東京は、都心部。
 山手線の駅から徒歩15分の二階建てアパート。

 風呂ありトイレあり、ただし、築年数もそれなりに立派である。同じような条件の物件に比べると、家賃は格安だった。

 もちろん、平均より安いからにはそれなりの理由があるのだけど――。

 これは、そんな一見すると何の変哲もないアパートで起こった一夜の狂騒曲である。あるいは、世界が人知れず救われた壮大な物語、かも知れない。











【201号室】

 築二十年を超えるボロアパートの202号室に暮らす男子大学生は、その日、眠ることもできずに煩悩の底なし沼に頭まで浸かっていた。

ううう、うう……。


 時刻は、真夜中。

 そろそろ床につかなければ、明日のバイトにも差し支える。だが、彼は今、心ひそかに懸想している女子高生の部屋にいるのであって、そのベッドに横になれば、鼻から鮮血が吹き出す事は間違いなかった。


 ここは、201号室
 独り暮らしの女子高生の部屋である。

 清楚で可憐な黒髪ストレートの、やや天然ボケの女の子。条例に引っ掛かるけれども、ピュアな想いを抱いて何が悪いか――男子校出身、文学部哲学科で勉学だけに身を捧げる男子大学生の内なる叫びである。鋼の精神(童貞の魂)を身に宿す彼は、しかし、人生初となる禁断の領域に足を踏み入れようとしていた。

ああ、いい匂いがする


 思わず、本音が出た。
 気高き孤高を貫いてきた自負を持つ彼は、劣情丸出しの己に身悶えた。

 頭を抱えてうずくまるものの、鼻先にカーペットが迫れば――。

ああ、彼女のおみ足が普段ここに……


 などと妄想が始まり、彼は、もはや自分は人ではない――獣である、畜生であると、己の精神的敗北を認めるしかなくなっていた。


 幸いにして、彼の奇行を、部屋の主である女子高生が見咎めることはなかった。

 男子大学生は、今宵、一人で女子高生の部屋にいるのだ。

 女子高生と条例に引っ掛かるような行為に及ぼうというわけでもなければ、家主がいないのをいいことに変態チックな行為に走るわけでもない。ただ好意を寄せる女子高生の部屋にいるという事実に、彼は精神を摩耗、崩壊させていた。

 百年の恋も冷めるような醜態。

 ただし、恋愛は始まってもいない。


 男子大学生は、ただの良き隣人として、女子高生に頼まれ事をされただけなのだ。

ああ、僕は、もう駄目だ。明日からどんな顔で田中や井上に顔を合わせればいいのだ。合コンするリア充を見て、精神的充足を得られないド畜生はあれだから困る……などと、もはや上から目線で語ることができそうにない。かくも女とは魔性であるのか、谷崎潤一郎は正しかったのであるか


 苦しみや辛みを始め、日頃溜まった色々な怨念をぶつぶつと吐き出し始めた瞬間である。

あ、あの……


 背後から、女の声が聞こえた。
 振り返った男子大学生は、異様な光景を目にする。

 そこに、見知らぬ女がいた。

 ただし、彼女は床からニョキリと生えている。正確に云えば、首から上だけが床から突き出ていた。髪は長く、血色は悪い。声もまた、蚊の鳴くように細い。よくよく見れば、女は半透明であり、奥の壁が透けて見えた。

は、はじめまして。その、幽霊……です。


 出た。

 本物である。

 男子大学生が悲鳴をどうにか堪えられたのは、ある程度、この展開を覚悟していたからだ。夜な夜な、アパートの201号室に出没する幽霊。本来この部屋の住人である女子高生が、一晩だけで良いから部屋を変わって欲しいと頼まれた理由が、まさにこれなのだ。

あ、あの、私……。


 幽霊は、おどおどと云った。

私、101号室の者ですが……その、はい……。











【203号室】


 203号室の男は、ニートだった。

 生活リズムは、見事に反転している。昼寝て、夜起きる。今日もまた、真夜中近くになってようやく目覚めた。万年床で身を起こし、カーテンの隙間からのぞく闇夜に、ぼんやり視線を向けていた。

 特に、することもない。
 虚しい夜が、また始まる。

……腹が、減った


 ここしばらく、男は満足な食事をしていない。

 洗面台に向かい、蛇口から出る水をそのまま飲んだ。乾きは癒えない。むしろ、空腹は増す一方である。

 だが、金がない。
 なにせ、ニートである。

 貯金は雀の涙ほどしか残っておらず、アパートを追い出されるのも時間の問題なのだ。働かなくなって、どれくらい経つだろうか。

 夜の仕事に就いていた時期もある。男は背も高く、絹のような金髪は女性よりも美しい。髭も生えない中性的な顔立ちは、夜の町で女性を虜にするには打ってつけだった。だが、男自身、そんな仕事に就いていることが惨めに思え、気まぐれでふと辞めてしまった。今はその時の貯金で食いつないでいる。

 世が世ならば、贅を尽くした暮らしを送っていたはずだ。

 祖先は広大な土地を支配し、自由奔放な生活を送っていたらしい。亡き両親は、生活に困窮しながらも誇りを失わず、在りし日の栄光を子守歌がわりに語って聞かせてくれたものだ。

私達のご先祖様は、伯爵だったのよ。


 男はニートだった。

 そして、吸血鬼だった。

カップラーメンも買えねえ吸血鬼なんて、笑えないったら……


 血が吸えれば、最高だ。

 女の血――それも若々しい処女の血。

 しかし、法治国家のここ日本で、女性を襲うなどすれば途端に捕まってしまう。男には、苦い思い出もあった。高校生の頃、仲の良かったクラスメイトの女の子に、冗談交じりに云ってみたのだ。

ねえ、血を吸わせてよ


 甘い答えを期待したが、辛辣な視線を返された。

いやー、変態


 悲鳴まで上げられた後、それを契機としてクラス全体から壮絶ないじめを受けた事は、男にとって最大のトラウマだ。

 結局、微々たる栄養しか摂取できない普通の食事だけで耐えてきた。

ああ、血が吸いたい。血が、女の血が……

 ふらふらと倒れそうな足取りで、男は部屋を出た。

 向かう先は、隣の部屋、204号室。そこに住んでいるのは偏屈なじいさんで、魔法使いを自称している変わり者である。

 かつて初対面の時には――

魔法使い? ああ、奇遇ですね。俺は吸血鬼なんですよ。なんて、あははは……


 サンダーボルトを撃たれた。

 それ以来、人の道を外れた者同士、なんだか仲良くなってしまい、生活が困窮した時は互いに助け合って生きている。

じいさん、助けて。カビた食パンでいいから、お恵みを!


 情けない窮状を訴えながら、吸血鬼のニートはドアをノックする。だが、応答はなかった。深夜であることを思い出し、彼はため息を吐いた。

年寄りは寝てるもんなあ

 肩を落としながら部屋へ戻ろうとして、逆隣の202号室から灯りが漏れていることに気づいた。

 202号室の部屋に住んでいるのは、まるで化石のような男子大学生である。彼を評して、204号室のじいさんが云っていたものだ。

あいつには、魔法使いの素質がある。もしかすれば、儂を超える大魔法使いになるかもしれん


 なお、魔法使いになるためには、童貞を貫き通す必要がある。純潔を守る事で、魔法使いの資質はより高まるそうだ。

ん? じいさん。じゃあ、あんた、その歳で……

……云うな。儂は、儂らしく生きた。後悔はない

本当に?

……


 202号室の男子大学生は引っ越してきた際、隣人となる吸血鬼のニートにわざわざ挨拶に来てくれた常識人でもある。これまで廊下ですれ違う時も、たびたび言葉を交わしていた。

 時々、すれ違う際に――

イケメンは神田川でおぼれ死ね


 などと、つぶやいているのが気になるが、おおむね良き隣人である。

 大学生の彼は、夜中でも起きている事が多い。非常識である事は承知の上だったが、吸血鬼のニートはもはや飢餓に耐えられなかった。


 202号室の扉をノックした。

たすけて。なんでもいいから、お恵みを……


吸血鬼にあるまじき、神へ祈りを捧げる一歩手前。

はーい、どちら様?


 しかし、202号室から出てきたのは男子高校生ではなく、可愛い黒髪の女子高生だった。











【202号室】


 女子高生は悩んでいた。

 いや、実は、悩んでいなかった。

 でも、悩んでいる方がきっと正しい――そう信じて、悩ましい少女のキャラクターを必死に演じていた。

 女子高生がこのボロアパートで独り暮らしを始めて、そろそろ一年が経つ。高校生の女の子が一人で親元を離れて暮らすことに、当然ながら、最初の頃は大反対があったものだ。

でも、これは神様の決定だから仕方ないの

 両親に対し、女子高生はさらりと説得した。

アカシックレコードに記された未来のために、私達は存在する。お父様もお母様も、神様の存在は感じられるでしょう? ほら、世界はそのために――


 説得の結果、女子高生の独り暮らしをしたいという願いは叶った。

 不動産屋にて、このボロアパートに即断即決した瞬間も、両親は何も云わなかった。全てを受け入れるような、遠い目をした両親を見た時、女子高生は満面の笑みで叫んだものだ。

ああ、ようやく、お父様もお母様も世界構造というものに気が付いたのですね。よかった。神様の意思を感じられる人が増えて、本当に、私は嬉しいです


 女子高生は笑顔だったが、両親はドン引きだった。

 何はともあれ、それから月日は流れ――。

 本日、使命を果たす日がやって来た。

こんばんは、夜分遅くにすみません


 夜、隣の202号室の男子大学生の部屋をノックして、彼女は云った。

毎晩、幽霊が出るため、満足に眠ることもできません。どうか一日だけで結構ですので、部屋を替わっていただけないでしょうか?


 さすがに、これが非常識な頼み事である事は、女子高生も承知していた。そのため、男子大学生を説得する方法は色々と考えていたのだけど。


 彼は意外にもあっさりとオッケーしてくれた。その際、なぜか盛大に鼻血を吹き出していた事は気にかかるものの。

ああ、これも神様が運命を操作されたのですね。わかります


 女子高生は、いつもの調子で納得した。

 さて。

 202号室、男子大学生の部屋。

男の人の部屋に入るなんて、初めてです……


 男子大学生の部屋は、綺麗だった。殺風景とも云えた。

 女子高生は、すぐに手持ちぶさたになった。

 そこで、『男子大学生のイケナイ秘密をのぞいちゃおう☆大作戦』を開始する。問答無用、勢いよく押し入れを開けてみた。

 女子高生の制服コスプレのアダルトなビデオを発見。

おおう……


 感無量である。

 その時、ノックの音が響いた。

はーい、どちら様

あ、あれ……?


 女子高生がドアを開けると、そこには吸血鬼のニートが驚いた顔で立っていた。

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