夜明け前になっていた。どこをどう歩いたのかも思い出せず、私は気が付けば、国王の王室まで歩いて来てしまっていた。

すっかり泣き腫らした目。鏡はないが、きっと今の私は、ひどい顔をしているだろう。国王は既にお休みになられているだろう、既にその部屋には居ないだろうと分かっていて、その場所まで歩いてしまっていた。

扉に手を掛ける。すると私の右手は、霞のように扉を通り抜けてしまった。その非現実的な光景に、思わず苦笑した。

私にとっては、騎士様こそが、『霞のようなひと』でしたから。

今更になって、その言葉の意味というものに気付いた私がいた。

嘘のように、扉を潜り抜ける。

騎士

…………陛下


奥には、私の信頼する国王の姿があった。すっかりくたびれてしまったのか、机に突っ伏すようにして、ただ寝息を立てていた。

私はその机まで歩き、国王の肩に手を伸ばした。

ずっと、先の戦争について考えてくれていたのだ。当たり前の事だと分かりつつも、その被害は大きかった。前を向かなければならないのに、想いは尾を引き、前に進めない状態になっていたのだろう。

机の端には、以前も見た、戦争での死者の名前が書き連ねられている紙があった。何枚にも重なったそれを、私は一枚ずつ捲り、その内容を確認した。

そこには確かに、私の名前も書かれてあった。

それは、私の覚悟を決める為には、充分過ぎる働きを持っていた。

騎士

……主に誠実に、生きよ。それが主の願いだ


私は、涙を拭いた。そこに途方も無い暗闇がある事を知り。前にはもう、何も残っていない事も理解した上で。




今一度、部屋の扉に向かって走っていく。




扉の前まで来ると、振り返った。眠っている国王に向かい、私は姿勢を正し、精一杯の笑みを国王に向けた。

騎士

我々は、後ろを振り返ってはいけない!! そこにどのような犠牲があろうとも、口を利かぬ者、動かぬ者にいつまでも悲しみを抱いている訳には行かないのだ!!


何故なら我々には、護るべきものがあるからだ。悲しみに暮れる前に、やる事がある。いつも我々は、そのように謳っていた。

今こそ、その覚悟を見せる時ではないのか。

騎士

陛下。私は、前を向きます。今の自分に何が出来るのか、それだけを考えて生きて見せます。……まだ、私にも出来ることがあるはずだと信じています


眠っていた国王が、目を覚ました。扉のそばに居る私に目を向けて、驚愕に目を見開いたような。例えるならば、そのような顔をしていた。

私は、『英雄』だった。ただ、それだけが私の人生であり、私の覚悟だった。

国王は、涙を零していた。……どうしてだろうか。その瞳は、間違いなく私の顔を捉えているように見えた。




――――いや。




気のせいだ。



騎士

お元気で


その言葉を最後に、私は国王の部屋を後にした。












夜明け前の街に活気はない。静寂に満ちた澄んだ空気は、ふとすると心に生まれる闇を拭い去ってくれる。

城を後にした私は、走っていた。太陽が昇る手前なのか、辺りは僅かに明るく。大通りには僅かな人が、私には目もくれずに活動している。

走っていた私は、立ち止まった。どうしてそこに居るのか、その理由が分からずに困惑した。

目覚める前に家へと戻り、成し遂げようと思っていたのに。

女性

探しました

騎士

…………あまり、動かない方が良い


亜麻色の髪を持つ清らかな彼女は、赤銅色の瞳に大粒の涙をいっぱいに溜めて、私の事を見ていた。その様子に私は苦笑して、両手を広げて彼女を迎え入れる姿勢を取った。

騎士

どうして、泣くのですか


溢れる涙を隠そうともしない。珍しくも大胆な彼女に、こんな時でも美しいと思ってしまう自分がいた。

女性

申し訳ありません……

騎士

どうして、謝るのですか

女性

……もう、見えないと思っていました。例え見えたとしても、私にだけは気付いて貰えないとも思っていました


誰も、私達に振り返らない。

通行人は彼女だけを見て、ぎょっとしたような顔を浮かべながらも、気不味そうにその場を離れていく。

思えば門番が怪訝な表情を浮かべたのは私ではなく、私の胸に抱えられた彼女だったのだ。

さぞ、不自然な体勢に見えただろう。想像するだけで笑えてくる。

女性

私は、『あの日』も、この帝国に来ていました。そうして、惨劇は起こった――――逃げ込む家のない私はどうする事も出来ず、その場に蹲って震えていました


もう、思い出す事は出来なかったが。……そうか。私が投げ槍を身体で受けた事には、理由があったのか。




この上なく、誇らしい理由だ。




どうしようもなく嬉しいような感情と、寂しいような感情は私の中で混ざり、ひとつになった。

女性

槍が飛んで来ました。私はもう、駄目かと思いました。そんな時に、助けてくれた人がいました。胸に槍が突き刺さったまま、その人は戦争を終わらせました。……自分の命と引き換えに、私の命を救いました




彼女は、私の事に興味を持っていなかった訳ではなかった。


騎士

道理で




ただ、そんなことだけが、嬉しい。


騎士

初めて会った気がしないはずだ


悲壮な顔色は変わらず、罪の念に苛まれているように見えた。その苦しみから、解放してやりたい。今も彼女の胸に引っ掛かった、私以外の誰にも見えない槍を抜き取ってやりたい。

私はただ、そのように強く願った。

女性

私は魔女です。騎士様の命を、奪ってしまいました。幽霊が出ると聞いて、若しかしてもう一度逢えるかもしれないと思って、私一人に、任せて欲しいと



よく、一人で森を抜けてきたものだ。


騎士

まさか、もう一度逢いに来てくれるとは

女性

英雄様!!


彼女が、私の胸へと飛び込んで来る。私はしっかりと、両腕で彼女を抱き締める。

僅かに昇った太陽が、私と彼女を照らした。同時に、私は自身の存在の頼りなさというものを、初めて強く感じるようになっていた。

光が当たってしまえば明らかに透けていると分かる身体は、彼女の身体を支えるには少し、頼りない。



だが、心地良い。



私は初めて、心から好きになったひとを、正面から抱き締めているのだと。


女性

私の、英雄様。……どうか、私を一緒に、連れて行ってください。この身など、惜しくはありません。そうすれば、英雄様のお望みの通り、ずっと、一緒に


私は彼女の言葉を最後まで聞かなかった。彼女の頬に、両手で包み込むように触れる。それはこの上なく柔らかく、そして愛おしい温もりだった。

――――ああ。私は今、満たされている。愛する人に愛される以上の歓びなど、この世の何処にも有りはしない。

騎士

辛い別れは、苦手です。……ですからお気持ちだけ、頂いておきます

女性

違います!! 別れる事はありません、私達は

騎士

いえ。『貴女』と、『現世』との別れを見る事が、今の私には堪らなく辛い。……辛い、別れです


目尻の涙を、親指で拭った。泣き顔も美しい彼女。……私はこのひとに一目惚れをしたからこそ、あの戦争を終わらせる事が出来たのではないか。

名誉の戦死だ。

これ以上、何処にもないほどに。

騎士

どれだけ辛い事があっても、身を捨てようとは思わないでください。……貴女は女性だ。子供をつくり、育て、未来への希望を紡いでいくのが使命です


拭っても拭っても、後から涙は溢れて来る。その口元に、口付けた。

騎士

少し先で、待っています。貴女が幸福に人生を終えた時に、もう一度、その手を握りに訪れます


これだけは、貰って行こう。私はそのように想い、泣きじゃくる彼女の左肩から、『傷』を。受け取っていく。

右手を被せると、嘘のように傷は治った。

騎士

その時までどうか、お幸せに


一際強く、彼女の瞳が揺れた。濡れた頬は決して渇く事はなく、滴り落ちる涙は絶えず彼女の地面を濡らし続けていたが。

その表情が緩み、やがて少し無理のある笑顔へと、変わっていく。

女性

助けて頂いたのが騎士様で、本当に……良かった


完全に太陽が顔を出した時、私の姿は見えなくなっていた。同時に全身を満たす幸福と、眩いまでの光に目を奪われ、彼女の姿が視界から消えた。

それが私が帝国で見た、最後の出来事だった。

どうにも最近、この帝国には霊が出没すると噂されているらしい。

深夜になると、城門と城とを結ぶ大通りから木組みの家が建ち並ぶ細道までを、女性物の靴が踵を鳴らす音が聞こえて来ると言うのだ。

民家の明かりも消える時間帯、靴音に眠りから覚めた御老人が蝋燭を持って外を確認すると、何時もそこには大鍋を抱えた女性が、夜警の騎士の為にスープを配っているのだという。






あとでそのような笑い話が帝国で騒がれたのだと私が知ったのは、それから数十年後、私が彼女と再会した時の出来事である。

Ⅶ  英雄と呼ばれた理由

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