぶりの肉に絡み付く甘辛いタレ。口に入れた物なんて、父が死んでから数えるほどしかなかった。乾いたパンに群がる彼らを見て、大人達はその無様な姿に笑う。自分達の方が愚かで無様だと気づかずに。

シェイプは拳を握りしめ、今か今かと待った。隙は必ず出来るはずだ、少しでいい、ほんの一口、舌の上に乗せることができたら。

ほら、食え

肉に集中していたシェイプは突然の来訪者に呆け、隈が縁取る瞳でまじまじと見てしまった。あの男達のせいで大人達を信じられなくなったのかもしれない。しかし限界な肉体は無意識に彼女の差し出した肉に腕を伸ばしていた。ぎりぎり残っている自制心で触れそうになる腕を止める。

取るべきか、取らざるべきか。

女は逆光でうまく表情が捉えられない。真っ赤な、力のある目。それだけが今の少年に抱ける感想だった。

彼女は肉を差し出したままで催促はしなかった。結末は彼に委ねているのだろう。

喉が震える。それは声となってシェイプの口から零れる。言葉ではない、喘ぎ。飢えた獣の咆哮だった。右頬が引きつって歪な表情となり、彼は本能に忠実にその肉を女の手から奪うように取った。齧り付くのにもう迷いはない。
ディティも飛びついてきて、二人で一つの肉にしゃぶり付く。味は美味しいはずなのによく分からなかった。それぐらい腹が減って感覚が麻痺していたのだろう。

これは奇跡だ。もう二度とこんなことはないと思って喰らい尽くせ

女は笑みも覗かせず、無表情で淡々と彼らに漏らした。

少年には聞こえないに等しかった。感覚的に首を振りながらも目は肉に喉は咀嚼にと励んでいた。

奇跡は奇跡として受けとり、二度目を期待するな

女が踵を返す。通りへと消えていく背をちらりと見た少年は、彼女がまるで後光を背負った神のように見えた。

貪欲に清く生きろ

女は路地裏から光の中へ消える。背は追えない、きっと手には届かない人物なのだ。

美味しいね……

残ったのは綺麗にはぎ取られた骨一本だった。

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