【101号室】


 101号室の住人は、幽霊であった。

 生前は、202号室の男子大学生と同じく、アパートから徒歩圏内にある某大学の院生だった。貧乏学生だった。部屋の中でメザシを炙っていたら、一匹目を窓から忍び込んで来た野良猫に盗まれ、二匹目は奪われてなるものかと、きっちり戸締りしてじっくり炙っていたら、そのまま一酸化炭素中毒でポックリ逝った。

 若くして亡くなった悔恨が、魂をアパートに留めてしまったらしい。要は、地縛霊である。そのためアパートから離れて行動することもできず、仕方なく、所定の書類手続きを経て、霊界から家賃だけは不動産屋に振り込んでもらっている。

うーん。お役所が家賃を負担してくれるなら、もっと豪勢なマンションに住んでみたかったな


 俗っぽい愚痴を漏らすこともあるけれど、働く必要もなく、気ままに漂うだけの生活に、もともとのんびり屋だった彼女は満足を覚えている。

 幽霊の平穏が破られたのは、数ヶ月前。

 幽霊の住んでいる101号室。その隣の102号室は長らく空き部屋になっていが、そこにとある男が入居してきたのだ。

 幽霊としてのキャリアはそれなりに重ねているものの、彼女は何も悪さをするつもりはない。誰かを傷つけることはもちろん、驚かすことだって無理である。ホラー映画を見て身体の震えが止まらず、ボロアパートに伝播させてしまい、盛大なラップ音を発生させてしまった時も大いに反省したぐらいだ。

 むしろ、彼女は一日一善を心がけている。

 管理会社に見放されたようなボロアパートであるから、誰かが手入れしてやらなければ荒れる一方なのだ。人の目が少ない早朝など、幽霊はよく落ち葉を掃除する。

 昼間は屋根裏に漂って、雨漏れの修繕。夕方には、ベランダと外階段の手すりを雑巾がけ。

こんにちは


 ある日、いつものように掃除をしている最中だった。

 鼻歌まじりに落ち葉を掃いていたため、背後から近付く男の存在に気付かなかった。慌てて、幽霊ならば誰でもマスターしておくべき基本の技術である忍法【隠れ蓑術】で姿と気配を隠した。しかし、それまでの掃除姿はばっちり見られていた事になる。透明状態で頭を抱えながら、幽霊はあらためて声の主を見つめた。

 和装の男だった。

 眼鏡をかけており、眼力が鋭い。年齢は、そこそこ。男は一人たたずみ、腕を組んだ。その手には和装に似つかわしくない指貫グローブがされている。

 凜と何処かで、風鈴の音が響いた――。

 まあ、そんな錯覚を覚えた幽霊である。

 何はともあれ、その日を境にして、幽霊は隣室である102号室の男からのストーカー行為に悩まされるようになった。いつでも気が付けば、じっと背後からの視線を感じるのだ。

 残念ながら、幽霊である彼女に人権はない。法の庇護もない。警察に訴えることもできなかった。

 泣く泣く、不動産屋に相談してみたものの――。

でも、あなた、幽霊でしょう? 死んでいるんだから、細かい事は気にしなくてもいいんじゃないですか?


 そんな風に、面倒臭そうに云われてしまう始末だ。

 朝も昼も、気が付けば、男は物陰からじっとこちらを見ている。

 恐ろしいのは、夜だった。

 ボロアパートの壁は薄い。ある夜は、呪詛のようなうなり声が響いてきた。ある夜は、壁や床を打ち鳴らすような音が聞こえてきた。ある夜は、今日こそ静かだと安心していたら――窓の外に、黒い袈裟を着て数珠を構える男がゆらりと立っていた。

 幽霊の心は、それで、折れた。

 忍法【壁抜けの術】を使って、彼女はふわふわと上の階に逃げ込んだのである。真上の201号室の住人は、可愛らしい女子高生。床から顔だけ突き出して

こんばんは

と初めての挨拶をしてみた幽霊に対し、女子高生は悲鳴を上げるでもなく、まるで猫でも迷い込んで来たかのように、二度、三度とまばたきするぐらいだった。

 幽霊は、己が非常識な存在である事は自覚している。

 常識的な人間からすれば、幽霊なんて受け入れ難いだろう。覚悟はしていたが、しかし、201号室の女子高生の常識というやつは、予想以上にぶっ飛んでいた。

ああ、幽霊さん。お待ちしていました。神様のお告げにあった通りですね。あなたが私の部屋へやって来る事は知っておりました。アカシックレコードはご存じ? ええ、これは大いなる始まり。プロローグにも記されない伏線なのです。いいですか、私とあなたがこうして出会い、仲良しになった事は誰にも云ってはいけませんよ。ああ、でも、この会話自体がアカシックレコードに記録されてしまうかもしれませんね。でも、それはそれでいいのです。その時はまた、そうするべきと、世界の構造をその方が正しめることができると神様が判断されたという事なのですから

……ヤバい


 ストーカーから逃げた先は電波でした。

 幽霊は究極の二択を迫られたものの、ストーカーよりは電波の方がマシだろうと、ぎりぎりの妥協の末、ようやく安心して眠れる日々を手に入れた。

 そうして、今日もまた――。

お邪魔します


 夜、自室の101号室でふわふわと浮き上がり、真上にある201号室を訪れた幽霊だったが、そこにはなぜか、202号室に住んでいる男子大学生がいた。

あ、あわわ、あの二人は実はそういう関係だったの。だったら、この数ヶ月、私の空気読めてなさは最悪だわ


 幽霊が頭を抱えた瞬間、男子大学生も頭を抱え始めた。

おやや?


 幽霊は頭を抱えるのをやめて、首を捻った。

 男子大学生をしばらくこっそり観察していると、どうやら、これは恋人が密会する時のような甘い空気ではないぞ。煩悩が全身から湯気となって漂うような彼の気配は、204号室のおじいさんに通じるような、圧倒的なモテナイ系男子のオーラである。

 幽霊は勘も鋭く察して、彼に声かけてみた。

 そうして挨拶を交わす内に、ここ数ヶ月のストーカーによる悲惨な境遇について、正義感の強い男子大学生に説明する事になったのである。






【102号室】


 アパートの新参者、102号室の住人は小説家。

こんにちは、はじめまして


 彼はアパートに引っ越してきた日、偶然通りかかった女子高生から挨拶された。

 年季の入ったボロアパートには似つかわしくない、可愛らしい少女。男は挨拶を返しつつも、自然と探るような目つきになっていた。職業柄、不思議な出来事や謎めいた物事には、ついつい関心を向けてしまうのだ。

私、知っています。先生は、ミステリやオカルトを得意とされているのでしょう。かなりの売れっ子にも関わらず、初心を思い出すため、この寂れたボロアパートに仕事場を移そうと思い付いたのですよね。和装なのは小説家ならば珍しくないし、指貫グローブは寒がりなだけで……そう、それらはただの偶然なのです。そうした特徴は、ただの偶然、似てしまっただけなのですよ。ね?

さて? 君は何を……?


 女子高生の不思議な物云いに、小説家は首を傾げる。

まあ、ともかく、自己紹介を。私の名は……

先生。それ以上はダメですよ


 ニコニコと微笑みつつ、女子高生は有無を云わせない強い口調で、小説家の言葉を断ち切った。

先生は、何処にでもいるような小説家の先生……それで良いじゃありませんか。あなたに名前はいらないと、神様も仰っています。あなたの存在は、この世界においてもかなりのイレギュラーであり、不確定要素なのです。どうか世界の安定のため、あなたは名無しの小説家であり、ちょっと偶然、特徴が似てしまっただけの人でいてください

う、うむ……


 小説家は平静を装いつつも、一歩退いていた。

もしかすると、大変な所に越して来てしまったか?


 女子高生の行ってしまった後、彼はそんな風に独り言を漏らした。仕事場のつもりであるから、荷物は少ない。ちゃんとした自宅は都内の一等地に持っているのだ。ボロアパートの一室を借りた事は、確かに、女子高生の云った通り、作家としての気まぐれでしかない。

 次の作品について、少々の迷いがあった。

 何かのきっかけになれば良い。その程度だ。

おや?


 だが、男は早々に見つけてしまった。

 それは、美しい女性。

 一目見た印象は、儚い。しばらく彼女の掃除している後ろ姿を眺めていたが、引っ越してきた新参者として挨拶すべきだろうと思い、ゆっくりと歩み寄った。

こんにちは


 その瞬間である。

 女は、消えた。

 愕然とした。これまで小説家として、妖怪やら何やらを好んで題材としてきた男である。さながら研究者のように、魑魅魍魎や怪異の類には詳しい。だが、こうもはっきりと目にするのは初めてだった。

 小説家の心に、かつてない震えが走る。

 若かりし頃の無限の情熱にも似た、ざわめき。

ああ、これは、書けてしまうな


 そして、小説家の戦いが始まった。

 ほとんど部屋に籠もったまま、彼は小説を書き続けたのだ。夜になると、気が荒れた。

こうではない、これも違う。ああ、違うのだ……

と、呪詛のような声が自然と漏れ出た。書いたものを読み返し、出来映えが悪い時には、思わず机や壁などを殴りつけてしまう事もあった。

 彼女は、幽霊。

 どうやら、このアパートに憑いているようだ。

 何気ない時、小説家はたびたび彼女を見かけた。アパートの住人は学生が多いためか、日中、幽霊は油断しているらしく、人目を気にせずアパートの庭先を掃除していたりする。

 小説家という職に、昼や夜の区別はさほどない。そのため、徹夜明けの昼下がり、気だるい気分で彼女の後姿を眺めている事も多かった。

 声をかける気にはならなかった。時折、半透明に透ける彼女は、まるでガラス細工のようであり、ほんの些細な衝撃で壊れてしまいそうに思えたからだ。

 ある日、作品は山場に差し掛かった。モチベーションを高めるため、小説家は己が描いている主人公に為り切る。陰陽師を模した黒衣の袈裟を羽織り、数珠を持ち、他人に見られたならば恥ずかしい事この上ないが、これがなかなか楽しい。興が乗り、筆が進むのだ。

 夜中であれば誰にも見られないだろうと思い、そのまま散歩した事もある。

 そうして、ようやく今日――。

終わった


 大作が完成した。

 小説家は束になった原稿をまとめた後、気分転換に外へ出た。何もないボロアパートだが、静かな空気はそれだけで価値がある。夜空が作品の完成を祝福してくれるようで、彼は輝く星々に目を細めていた。

 その時、アパートの外階段を足早に下りてくる音。

 202号室に住む男子大学生が剣呑な光を目に浮かべて、小説家に詰め寄ってきた。もやしのように頼りない学生であるが、男も典型的なインドア派。荒事にはまったく慣れていない。

 それでも年上の威厳を保ち、何事かと、目線だけで尋ねた。

 予想外の言葉が、小説家へ突きつけられる。

このストーカー野郎

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