――潤が忍び込んだ通気ダクトの中は、ひどく埃っぽかった。
マスクをしていなければ、盛大にむせ返っていたことだろう。

(掃除しとけよな……)


まあ、そもそも人が入るような場所ではないのだから、仕様のないことなのだが……。

それでも前に進めば進むほど自分の服が埃まみれになっていくのを見て、思わず深いため息が出た、その時だった。

あー、テステス。潤、聞こえてる?


ヘッドホンから声がした。かわいらしく、どこかまだ子供っぽさを残した少女の声だ。

聞こえてるよ、アンナ

そう? それは重畳! さて、お仕事しましょうか!

了解。ターゲットまでの道を教えてくれ

はいはーい、ちょっと待ってね!


無線の向こうの少女――アンナは何かの機器を使っているらしく、キーボードに似たカタカタという音が聞こえてきた。

よし、出た! えっと、ふむふむ、右に曲がって……ん?あれ、潤ってばもう曲がるところ通り過ぎちゃってるよ

は? なんて言った?

だから、曲がるの一つ前の角だよ。早く戻って

はぁっ!?


潤が思わず大きな声を上げると、しぃーっ! とアンナは必要もないのに小声で言った。

ちょっと、静かにして!

あ、ごめん……ってあれ、なんで俺が謝って

分かってるでしょ? これは秘密、特別、重要……ああもう、ともかく! 大事なことなのよ!  ほら言ってみて。あなたの仕事は何?


アンナが耳元で叫ぶものだから、思わず顔をしかめながら潤は嫌々答える。

展示室に忍び込んで文書を盗ってくる、だろ?

その通り。分かってるなら実行してよ!

……了解


女は強し、というやつか。文句は言わせてもらえそうにないので、潤は仕方なく、一層服が汚れるのを我慢しながらずりずりと後ろに下がった。

右に曲がる、と、目的の部屋に出る通気口が見えた。

あった、あったぞアンナ。あれでいいんだよな?

そう。急いで!

ああ、うん……


言われた通りにするのは癪だったが、潤は少しスピードを上げた。
通気口から覗くと、狙いの文書が展示されているのが見える。

小さく呟いて、潤は部屋に降りるべく、腰のワイヤーの先をパイプ内に貼り付けて固定した。
腰のケースに入れておいたドライバーをくるくると回し、通気口の蓋を外す。カタン、と思いのほか簡単に取れた。

……よし


ワイヤーがきちんと止まっているのを強く引っ張って確認する。
いざ降りようとした、その時だった。

えっ?


狙っていた文書が消えた。
いや、消えたんじゃない、盗られたのだ。

通気口から顔を出す。
部屋には、先客がいた。

お前……っ!


潤に気づいたらしい相手が、ニヤリと嫌味な笑みを浮かべた。
潤は彼を知っていた。

……お先に

ちょ、待て綾人!


綾人と呼ばれた少年は、そのままワイヤーを巻き上げて反対側の通気口に戻っていく。

くそっ、先越された!


苛立ちまぎれに投げたドライバーが、床の赤外線センサーに触れて警報がワンワンと鳴り出した。


――訓練終了。総員直ちに本部に戻られよ――

警報の合間に流れる放送を聴きながら、潤ははぁと深くため息をついた。


久留崎 潤は元々、どこにでもいる普通の少年だった。いや、少なくとも自分ではそう思っていた……ほんの一週間ほど前までは。

彼の人生史上最大の事件は、一通の手紙から始まった。

ただいま


片手は学校の荷物で、もう片方は郵便受けに入っていたものでふさがっているものだから、鍵を開けるのも閉めるのも一苦労だった。

散らからないくらいにと気をつけながら、靴を脱ぎ捨てた。


家に帰った潤を迎えたのは、日が沈んで暗くなったリビングだった。
慣れた手つきで壁のスイッチを押して、パチン、明かりをつける。

叔母さんは……まあ帰ってないか


潤に、親はない。というより、いるかどうかもよく知らなかった。小さい頃からいないのが当たり前だったので、特別気になったこともない……多少は変に思ったが。

潤は今、父の妹、つまり叔母にあたる人と二人で暮らしていた。とは言え、忙しい人なので滅多に顔を合わせないし、実質的には一人暮らしと殆ど変わりない。

おかげで学生ながら、家事一般はできるのだった。


そのままリビングを抜け自室に入った時、潤は郵便物の中に奇妙なものを見つけた。

何だ、これ?


真っ黒な封筒。宛先には潤の名前だけ。住所も消印もない。
裏返す。差出人は書いていなかった。

……


中身を切らぬようにペーパーナイフで封を開ける。中に入っていたのは二枚の紙。一つは地図のようだった。

手紙の内容は、このようになっていた。

以前に比べ、暖かくなってまいりました。しかしまだ気温の上下も激しく、夏のような場所もあれば冷え込む場所もあるので、どうにも体調を崩しがちな日々が続いております。
さて、この度お手紙差し上げたのは、ほかでもなく、我々のイベントにお越しいただければと思ったからなのです。もちろんそちらのご都合もあると思いますので、無理を言うつもりはございません。

イベントについては、

「中高生による環境問題への意見交換会」
対象:中学生、および高校生
会場:○○ホール三階大会議室
時間:5月24日 12時30分~15時

のようになっておりますが、イベントに関したご質問は下記の番号、会場一階の案内所で受け付けております。ご来場をお待ちしております。
会場ついては、同封の地図をご参照ください。

5月10日 日本社会機関

日本社会機関……? 



何かの会の招待状、しかし、それにしては手が込んでいる――いや、込みすぎだ。
宛先は白のインクで、やたらに丁寧な字であるし、封筒は丁寧に封蝋までされていた。

そのシーリングワックスも定番の赤でなく、これまた黒だ。そのせいか、肝心のスタンプが異様に見づらい。
じっと目を凝らし、傾けてみる。
細かな紋様が光に微妙に反射していた。

何て、書いてあるんだ? ……ふむ


潤は机の引き出しからスタンプパッドを出して表面を軽くなぞった。
模様にうまくインクをつけると、紙を押し付けるように当てて写し取る。
ようやく潤にもその文字が見て取れた。

じぇーえす、あい……? と、星?


大きな五芒星と、そして小さく下方に書かれたJSIの文字。
そして、星の封蝋は、何だか妙に珍しく思えた。

ん?


ここで、何かが潤の頭に引っかかった。
黒と星。
何かなかっただろうか、この奇妙な手紙から“一歩進む”ことのできることのできる何か……。

ふと、机の上に目が行った。教科書やら漫画やらが、ごちゃ混ぜに広がっている。

その中の一つを目にしたとき、潤ははっとした。

もしかして……!


潤はすぐさま、部屋を飛び出した。

プロローグ、そして俺に届いた手紙

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