おじさんとケータイ電話

第一話






今日も今日とて終電帰り。

……ん?


通い慣れた道を歩いていると、
ふと、電信柱の一本が目についた。

なんの変哲もない電信柱だ。

ただ一枚、ピンク色の紙がペタリと貼られている。

チラシの類いだろう。

天使のお悩み相談室。
疲れる貴方の心を癒やします……か


これはあれだな。

一昔前に流行ったやつだ。

電話を掛けると、
向こう側に可愛い声の女の子がいて、
トークをしてくれるやつだ。

今風に言うとツーショットダイヤルというんだろうか。

ネット全盛のこの時代に珍しいチラシもあったもんだ。

…………


普段なら無視したんじゃなかろうか。

ただ、今日は少しばかり疲れていた。

だからちょっと、ちょっとだけ、
気の迷いというやつだ。

……こ、こんなところに張り紙とは、

けしからんっ!


右を見て、左を見て、
他に誰の姿も無いことを確認する。

指先に摘まめば、
柔いテープに貼り付けられたそれは簡単に剥がれた。

あぁ、まったく。
まったく、けしからんなぁ!
けしからんっ!


手に取ったチラシを二つ折りにして、
手早く鞄へと放り込む。

より過激で実用性のあるおかずなど、
他に幾らでも手に入れる方法はあるだろう。

しかしながら、私くらいの年になると、
情緒というものが大切なのだよ。

情緒というものが。

けしからんから、これは私がちゃんとゴミ箱へ捨てて置いてやろうかなぁっ


他に人の気配は感じられない

…………


私は逃げるようにその場を後とした。

自宅へと急いだ。

自宅には駆け足で戻った。

食事を終えた。

風呂にも浸かった。

さっぱりとしたところで、
いざ目の前にはケータイとピンクチラシがある。

…………


なんてけしからんピンク色だ。

ここまで激しく自己主張されては、
やはり調査が必要だろう。

場合によっては、あぁ、
然るべき対処というやつをせねばならん。

……まったく、けしからん、けしからん、ぜろ、はち、ぜろ……


案内に記載された番号は固定電話でない。
移動体のもの。

素人くさいな。

しかし、だからこそ滾るものがある。

その意気や良し。

近所の娘かもしれない。

そんな可能性が、
胸をドキドキとさせてくれるではないか。

近所の娘は良いものだ。

なな、なな、なな……と

画面に番号が並んだ。

おもむろに通話ボタンを押す。


応じてコール音がスピーカーから響き始めた。

…………


三コールほど待ったところで、反応があった。

ガチャリと回線の繋がる音が響く。

同時に声が届けられた。

はーい、こちら天使のお悩み相談室です

っ……

でたっ。

でおったわ!

あ、も、もしもし、
天使のお悩み相談室だろうか?


いかん、普通に受け答えしてしまったぞ。

しかも少しどもった。

こういったのの類いは、
最初の印象で全てが決まるというに。

もう少しはっちゃけて行かねば楽しめんではないかっ。

はい、そうですよっ! 
お悩み相談ですね?
どうぞどうぞ

あぁ、まぁ、そうなんだが

どういったお悩みですか?

じつはその、ここのところ夜の営みが芳しくなくてだな……


全力で舵を切る。

見事なチョイスだ。

流石は私だ。

伊達に一度、
職場の若い子にセクハラで訴えられていないわ。

夜の営み、ですか?

ああ、おかげで妻とも、
上手くいっていないのだよ


実際は妻なんていないけれどな。

四十を目前に控えて未だに未婚だからな。

それもこれも職場が悪い。

なるほど、
確かに夫婦仲が悪いのは良くないですねぇ~

うむ。そうなのだよキミィ


しかし、随分と若い声だな。

かなり可愛らしい。

声だけを聞いていると、
まるで小さな子供の相手をしているようだ。

背徳感が堪らない。

公には出来ない感じが極めて良い。

なんとかならないものだろうか?

そうですねぇ。
なにか思い当たる節とかありますか?

思い当たる節か……

直接、お身体の具合を確認することも可能ですけれど……

むっ、そうだな……


来た。

さっそく来おった。

…………

あれ、どうされました?


これはアレだな。

通話のフィーリングで客を選ぶタイプのアレだ。

だからこその移動体番号なのだろう。

でなければ向こうに得がない。

だがしかし、私は賢い。

なんせ情緒を楽しむタイプの客だからな。

ゼロ円で楽しむギリギリの駆け引きが、
あぁ、良いのではないか。

どちらかと言えば心の問題だと思うのだが、どうだろうか?

心ですか?

いかんせん男の多い職場でな。
潤いが足りていないのが良くないと思うのだ

なるほどなるほど、
確かにそれは良くないですねぇ

こうして若い女性の声を聞いているだけでも、癒やしを感じるのだよキミィ

それは光栄ですねぇ~。
私なんかで良ければ、
幾らでもお話しますよー

本当かね?


おいおい、なんか良い感じではないか。

いつもこんなに上手くいかないぞ。

もしかしてモテ期か? 
電話越しにモテ期が発動してしまったか?

お時間は大丈夫ですか?

君みたいな可愛らしい声の子とであれば、
一昼夜を共に過ごしても惜しくない

あらら、とても情熱的ですねぇ


であれば、攻めるぞ。

ここは攻めて攻めて攻めまくる

今はなにをしているのだね?
もう十二時をまわっているのだが

今ですか? 今はお仕事の最中ですよ~

仕事?

はい、こうして下界の方々のお話を聞くのも天使の大切なお仕事なのです

なるほど、なるほど、
君はとても仕事熱心のようだ


設定が細かいな。

不思議ちゃんというヤツだろうか。
それとも店の方針か。

まあ良い。声がかわゆいから許す。

とは言え、
この調子で続けていたら本当に夜が明けてしまう。

ここは一つ、一気に攻めるか。

お嬢ちゃん、
し、しし、下着は何色を履いてるのかね?

……え?


いかん、ちょっと急ぎ過ぎただろうか。

なんか素の反応が返ってきた。

だがしかし、
これまでの流れであれば、ギリギリセーフの筈だ。

な、な、何色だい?
お嬢ちゃんのオパンツ、何色だい?

え、えっと……
その、今は、く、黒いの、はいてます……

おぉ、黒……


天使ちゃんの癖に黒だなんて、なんて破廉恥な。

けしからん、けしからんぞ、天使ちゃん。

あの、それが……どういった関係が?

今のは良い。良いぞキミィ。
かなりグッと来た。素晴らしい。
ありがとうございます

え? あ、はい……。
あの、あ、ありがとうございます?

うむ。誇っても良い黒だ


段々と気分が乗ってきた。

これこそが情緒というものだ。

ピンクチラシもなかなか捨てたものではないな。

今後ともご贔屓にしてやろう。

では、次だ

え? 次ですか?

うむ。その黒は今、
どのような状態にあるかね?

……状態、ですか?
あの、そうは言われても……

はやくっ! はやく私に伝えるのだっ!
急いでっ!

は、はいっ


急かすと焦り混じりの返事が届いた。

押しに弱いタイプとみた。

良い、良いぞ。

そういう子に段々と無理をさせてゆくのが
最高にゾクゾクするのだよ。

えっと、ふつうに履いていますけど……

普通とはどういう状態だね?

え? あの、
どういうというのはどういう……


初心っぽい反応がこれまた良い。

普通なら鼻につくのだろうが、
このヴォイスだとナチュラルに響く。

心を心地良く刺激される。

もっと、もっと君の声を聞かせておくれ。

有りのままを語ってくれれば良いのだよ。
有りのままを

ええっと


すこしばかり躊躇して、天使ちゃんは続ける。

少し古いやつなので、
ちょっとだけ窮屈だったりして、
それで、その……

ふんふん、それでそれで?
どうなっているのだね?

き、生地が少しだけくいこ……


待望のセッションスタート。

その瞬間の出来事だった。

ピーという電子音と共に唐突にも回線が切断された。

すわ何事かとケータイの画面を覗き込む。

なんてこったっ……電池切れじゃないか……


こんなことなら社の規則を無視してでも、
卓上で充電しておけば良かった。

慌てて電源ケーブルに繋いで、同じ番号に掛け直す。

もしもしっ! 先程の者だがっ!


しかし、どうしたことだろう。

ツーッツーッツー。

お話中ではないか。

……なん、だと


スピーカーから返されたのは例の電子音である。

他の客に割り込まれたかっ!


慌てすぎたよう。

今一度、少しばかり時間をおいてからリダイヤル。

しかしながら――――。

ツーッツーッツー。

ときたものだ。

……ど、どうしたことだっ


何度を繰り返しても、これは変わらなかった。

どうやら相当にしつこい客のようだ。

…………


都合、十数回をリダイヤル。

しかしながら、
二度と天使ちゃんに繋がることはなかった。

……無念。なんたる無念っ……


とりあえず、ケータイは充電だ。

……明日だ。
明日になったら再び掛けてみよう


翌日に備えることとした。

今日のところはこれで勘弁してやろう。

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