すっかり日が暮れて、冷たく澄んだ空気は肌に染み込むようだ。

どうにも最近、この帝国には霊が出没すると噂されているらしい。

深夜になると、城門と城とを結ぶ大通りから木組みの家が建ち並ぶ細道までを、硬い牛革のブーツが踵を鳴らす音が聞こえて来ると言うのだ。民家の明かりも消える時間帯、靴音に眠りから覚めた御老人が蝋燭を持って外を確認するが、何時もそこには誰も居ないのだという。

また別の何者かは、男か女かも分からない者が、闇夜にぼんやりと見えた等と話した。我々夜の見回りは例外なく松明を持って見回りをするから、火が消えて慌てる事があっても、浮かび上がるようにぼんやりと見える事はない。そこが不自然だと言うのだ。

何とも抽象的で根も葉もない噂ではあったが、どうにも周囲で話が尽きないということで、私も些か不安になり始めていた。

これが霊ならば良いのだが、例えば帝国侵略を狙う他国の者が門番の目を盗んで侵入しているとしたら。そう考えると、自分の身にも何か危険が及ぶかもしれない。知らず、身体は緊張してしまう。











それは、夜警の話だ。

夜になると、三者交代で帝国の騎士が夜間の見回りを担当し、城門付近から城下町、城に至るまでをぐるりと一周する。女子供を護る為の警備が只の傭兵では不安が残るとのことで、他国に先駆けて、夜警は騎士の仕事となった。まあ、ここまではいい。

しかし騎士の数にも限りがある為、夜警は必ず一名で担当しなければならない。こうなったことで、騎士の負担が増えた。









帝国は高い城壁で囲まれており、門番は昼夜問わずに相応の数を配置している。基本的には安全だからと言えば確かにそうなのだが、幾らなんでも一人では効率が悪いだろう。

私はそう思い、ある日に自ら王室まで出向き、国王に提案してみたのだが……これが、まるで何事も無かったかのように無視されてしまった。

強い国とは云え、攻められれば矢面に立って民衆を護るのは我々騎士なのだから、出来るだけ隙を突かれるような事態には陥って欲しく無いものだ。騎士は戦争に行き、騎士は国を護る。対価として民衆の資産を頂戴しているのだから、我々には相応の義務も、誇りもある。

……所詮は防衛の立場、と軽く見られてしまったのだろうか。いや、あの無言は何を泣き言を吐くような真似をと言外に含めた、私の精神の弱さに対する反応だったのかもしれない。

私は先陣を切って、西から東から発生する戦争へと真っ先に駆けて往く役割を与えられなかった。帝国の空気を良くするために今の私が出来ることは、やはり誠実に勤務へと当たるしかない、という事なのだろうか。

最近の国王は、どうにも何を考えているのか、よく分からない。

そのように考えながらも、所々に生えた若芝を眺め、私は夜道を歩いていた。






私が言うのも何だが、この帝国は美しい。

中央に立派な石造りの城を構え、並外れて精巧なグラニットストーンが、帝国の敷地全域に至るまで綺麗に敷き詰められている。薄黄緑色にも見える月明かりが街を照らすと、民家に使われている、赤、茶、灰色など様々な煉瓦の外壁が月光に反射し、優雅で美しい空間を生み出すのだ。

本当に、豊かな国だ。こうして夜道を歩いているだけでも、充分に心が満たされる。

城門から城までを一直線に結ぶ暗い大通りを歩いていると、確かに隣国が羨むこの景観を見れば、先の奇襲のように、常識の範疇を超えて愚かな攻撃を起こし、領土を奪いたくなる事もあるのかもしれない。






――――おや?






何処からか、何かが地面に倒れるような音が聞こえた。このような夜更けに、行商人でも到着したのだろうか。音は確かに、門の方から聞こえて来たが。不思議に思い、私は城門の方を目指して歩いた。

奇妙だと感じたのは私だけでは無かったようで、明かりの灯っていない民家から扉を開いた若い男が、入口の方を見詰めていた。しかし確認する迄には至らないと思ったのか、怪訝な顔をしてこちらを一瞥し、扉を閉めた。

???

誰か、まだ起きているのか!?

城の方から、声が聞こえた。振り返れば、松明を持った私と同じ格好の騎士が、左手を口元に当てて大きな声を出していた。

人が眠っている時間だ。なんとも粗雑な騎士の態度に多少の怒りを感じながらも、私はここ一度だけ、声を張り上げて騎士に返答する。

騎士

大丈夫だ、私が見て来る!! この時間に声を荒らげないで欲しい!!


私がそう言うと、松明を持った騎士は首を傾げて、城へと戻って行った。……配慮の足りない男だ。

やはり、遠くで梟の鳴く暗い夜に、自ら赴いて確認する者など居ないのだろう。これは、夜警である私にこそ与えられた使命なのかもしれない。

鎧を着ていると、身体が軋む。痛みに苦い顔をしながらも、私は駆け足で入口の門へと向かった。











入口まで近付くと、見慣れた城門が見えた。私が駆け寄ると、門番は城門は開く。跳ね橋の向こう側に倒れている人影を見付けた。

その惨事に、私は思わず苦い顔をしてしまった。恐らく、森の方から歩いて来たのだろう。狼か何かにでも噛まれたのか、その左肩は真紅の血に染まり、月明かりに反射して薄っすらと光っている。


女性だった。


亜麻色の長い髪は夜空に浮かぶ三日月に引けを取らない程に美しく、少し大きめだが雪のように真っ白なチュニックも、彼女の美しさに拍車を掛けていた。年齢は二十代といった所だろうか。複雑な装飾が服には施され、袖口は長く豊かだ。小さな鞄を手に持っていた。

何処から来たのだろうか……女性が一人で森を抜けて来るなど、あまり聞く話ではない。透き通るような赤銅色の瞳は、肩の痛みを訴えていた。

騎士

大丈夫ですか!?

私は直ぐに女性へと駆け寄った。数歩歩いて、再び崩れ落ちるように脱力する女性を抱きかかえ、支える。女性は不意に私の方を見て、何かに気付いた様子で目を見開いた。

女性

騎士様…………?

まるで、その瞳に吸い込まれるようだ。長い睫毛は細やかで、まるで彼女の心の繊細さを表しているかのようだった。

思わず、見惚れてしまった。彼女もまた、私の事をまじまじと見詰めている。

若しかすると、同じ事を考えてしまったのだろうか。……いや、この美しい女性が私に見惚れてしまった等と、考えるのもおこがましい。

一瞬身体が硬直してしまった事を周囲に悟られまいと唇を引き結んだが、ここには彼女と門番しかいない。私は咳払いを一つして、邪念を払った。

騎士

彼女は大丈夫だ。私は応急処置を学んでいる、一度休ませてから医者に見せる

そう言ったが、まだ門番は私を見て、怪訝な表情を浮かべていた。私と彼女が門番を見詰めると、彼は納得の行かない様子ではあったが、頷いて扉を閉めた。

???

……おい。今、何か来たか?

???

知らねえよ。風の音じゃねえのか

???

あの人には、何か見えたのかな……

扉を閉める瞬間の、門番の台詞だった。

あまりに不自然な門番の言葉に、私は怪訝な顔になってしまった。……何を言っているのだろうか。まるで、私の頭がおかしいようではないか。

声は小さく、闇夜に鳴く梟と虫の音に紛れて霞んでいたが、私には確かにそのように聞こえた。思わず眉は吊り上がり、私は門番の不思議な態度に疑問を浮かべた。

女性

騎士様。……騎士様には、私のことが見えていらっしゃるのですか?

すると、今度は女性の方がおかしな事を言い始めた。訳も分からず狼狽する私だったが。女性は辛そうではあったが、私を見ると、ふと月の女神のような微笑みを見せた。

その表情に、今一度見惚れてしまった。

女性

お会い出来て嬉しいです。……少し、森で狼に襲われてしまい

女性が一人で、このような暗い森の中を歩いていたと言うのか。一瞬そう思ったが、不思議な疑問点はやがて線を結び、私にひとつの推測をさせた。


……いや、そうではないのだろう。


夜になると、城門と城とを結ぶ大通りから木組みの家が建ち並ぶ細道までを、足音が聞こえて来ると云う。

先程の門番は、私が駆け寄る足音に気付いて扉を開けたのだろうか。城から出て行くようにも見えた私が突拍子も無い事を言って立ち止まるから、こいつは頭がおかしくなったのかと思われたのかもしれない。

不自然なことだ。仮に夜道を歩いて帝国に訪れなければならない理由があったとして、一人ということはないだろう。

ならば本当に、この女性こそが足音の正体なのだろうか。

私はいつの間に、霊が見える程に霊感が強くなってしまったのだろうか。これ以上、霞に語り掛けるような事をするべきではないのか。

私の腕の中で、女性が痛みに悶えた。

騎士

だ、大丈夫ですか!? 直ぐに、応急処置を……

女性

……すいません。お願い、できますか

考えている時間はない。

脳裏で警鐘は強い音を立てて鳴り響いていた。……幽霊に私の応急処置が通じるのかどうかなど、皆目見当がつかないが。この場で苦しんでいる女性を、霊だからと見捨てる訳には行かなかった。

女性の肩と脚を抱え、私は帝国の城下町をひた走った。

Ⅰ  風に運ばれて訪れる

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