第1話
第1話
違和感、という言葉がある。何だか変だ。おかしい。こうじゃない気がする。辞典でも読めばもっと正確な定義も分かるんだろうが、とにかく、それはそんな意味の筈だ。
おい井出。信号、もう青だぞ
隣の先輩が怪訝そうに肩を叩き、横断歩道への一歩を促してきたちょうどその時、俺はとてつもなく強大な違和感に支配されていた。あまりに強大すぎて、世間一般で言うところの茫然自失状態にすらなっていた。
まぁとにかく、俺はその場から一歩も動けなかったわけだ。
何せ、横断歩道の向こう。ビジネスマン、キャリアウーマンの群れの中に、スーツを着込んだ二足歩行の犬が居たのだから。
実に奇奇怪怪な光景だった。
黒く、縦縞の入ったスーツに、ピカピカに光る黒い革靴。胸元には紅い、けれど決して派手ではない色合いのネクタイをぴしっとキメており、右腕には有名メーカー製の銀色の時計を着けている。身の周りのモノすべてが上等品だ。ひょっとすると、社会人二年目の俺よりも良いモノを揃えているのではないだろうか。
だが、どう見ても顔は犬だ。
身長約百八十センチ、背筋はピンと伸びていて衣服に乱れもなく、小綺麗なビジネスバックを片手に、コツコツと小気味良い音を横断歩道と奏でてこちらに向かってくる紳士。しかしその頭部は小麦色の体毛に覆われ、三角のピンと立った立ち耳が天を突き、真っ黒な目と前方に突き出た鼻づらは、「私が犬でなかったら一体何だと言うのか」と言わんばかりである。
恐らく秋田犬だろう、と俺は見た。
犬紳士は実に悠々と横断歩道を渡り切り、やがて自身を凝視している俺を怪訝に見やってから、何も言わずビル街へと消えていった。
俺はそれを眺めながら、先輩、と隣に声を掛けた。
バカ、お前がグズグズしてたせいで信号変わっちまったじゃねぇか! 遅れたらどうしてくれる!
秋田……やっぱり秋田県あたりが出身地なんですかねぇ
何言ってんだお前、とばかりに先輩が俺を睨んでくる。どうやら先輩は、この後の取引先への訪問で頭がいっぱいだったらしい。だからきっと、犬紳士を見逃したのだ。そうに違いない。でなければおかしい。
……果たして、本当にそうなんだろうか。俺は不安になった。何故なら――思い返してみると――あの瞬間、横断歩道で犬紳士に狼狽していた者は、俺以外に居なかったような気がするのだ。
いや……だからね、先輩。さっき、見てなかったですか?
何を?
犬が歩いてるのを
それが?
『それが』!?
思わず大声を出した僕を、周囲のビジネスマンたちがじろじろ見てくる。知ったことか。
いいですか先輩、シンプルに考えましょう。犬が、スーツ着て、向こうに歩いて行ったんです
だからそれがどうしたんだよ
イライラしてきたのか、先輩の表情が般若の面のような相貌を呈し始める。正気かよ、と俺は思った。先輩は仕事熱心な人だ。あんまり熱心でない俺ですら、純粋に凄い人だと思っている。だが、きっとその真面目さや情熱が――それによってもたらされる過度の疲労やストレスが、かくも先輩を変えてしまったのだ。そうに違いない。
俺は先輩の肩を掴んで、いいですか、と真正面から言った。何だよ、と先輩は応えた。
犬がスーツ着てるんですよ?
だからそれがどうしたんだよ
どう考えてもおかしな光景でしょうが!
強く言い放ったのと、信号が再び青に変わったのは、ほぼ同時だった。周囲のビジネスマン達が不思議そうにこちらを眺めてから、歩道を進んでいく。先輩はと言うと、しばらく呆気に取られたかのように俺を見つめていたが、やがて俺の手を強引に引き剥がし、無言で俺の頭を一発叩いた。
行くぞ
そう言うと、先輩は有無を言わさぬ調子で、スタスタと横断歩道を進んでいった。
……何で叩かれたんだ
釈然としない中、俺は無言の先輩の後に続いた。
取引先に着いて、受付で用件を伝え、応接室に通される。新人の頃はこれだけでも随分緊張したものだが、流石にほぼ毎日こなしていると、何とも思わなくなってくる。仕事とはそういうものだ。
この日、わざわざ先輩が俺についてきてくれたのは、俺の素行不良による取引先からの苦情対応でも、俺一人では対応できない重要な話があったワケでも無い。例え話が妙に具体的な理由は察してもらうとして、要は先輩共々、最近訪問していない相手の重役に顔を見せに来た、ただそれだけだ。但し、例の犬紳士の件もあり、応接室に着いてからの俺と先輩は、お互いに沈黙を保っていた。
革張りの、実にフカフカなソファに座り、重役様が現れるのを待ちながらも、俺の頭の中では、未だあの上等品に身を包んだ犬の姿が浮かんでは消え、浮かんでは消えている。一方で、もしかしたら俺の見間違え、もしくは幻覚だったのかも知れない、という意識も芽生え始めていた。
犬紳士は白昼夢であり、俺の「犬がスーツ着てる」という言葉が、先輩には「犬がすーっと(歩いて)来てる」と聞こえていたのかも知れない。少し強引な気はするが、そうかも知れない。っていうか、段々そんな気がしてきた。きっとそうなんだ。そうに違いない。
そう言えば最近、よく頭痛や目眩、耳鳴りがする。それらは酷い時もあれば微かな時もあり、かつ大体は数分もすれば治まるものだったから、てっきり前日の酒が残ってるせいかと思っていたが、よくよく考えれば、二日酔いだと症状はもっと持続する筈だ。即ち、実は仕事による疲労やストレスが溜まっているのは、先輩ではなく俺だったのではないかという疑惑が出てくる。
何てことだ。確かに最近、先輩に感化されて『外回り中に家に帰って一眠り』をしなくなっていたが、自分にとってアレは必要な休息だったに違いない。
先輩
何だ
さっきはすいませんでした。俺、ちょっとどうかしてたみたいです
隣に頭を下げると、先輩はおう、と一言返した。ぶっきらぼうだが、声色は少し穏やかだ。許してくれたらしい。
俺は一人、心の中で誓った。もっと自分を甘やかそう。犬がスーツを着てる幻覚なんて見ないように。そう、よくよく考えれば自明じゃないか。
犬がスーツを着て、街中を人間よろしく二足歩行なんて、しているワケが無い。
お待たせしました
思考を巡らしていると声がして、俺と先輩は反射的に立ち上がった。取引先の重役様がお出でになられたのだ。頭を切り替えねば。
そう考えた刹那、俺の思考は停止した。何故か? 何となく予想はつくだろう? そう、答えは一つ。
お世話になっております、なんて言いながら応接室に現れたのは、ブクブクとよく肥え、パツパツのスーツに身を包んだ、二足歩行のブルドッグそのものだったからだ。
呆然としている俺をそっちのけに、先輩とブルドッグはにこやかに言葉を交わしている。俺達が会いに来た重役は風邪でお休みらしい。成る程、お気の毒に。今日は代理でブルドッグさんが応対して下さる。成る程、ありがとうございます。まず名刺交換を。そうですね、こちらこそ。
いやいや。
どう突っ込めばいいのか分からず棒立ちしていると、先輩が俺の名を呼んだ。狐につままれたような(もし本当に狐のせいなら、俺は断固としてあまねく世の狐を許さない)感覚の中、染み付いた習慣通りに、俺はブルドッグさんと名刺を交換した。
名刺には社名と役職に続き、ただ一言、『ジョイ』と書かれていた。
ジョイさん。何て簡潔な名だろう。せめてファミリーネームがあれば、『愛犬』のイメージは払拭出来ただろうに。
先輩はジョイさんと軽やかに言葉を交わしていく。天気の話に始まり、前回訪問時に相談された問題のその後の状況、新たな相談事の有無。混乱、混迷の最中にある俺は、そうして交わされる話題を、しばらく呆と聞いているしか無かった。だが、その内に、何だかイライラしてきた。
シンプルに考えよう。人間と同じように歩き、考え、話し、働く犬なんぞは存在しない。ではこの状況は何か。
間違いない。ドッキリである。
そう、目の前のジョイさんも、街で見掛けた犬紳士も、現代科学の粋を集めて造られた特殊メイクなのだ。何度でも言おう。間違いない。絶対にだ。
きっと今この瞬間も、俺は隠し撮りされているのだ。応接室のどこかにカメラが設置されていて、その映像はどこかの控え室に繋がっており、タレントや俺の上司なんぞが俺の狼狽っぷりを見てゲラゲラと笑っているのだ。さしずめ『仕事をサボりがちな社員にドッキリでお仕置き!』とかそんな企画だろう。許せん。常識を疑わざるを得ない。
確かに、かつては素行不良だっただろう。前述の一眠りなんかも頻繁にしていた。だが、最近は精々、訪問予定を長めに報告し、浮いた時間で喫茶店に入るくらいのことしかしていない。この仕打ちはあんまりだ。度が過ぎている。
怒りによる精神の一時的安寧を手に入れた俺は、そこから話題に応じてウンウンと頷いたり、時折笑ったりしながら、少しずつ応接室の中を見回した。部屋の中央にはテーブルを挟んで二人掛けのソファが二つ、俺のはす向かいに座るジョイさんの後方に観葉植物が一つ。それ以外は真っ白な壁とドアだけという、実に殺風景な空間だ。
カメラが仕掛けられているとすれば、あのアレカヤシらしき観葉植物の葉の間だろう。目の前のテーブルに置かれたお茶受け皿の可能性も考えたが、何気ない仕草で持ち上げてみても、それらしきモノは見つからなかった。
となると、やはり観葉植物の間だ。いま、葉と葉の間で何かが光った気がする。間違いない。許さでおくべきか。
そうだ。来月、弊社でこのようなイベントを開催する予定でして……
思考を巡らせる俺の隣で、先輩はそろそろ話を締めにかかっていた。用意していた専用のチラシをジョイさんに差し出している。経過時間的にも、この勧誘が終われば、この訪問は完了だろう。
そうはさせるか。笑われたまま終わるなど男がすたる。
全プログラム終了後には、立食形式のパーティーも予定しております。ご参加いただいた企業の皆様ともお話頂ける場になっておりますので、宜しければ何卒、ご参加の程を
ちなみに、パーティーではネギを使った料理を出す予定はありませんので、ジョイさんも安心してお楽しみ頂けますよ
俺は正義の怒りを分厚い営業スマイルの奥に押し込め、お犬様向けの営業トークを吐き出した。どうだ、話に乗ってやったぞ。控え室では今頃「あ、ドッキリに気付きましたね」みたいなやり取りが繰り広げられたことだろう。見たかテレビマン共、見たかクソ上司。
おお、これはこれは……
俺のユーモア溢れる切り返しに対して、ジョイさんは少し驚いた様子を見せた。どうだ、見たか。犬がNGな食べ物くらいは知ってるぞ。これでも昔、犬を飼うのに憧れて図鑑を眺めたこともあるんだ。
よくご存知でいらっしゃる。我々の種族はネギを受け付けないと
種族? 成る程、そういう設定できたか。
いやいや、営業マンなら常識の範疇ですよ。バレンタインデーなんかもお辛いでしょう?
いやぁ、チョコレートがダメなことは皆さんご存知なんですよ。なので弊社だと、ヒトにはチョコレート、私共にはジャーキー、と別々にプレゼントを用意してくれる訳です
だが、打ち上げ後にラーメンになんぞ誘われることが多くてね
大変ですねえ
ジョイさんは実ににこやかだった。こちらの気遣い(そんなつもりは毛頭ない)が嬉しかったご様子である。それに調子が狂って、逆に俺が言葉に詰まったくらいだ。「ネギとメンマを抜いて貰えば大丈夫では?」とか言えば良かった。畜生め。
それでは、お時間もそろそろですので、本日はこの辺りで
先輩が満面の笑みで立ち上がった。どうやら、俺の反撃は失敗に終わったらしい。釈迦の掌を得意気に飛び回った猿のような気分になり、俺は屈辱を噛み締めた。敗北感に頭痛すらしてくる。先輩に続いて立ち上がろうとしたが、目眩で足元がふらついた位だ。
と、その時。
ソファに手を付いた俺を、強い耳鳴りが襲った。
それは深夜のテレビで流れる砂嵐のようであり、飛行機に乗っている時の果てしない機械音のようでもあった。またはキーンという甲高い音のようでも、ドアとドアの隙間を吹き抜けていく強風のようでもあった。鼓膜の中でトグロを巻くその耳鳴りは、まるで蛇のように頭を締め付けてきて、俺は思わず、手を付いたソファに頭を預けた。
――おい、大丈夫か?
先輩の声がして、無意識に閉じていた目を開く。同時に、あの奇妙な耳鳴りは、綺麗さっぱり消え失せた。ふう、と小さく息を吐いて、俺は顔を上げる。
すいません。大丈夫です、ちょっと頭痛がし
放っていた言葉は、しかしそこでぶつりと途切れた。目の前の光景に、頭の中の洗いざらいが弾けて消えていた。
救急車を呼びましょうか?
心配そうに眉間に皺を寄せているジョイさん。その隣、確かに先程まで先輩が居た場所。そこに。
人間大の、二本足で立つ猫が居た。
そいつは俗に言う三毛猫という種類の猫で、黒いオーソドックスなスーツに、白いカッターシャツと紺のネクタイと、まるで先輩のような出で立ちをしていた。背格好もそっくりだ。我が社の社章も襟元についている。おまけに、かつて売上一位を達成した際、俺達が先輩に贈ったネクタイピンと、全く同じものすら身に付けている。
その猫は目を細め、緊張した声色で言った。
おい、井出。お前、マジでどうしたんだ
嗚呼、丸っきり先輩の声だ。俺はニッコリ笑った。
どうも大丈夫じゃないみたいです
病院に行こう。俺は固く心に誓った。