終章

  渡辺は椅子に深く腰を下ろし、祐介と向い合っていた。逆光になっていて、渡辺の表情は見えない。祐介を案内した女性社員は、しきりに指を動かしている。
 渡辺は煙草に火を点けて、彼女へ尋ねた。

渡辺

「そういえば大林がさっき血相を変えて出ていったが、何か知らんか」

受付嬢

「何も……」

 女性社員が答えると、渡辺は渋顔で頷く。

渡辺

「解った。下がっていい」

受付嬢

「失礼します」

 そう言うと彼女は一礼して、社長室の扉を静かに閉めた。足音が聞こえなくなると、渡辺は椅子から身を起こす。

渡辺

「で? お前は何の用だ。カネを借りるつもりがないんなら早く帰ってくれ」

祐介は黙って、ポケットから黒いUSBメモリを取り出した。

渡辺

「何だそれは」

「大林さんが僕にくれました」

渡辺

「梨絵とはどういう関係だ?」

 その問いかけに祐介は肩を竦めただけである。USBメモリに目を向けて彼は言った。

「これにはダイス製薬との取引記録が残っています」

それを聞いて、渡辺は鼻で笑う。

渡辺

「それがどうしたんだ。あの会社との交渉事は梨絵……大林に一任してある。記録が残っていて当たり前じゃないか」

「ローン会社が製薬会社に融資している。でももしその製薬会社が危険ドラッグを作っていたとしたらどうなりますかね?)

渡辺

「何だと?」

「そしてその危険ドラッグがネットで広まってたとしたら、会社のイメージはどうなりますかね。製薬会社と金融業者の癒着! 社会を麻薬漬けに。そんな写真週刊誌の記事が思い浮かびませんか?」

渡辺の顔にさっと影が差した。

渡辺

「何のことだ。俺は知らん」

 彼はそう言うと電話に手を伸ばす。それを見て祐介は言った。

「今さら取引を中止してもムダだと思いますがね。だってもうご融資はなさったんでしょう?」

渡辺

「秘書が勝手にやったことだ。関係ない」

「確かに。でもそんな世迷い事を顧客は信じるでしょうかね? ただでさえ政治家がよく使っているのに」

 祐介は笑って続ける。

「このネタはいくらで売れると思います?」

 渡辺は煙草へ火を点けると、胸いっぱいに煙を吸い込んだ。顔を赤くして彼は言う。

渡辺

「こんなことが許されると思ってるのか」

 祐介は肩を竦めると答えた。

「僕はお父さんの会社のスキャンダルを防ごうとして、わざわざ足を運んでるんですよ。脅迫と受け取るなら、それはやましさがあるからでしょう?」

渡辺

「ものは言いようだな」

 渡辺が吐き捨てるように言うと、祐介は笑んだ。

「そうですね。でもどうでもいい。あなたの会社のスキャンダルを僕は握っている。それだけで充分です」

渡辺

「お前の目的は何だ

渡辺が呻くように言ったが、祐介は肩を竦めただけで何も言わない。その時、ノックの音がした。

渡辺

「誰だ」

 渡辺が刺のある声で言うと、先ほどの女性社員の声がする。

受付嬢

「警察の方です」

 渡辺は立ち上がると、ポケットに手を入れた。しばらく無言で祐介の顔を見据えていたが、やがて尋ねる。

渡辺

「お前が呼んだのか」

「まさか。僕だってそこまでバカじゃありません」

 渡辺は溜息をつくと、戸口に向かって言った。

渡辺

「どうぞお入り下さい」

 扉が開くと園村と天野が入ってくる。

園崎

「これは渡辺先生。こんなところで何を?」

 園村が尋ねると、祐介は笑って答えた。

「たまたまこの近くを通りがかったものですから、父に挨拶をね」

園崎

「そうですか、親子水入らずの会話を邪魔してしまい、申し訳ありません」

 しかし園村の顔は全く申し訳なさそうな顔ではない。渡辺は尋ねた。

渡辺

「いえ、刑事さんが何のご用件ですか?」

天野

「この会社が麻薬密輸に関わっている疑いがあります。大林さんのUSBメモリをご提供願えないでしょうか

 天野が慇懃に言うと、渡辺は尋ねた。

渡辺

「それは任意提出ですよね?」

園崎

「もちろん任意ですよ。しかし面倒事にはなりたくないでしょう?」

 園村が言うと、祐介は笑った。

「面倒事になるのは警察も同じでしょう?」

天野

「何ですって?」

 天野が喧嘩腰で言ったが、祐介は涼しい顔で返す。

「あの日、ラジオで聞いてしまいましてね。警察が麻薬不法所持で逮捕されたらしいじゃないですか」

園崎

「それとこれとは関係ない」

 園村が気色ばむと、渡辺は言った。

渡辺

「そうですか。確かあのUSBメモリのお取引先には警察関係者の名前も含まれていたと大林から聞いてます。私は確認していないので、何とも言えませんが」

 そして煙草を灰皿に押し当てると、新しい煙草に火を点ける。そして慇懃に続けた。

渡辺

「いずれにせよ、彼女のUSBメモリはここにはありませんし、任意提出なら法的拘束力はないでしょう。正式な礼状をお持ち下さい

 園村と天野は顔を見合わせる。園村は一礼すると、硬い表情で言った。

園崎

「そうですか。失礼しました」

 そして彼は扉を締めたのだった。足音が聞こえなくなると、渡辺は皮肉な笑みを浮かべる。祐介へ尋ねた。

渡辺

「警察に俺を売ればよかったじゃないか」

「何、警官に不都合な真実がある以上、もみ消されてしまうかもしれない。それが僕にとって不利益になるだけのことです」

渡辺

「お前にどんな不利益があるんだ?

 渡辺は尋ねたが、祐介はポケットに手を突っ込んだまま答えない。扉に向かうと、祐介はスマホを見ながら言った。茜からメールがきていた。

「さて、僕はこれでお暇します

 渡辺は祐介の背中へ何か声を掛けようとする。しかし口をつぐんだ。祐介が扉を閉めると、その音が部屋へ響く。
 彼は外に出ると、茜からのメールを見た。進路のことで父親と仲直りをしたらしい。祐介は短く笑って、返信を書いた。オフィスビルを見上げると、スマホをポケットに押し込んだ。
 祐介は駅に向かって歩き始めたが、オフィスビルを振り返ることはなかった。

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