珍しくペッパーが静かだったので、ソルトはペッパーの方に顔を向けると、なぜか鉢の外に向かって変顔をしていた。

ソルト

……何やってるんですか?

別に知りたかったわけではないが、一度気づくと気になって仕方がなくなってしまったので一応聞いてみた。

ペッパー

何って。そりゃもちろん、ご主人様とにらめっこに決まってるでしょ

ソルトは今はじめて気がついた。ペッパーの目の前にご主人様がいたことに。

最近、ソルトはボーっとしてしまうことが多いのだが、まさかすぐそこにご主人様がいたことに気がつかないくらいぼんやりとしてしまっていたとは。ソルトは軽くショックを受けつつも、ペッパーがご主人様とにらめっこをしていたという話に集中することにした。

少女

……

ご主人様はしかめっ面をしているだけで、決して変顔をしているわけではないと思う。ご主人様のこの顔を変顔だと思ったペッパーは、相当ひどいやつだ。

ソルト

変顔じゃないでしょう

ペッパー

何言ってるの。どう見たって変顔でしょ

ソルト

……やっぱりひどいやつだ

本当にご主人様が好きなのだろうか。

ペッパー

ずっとこの顔で僕らを見てたから、きっとにらめっこがしたいんだろうなあって思って

「何か悩み事があるのかな?」ではなく「にらめっこがしたいんだな!」という考えにたどりつくペッパーの思考回路が理解できずにいるソルトは、もう何も聞かないことにした。

少女

あなたたちって、オスみたいな顔してるわよねー

突然ご主人様がつぶやいた。

ソルト

そりゃ、オスですから

そうソルトはツッコむが、ソルトのツッコミはご主人様には届かない。なぜなら、人間は魚の言葉が分からないから。もとの人魚の姿に戻ったら話せるのだろうか。とりあえず、ずっとメスだと思われているこっちの身にもなってほしい。

少女

ボーイッシュって感じなのかしら

ソルト

オスなんですってば

つくづくソルトは思っている。
人間に魚の言葉が通じればいいのに、と。

少女

でも、そうするとほかのお魚にオスと間違えられたりしないのかな

ソルト

……

ソルトはもうツッコまないことにした。

ペッパー

もうやめた! いつまでたっても決着がつかないんだもん

ソルト

ペッパーくん……。まだにらめっこしてたんですね

ペッパー

続きはまた今度ね

まだやるつもりなのか。

ソルトが呆れていると、突然コンコン、という乾いた音が部屋に響いた。

たびたび聞くが、いまだに慣れないこの音に、ペッパーとソルトはビクッと全身を震わせた。

この音が鳴ると、この部屋についている四角い板が開いて人間が部屋に入ってくる。

ペッパー

あの四角い板はなんのためについてるのかな

ソルト

分からないですが、人間は自分が生活する空間とそうではない空間を仕切るんですね。興味深いです

ソルトたちがまだ人魚だったときに暮らしていたところは、人間のように家がちゃんとあったわけではなくて、なんとなくいつもいたところに岩などを置いて生活していた。中には洞窟などで生活している人魚もいたが、ペッパーもソルトも海藻が密集している場所をならして暮らしていた。

ソルト

僕も人魚に戻ったら洞窟に移って、入り口を岩か何かで塞いじゃおうかな

ペッパー

えー! 気軽に入れなくなる!

ソルト

たまには一人になりたいんですよね

本来ソルトは一人でいるのが好きなのである。それなのに、この世にいるすべての生き物が大好きなペッパーは、まだ二人が人魚だったときから、時間さえあればずっとソルトにくっついていて、しかもペッパーが生活していたところは30センチくらいしか離れていないという、近すぎるお隣さんだった。つまり、ソルトがせっせと海藻をならして作った一人になれる空間のすぐ隣に、ペッパーは嬉々として同じような空間を作ったのだ。そして、今は同じ金魚鉢に入っているから常に一緒にいざるを得ないのだが、ソルトはそろそろ限界だった。

少年

……

板を開けて部屋に入ってきたのは、お日様のように明るいご主人様とは正反対の、クールな見た目でご主人様よりも少し年が上に見える少年だった。

ペッパー

お、お、男……!? 今までご主人様の部屋に男なんて入ってきたことなかったのに……!

ペッパー

浮気だあー!

ソルト

そもそも君たち恋人同士じゃないでしょう

ペッパーが泣きながら透明な壁を叩いている。ヒビが入ったりしたら困るので、ソルトは全力でペッパーを止めた。

ペッパー

ううう、ご主人様はあんな性格が悪そうな男のほうがいいわけ!?

ソルト

こら、失礼ですよ。初対面なのに

ペッパー

僕の方がずっとずーっとハンサムで性格も良くて賢くて、面白くて、あとすっごくかっこよくて、あと、あと……

ソルト

君が魅力的なのは分かりましたから、ほら、落ち着いて

ペッパー

本当? ソルトくんも僕がかっこよく見える?

ソルト

オレンジ色の魚に見えます

ペッパー

そうか、僕たち金魚になってるんだった……

部屋の中に入ってきたその少年は、ずんずんとご主人様に近づいていった。

少女

あっ!

少年の方を向いたご主人様は、彼を見るとパッと表情を明るくさせた。

ペッパー

なんで嬉しそうにするのご主人様!

そんなご主人様を見て、ペッパーは悔しそうに暴れまわっている。

少年

まなみ

ペッパー

え、いっ、今もしかして……

ソルト

名前を呼びましたね

ペッパーとソルトは、このときはじめてご主人様の名前を知った。

ペッパー

ご主人様、まなみっていうんだね……名前まで素敵だ……ちゃんと覚えた……

ペッパー

いやそれよりもっ!

ペッパー

なんであの男は馴れ馴れしくご主人様、いや、まなみさんの名前を呼ぶんだ! 今すぐ離れろ!

ソルト

落ち着いてくださいよ、まだ彼がご主人様とどんな関係なのか分からないんですから、そうやって早とちり……

ペッパー

恋人だよお! 恋人に決まってる! 見てよ、あんなに見つめ合っちゃって!

ソルト

しっかりと顔を見て会話しているだけでしょう

ペッパー

見るなーっ!

ソルト

うるさいですよ

みにくい嫉妬をしているペッパーは放っておいて、ソルトはご主人様たちの話に耳を傾けることにした。

少年

もうすぐお昼だけど、今日の昼ごはんは何がいい?

ペッパー

すでにまなみさんの胃袋を掴んでるの!?

少女

オムライス!

ペッパー

オムライスが何なのか知らないけど、きっととっても美味しいものなんだろうなあ

少年

また? 昨日も一昨日もオムライスだったじゃん

ペッパー

昨日も一昨日も手料理を披露したのか貴様ぁ!

ソルト

ペッパーくん、口が悪いですよ

ペッパー

だってだって、僕だってお料理できるのに! 美味しい海藻のサラダとか、美味しい魚だっていっぱい知ってるし……

ペッパー

待って僕たちって美味しいのかな?

ソルト

2人の会話に集中しなくていいんですか?

ペッパー

はっ! そうだった!

ソルトは一瞬生命の危機を感じた。

少女

いつもありがとうね。毎日いっぱい美味しいご飯を作ってくれて

ペッパー

まい……にち……いっぱい……

ソルト

…………

ペッパーの顔が、今まで見たこともないものすごく怖い表情へとみるみるうちに変わっていった。しかもギリギリと歯を鳴らしていた。もはやソルトはちょっとドン引きしている。

ペッパー

僕を差し置いて毎日毎日いちゃついてるの……!?

少年

いいんだよ、料理好きだし

ペッパー

僕は料理よりもまなみさんが好きだ! はいっ、僕の方がまなみさんに対する愛情が大きいので今すぐ僕にまなみさんを譲って!

ソルト

さっきから何を言ってるんですか

少女

私、お兄ちゃんが作るごはん好きだなあ

ソルト

へ?

ペッパー

お兄ちゃん?

ペッパーとソルトは、きょとんとして顔を見合わせた。

少年

はいはい、おだててもオムライスしか出ないぞ

少女

もー、本心だよー

ソルト

よかったですね、ペッパーくん。兄妹だったみたいですよ

ペッパー

なーんだ、お義兄さんだったのかあ!

ソルト

……気が早いですよ

少年

できたらまた呼びに来るから

少女

分かった! あ、ペッパーちゃんとソルトちゃんに挨拶して!

少年

じゃあね、ペッパー、ソルト

ソルト

さようなら

ペッパー

お義兄さん! まなみさんに似てとても綺麗な顔で笑うんですね! また会いに来てねー!

ソルト

…………

ソルトは、生まれて初めてこんなに華麗な掌返しを目にした。

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