千代はそう言うと、「じゃ、
あたし仕事があるから」と
鼻歌まじりで去っていった
ーー千代!!
ビクッ
そんな物言いをしては
いけない! 彩葉さん
に失礼だろう!?
……稀馬、様……?
ちがうちがうちがう
稀馬様は……アイツに
たぶらかされている
んだ……!
生憎と……おまえが期待する
ような色仕掛けなど、彼に
仕掛けちゃいないわ
彩葉さん……聞いて
いたんですか……
明らかに様子のおかしい
この娘が、そこの角から
ずっと見張っていること
に気付いていたもので
そんなの、あたりまえ
じゃないですか〜!!
あたしの稀馬様をアンタの
毒牙にかけてたまるかって
ち、千代!?
様子がおかしいぞ?
いいえ……稀馬さん、この娘は
別におかしくなっちゃいない
なぜならーーこれが千代
という娘の本性だから
!?!?
くすっ。やっぱ
見抜かれてた?
あははっ!!
元ホステスの後家さんは
人間観察に優れてるなぁ
…………
稀馬様のほうはーーもうてんで
ダメダメ。人間が正直過ぎるし
表の部分しか見てないじゃん
出会った時に千代がどんだけ
クズか、しっかり裏を取って
おくべきだったね!
千代……やめるんだ
俺は確かに鈍い頓馬かも
しれないが、奥底にある
人間性くらいは読める
千代はイイコだ。その
評価はけして覆らない
…………。
ほんとに?
稀馬様、それほんとの
ほんとに? 千代バカ
だから信じちゃうよ?
千代はそう言うと、「じゃ、
あたし仕事があるから」と
鼻歌まじりで去っていった
……千代はいったい……
どうしてしまったんだ
稀馬様、先ほどの私との
約束をやはり撤回しては
くれませんか?
困惑する稀馬に比べ、彩葉の
ほうは至って冷静であった
稀馬の部屋で行われたふたり
の話し合いというのは非常に
思いやりあふれた温かなもの
でーー
鬼蔵が家業関係で遠征してきた
東京で出会い遠距離恋愛を含む
確かな愛情で後妻にと望まれて
はるばる来たにもかかわらず、
前身が水商売だったゆえに外部
からあれこれと攻撃される彩葉
多忙な父の代わりに彼女を支え
鬼蔵亡き後も協力し合ってきた
ふたりの絆は家族であり戦友の
ようでもあった
なので、身体弱く、家業を継げない
ことにコンプレックスを抱く稀馬に
代わり、それを見越した鬼蔵の遺言
に従って彩葉が家長の座という重責
を継いだのも、培ってきた信頼と絆
のたまものと言えよう
そのこと自体は双方納得尽く
だから何ら問題はないのだ
ある一点をのぞいてはーー
ーー鬼蔵様がよくこう
申しておりましたの
『跡継ぎになれぬ負い目
からか、稀馬はまず我侭
を通さぬ子に育った』
『そんな息子が、どうしてもと
願ったことがふたつだけある』
ひとつは、丘山市で拾ったとか
いう氏素性の知れぬ娘をけして
詮索せずに、我が家のお手伝い
として雇って欲しい
あとのひとつが、島から出ては
都合が悪くなると出戻ってきて
いた〈前園りさ〉のひとり息子
の健友(けんゆう)をやはり当家
で引き取り、使ってやってくれ
とーー
……千代についてはあなたが
一歩も引かぬ構えだったこと
から、よほどの事情があると
汲み取り、心優しい鬼蔵様は
知らぬふりを貫いて下すった
ようですがーー
健に関しては因縁めいたもの
を感じて背筋に寒気が走った
そうですわ
……すでに亡くなっている彼
の母親とは生前に金の貸し
借りでかなりこじれたそう
ですから
……そのとおりです
後に事情を知り、親父には
大変申し訳なかったと悔い
ておりました
…………
しかし、家督を継ぐにあたり
私がやはり懸念しますのは、
人畜無害で素性の知れている
健ではなく得体の知れぬ千代
のほうでございました
……む
ですから、約束を反古にし、
はしたなくももう一度お頼み
申し上げます!
あの性悪娘のすべてを明らか
にするか天道家から追い出す
か、どちらかをお選び下さい
これは家長命令です!
鬼蔵様の遺したものたちを
末永く守っていくために、
後の憂いはあまさず断って
おきたいのです
あ……ちよちゃん
ーーん?
健ちゃんどした?
おなか減っちゃった?
お、おれ、ちよちゃん
待ってた…
ちよちゃんがはやい朝
に埋めてた鉄パイプ、
おれがちがうところに
もっとずっとふかぁく
埋めといた、から……
…………
健ちゃん! 今から
ふたりで岬行こっか
!? ねっ?
え? でも、
おしごと……
だいじょーぶ!
車回してくるから
玄関で待っててね