今も憶えている。





幼い頃に遊びに行った山の中。

空を覆うような背の高い木々が立ち並び
葉の隙間からは陽光が漏れて射し込んでくる山道。

短い生命を謳歌する蝉が高らかに歌い
肌を撫でる風が熱を帯びた身体を撫でていく。



はぁ、はぁ……っ!



酷く息苦しかった。
幼い僕はがむしゃらに駆けていたから。

――後ろを振り向けば――

――――――



――少女、なのだろう。

人の輪郭がゆらゆらと揺れた何かが
ゆっくりと、確実に僕を追いかけて歩いていた。

語りかけるような言葉はなく
何か――まるで呻くような小さな声で
こちらに向かって手を伸ばす。

その手に捕まってはいけない。
誰が教えてくれたわけではないけれど
僕はそれを、心のどこかで理解していた。


物心ついた頃からか、僕には〈彼ら〉が視えた。
人の住まう世界にいる、人ならざる者。

妖怪、幽霊、エトセトラ。

〈彼ら〉はまるで佇む木々のように
あるいは散歩をする人のように
当たり前に存在している。

僕は〈彼ら〉を知っている。
視える僕には、〈彼ら〉の存在は珍しくもなかった。

だけど――〈彼ら〉は違う。

〈彼ら〉は僕のような存在を見ると
追いかけ、取り憑こうとする。


ある日、親切な〈彼ら〉の一人が教えてくれた。


私達にとって、アナタはとても眩しい。
その眩しさに、私達は――とても惹かれる。

だから、逃げなさい。
私達はきっと、アナタをいつか――






――食べたくなってしまうから。





あの日以来、僕は〈彼ら〉を徹底的に避けてきた。

〈彼ら〉が視えていること
僕が彼らに気付いていることに気付かれなければ
僕もまた〈彼ら〉に特別視されない。

〈彼ら〉に対する僕の態度はきっと
ひどく失礼なのかもしれない。



それでも、僕は逃げる道を選択した。


……よかった、あきらめてくれた……


どれだけ逃げたのかは分からなかった。
女の子の幽霊から、どうにか逃げ切れたみたいだ。


気がつけば空はすっかり茜色に染まっていて
見憶えのない場所へと踏み入れていた。

夕陽に煌めいた水面が穏やかに流れる沢。
その上を渡るように誂えられたような木の橋。


「向こうに行けば、安全だよ」


誰かが教えてくれた。
実際に声をかけられた訳じゃなかったけれど
誰かが僕に語りかけていたんだ。




――――だから、僕は――――





土地神 ―零―

…………




制服姿のまま、どうやら眠っていたらしい。

懐かしく、それでいて何度も見たことのある夢。
ようやく目が覚めたところで


目の前の光景に、思わず心の中で呟いた。


――あぁ、またか、と。


じーーー……

……巫女?




――目が覚めたら、そこには変な巫女がいました。




何を言っているのか、俺にもよく分からない。






わざわざ言うまでもないとは思うけども
巫女がいるのが日常というわけじゃない。

当然ながら、神社生まれの神社育ちでもないし
恋人にコスプレさせるようなエキセントリックな日常を享受したこともない。

高校1年生
恋人いない歴と年齢が一緒なんて、珍しくないはず。



ましてや俺の家族にコスプレを趣味にした人も――


――……いや、やりかねない奴ならいるけども。


とにかく、そんな趣味をしている人はいない。


妹が予備軍に足を突っ込んでいるという点を除けば
という注釈は、この際おいておこう。

ようやく起きたのか。
いつまでも待ち惚けさせるつもりかと思っておったぞ。
あまり待たせるでないぞ、まったく

……いや、そんな約束した相手が遅れて来たかのように言われても



やたらと古臭い口調。
まるで老人が若者に向かって語りかけるような
そんな言葉遣いの巫女さん(仮)の言葉。



――当然ながら、反応を返すつもりはない。



纏っている空気が、明らかに人のそれとは違う。



要するに、彼女もまた〈彼ら〉と同じ存在。
つまりは、妖怪、幽霊、エトセトラ。



不法侵入者ではないけども
普通、寝起きの部屋に誰かがいるなんて
大声をあげてもしょうがないと思う。

気付いているのだと公言するようなものだから
あえてそれはしないけども。

こういう時は、無視するのが一番だ。

ふわぁ……、よく寝たなぁ

まったくじゃ。
なかなか起きぬから退屈であったぞ

知ったことじゃないんだけどな……

さて、宿題でもしようかな

……これ、蓮よ。
何故無視するのじゃ

――ッ!?


――思わず、声をあげそうになった。

目の前の巫女さんが、名前を呼んできたからだ。

〈彼ら〉に名前を呼ばれるようなことなんて
今までに経験したこともなかった。

慌てて取り繕うように
ベッドから立ち上がって自分の机に向かい
顔を隠した。

……ほう、ほうほう。
どうやらお主、しらを切るつもりじゃな?

な、何でバレてんだ……?

間違いなく私の顔を見たであろう?
その変化に気が付かぬわけがなかろう。

――なにせ、今日までずっと気付くことすらなかったのじゃ。

その変化を見破るぐらい、造作もないぞ?



聞き捨てならない言葉が出てきた。

まるで今日ここにやってきたわけではない、と
そう言いたげな言葉が。

――でも、それはおかしい。

〈彼ら〉に自らの姿を意図的に消すなんて
そんな真似ができるはずがない。

そもそも〈彼ら〉の中でも
自我を持った存在はそう多くはないのだ。

徘徊するように歩む者。
佇んだまま動かぬ者。

彼らは明確な自我を持っているような存在ではない。



だからこそ、この巫女さん(仮)はおかしい。



名前を知り
あまつさえずっとここにいたかのように告げる。
その事実に、思わず悪寒が走る。




――見張られていたのか、と。

……ふむ、強情なヤツじゃのう。
まだシラを切るつもりか?

お、落ち着こう……。
ここで慌てて動こうものなら、逃げ道はなくなる。
ここはいつも通り、気付かないフリを続けておけば……

――昨日は、ネットじゃったな?



――ニヤリ、と笑って巫女は言う。

便利な社会になったものよ。
数百年前はオナゴの裸体を見る男児には春画がせいぜいだったというものを……

――ッ!
おいやめろ……!

知らぬ存ぜぬと突き通すならば、覚悟することじゃのう、蓮よ。
この数日のお主の痴態を、このまま全て口にしても――

――気付いてました、ごめんなさい!


ニヤニヤと笑う巫女さん(仮)と
立ち上がって頭を下げる高校1年男子の図。
ここに完成、である。

彼女が何を言わんとしていたのか。
それはもはや、全てを語られずとも理解できる。
一言、言わせて欲しい。


健全な男児のプライベートを暴露するんじゃねぇよ、と。


おや、どうした?
もう諦めてしまったのかの?

健全な男子高校生の心を弄びやがって……。
――で、幽霊が俺に何の用だよ

幽霊?

――ふふっ、そうかそうか。
お主も私のような存在を見たことはないか。
なるほど、道理で。
私を幽霊と称するわけだ


ふふふ、と楽しげに笑う姿に
俺は正直、毒気を抜かれた気分だった。

そもそも
〈彼ら〉に表情なんてないのだ。

楽しげに笑うこともなければ
恨みに顔を歪ませる姿すら見たことはない。

――空虚。
それが、俺の知る〈彼ら〉の姿。

……あんた、幽霊じゃないのか?

痴れ者め。
私は〈妖〉どもと同じにするでない

……あや、し?

〈妖〉――あやし、じゃ。
お主の言う、幽霊や妖怪といった類をそう呼ぶのじゃ


聞いたこともない言葉――〈妖〉。

この巫女さん(仮)いわく
それは確かに
俺が知る連中のことを指しているらしい。

――未練や憎悪、恨みに嫉み。
悪意に満ちた想いや願い、固執や執着が、『想い』を形にして現世へと残り、留まる。
お主の言う幽霊や悪霊といった類は、それの最たる例じゃの。

――じゃが、それらでさえ、永い時の中で忘れられていってしまう。

そうして、自分が一体何を願ったのかも忘れて彷徨う者たちが、〈妖〉と呼ばれる存在じゃ

……可哀想、なんだな

たわけが、同情など不要じゃ。
奴らはそうなってしまっては、手が付けられんのだぞ。
生者を憎み、己の道に引きずり込もうとする者も少なくない。

ましてや――


――殊更、お主のような者を、のう。
付け加えられた言葉に思わず息を呑んだ。

私達にとって、アナタはとても眩しい。
その眩しさに、私達は――とても惹かれる。

だから、逃げなさい。
私達はきっと、アナタをいつか

食べたくなってしまうから

どうやら、思い当たる節はあるようじゃな

……それは……


フラッシュバックした、あの時の言葉。

俺には、目の前の巫女さん(仮)の言葉を
否定することなど
できるはずがなかった。


あの時から、俺は〈彼ら〉を――〈妖〉を避けてきた。
その選択が間違っていたとは思わない。

――けれど。
それでも、可哀想な存在なのではないかと
心のどこかで思ってしまう。

――まぁ、それが悪いとは言わぬ。
いや、いっそ、そうした感情を持てるからこそ、お主である必要がある、というところかの

え……?

蓮よ。
お主のその心と、〈妖〉を視る力。
その両方があるからこそ、お主には役目を果たしてもらう必要があるのじゃ

……俺に果たして欲しい、役目?

――なに、案ずる必要はない。

ただ、ちょっとばかり――私の代わりを果たしてもらう存在が必要なのじゃ




――この時の出会いを、俺は決して忘れないだろう。



突然部屋にやってきた、一人の巫女さん(仮)。
そんな彼女との出会いを。




そして、これをきっかけに訪れる
多くの出会いと――――別れを。





か、代わり?
何をしろってんだよ?

というか、そもそもあんた、一体何者なんだよ

おぉ、そうであった。
そういえば自己紹介がまだであったな。

とは言え、私に名はない。

役職というか、まぁこれはお主にやってもらう仕事にもなるのだが――――

――まぁ、一言で言うのならば、土地神じゃ

…………はぁ?

お主にはこれから、一柱の神候補として、私と共に仕事をしながら過ごしてもらう。
まぁ言うなれば、見習い土地神になってもらう、というわけじゃな

…………

はああぁぁぁ!!?






季節は、春の終わり。
もうすぐ夏がやってくるだろう、暖かな日だった。


突然姿を現した、一人の巫女さん(仮)は
自らを土地神と名乗り
その見習いとして俺――神代 蓮――を名指しするのであった。



to be continued...

Prologue 土地神 ―零―

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