人間界にやってきてからしばらく経ったが、なぜあの少女が二人の名前を知っているのかはまだ分からない。とりあえず二人は、彼女のことは「ご主人様」と呼ぶことにした。
人間界にやってきてからしばらく経ったが、なぜあの少女が二人の名前を知っているのかはまだ分からない。とりあえず二人は、彼女のことは「ご主人様」と呼ぶことにした。
ある日、ソルトは珍しくペッパーが静かだなと思ったら、なんと水面で口をパクパクさせていた。
……何やってるんですか
一応聞いてみた。
今日の分のご飯は、もう食べたじゃないですか
ご主人様を呼んでるんだ
ソルトの頭上に、はてなマークが浮かぶ。
ご主人様と話がしたくて
言葉、通じないじゃないですか
せめて、そばにいてくれるだけでもいいんだ
ペッパーの、どこか悲しそうな顔を見ても、ソルトはどうしたらいいのか分からなかった。
そばにいてくれたら、僕の想いもご主人様に届くかな?
ペッパーくんの想い……
ペッパーはいつも食べ物のことしか考えていないと、ソルトは思っていたが、やはりそれは、一目惚れしたご主人様への淡い想いなのだろうか。
ペッパーは、満面の笑みで言った。
もっと美味しいご飯が食べたいってこと
結局いつもの欲望に忠実なペッパーだった。ソルトはスッと目を細くする。
ものすごくどうでもいい想いですね
ソルトが言うと、ペッパーが両ヒレを頬にあて、口を大きく開けた。
なんで! ソルトくんは、すごく美味しいご飯とそうでもないご飯、どっちがいい?
唐突ですね。そりゃ、すごく美味しいご飯ですよ
そう答えた瞬間、ペッパーの目があり得ないくらいキラキラ輝きだした。
そうでしょ? だから、美味しいご飯に変えてもらおうよ!
え?
ときどき、ペッパーはとんでもないことを言い出すから、ソルトはついていけなくなる。
わざわざ変えてもらう必要ないですよ
ペッパーが食べ過ぎるせいで、いつもソルトの分がなくなるから変えても意味がないのだ。
そんなことより、どうしたら元の世界に戻れるか考え――
絶対にソルトくんを納得させてみせるから、覚悟しててよ!
……頑張れ?
それからペッパーは毎日のように、ソルトに美味しいご飯に変えた場合の利点を熱弁していたが、ソルトの心を揺るがすことは一度もなかった。
そんなある日。
ねえ、ソルトくん
ペッパーが、とても申し訳なさそうな顔でソルトに近づいてきた。ソルトは首をかしげ、嫌な予感がしつつも先をうながす。
水草壊しちゃった
どうしたら壊すんですか!?
美味しいと思ったんだもん……
ソルトは何ですかその理由、とつぶやきながら呆れ顔でその水草に目をやった。水草の葉のうちの一枚の先端が、少しだけ欠けていた。
あれ、ニセモノだって知ってますよね?
ペッパーはソルトから目をそらす。
知らなかったんですか……
ソルトは、だらりとヒレを垂らした。そしてペッパーの顎の力に感心しながら尋ねる。
食いちぎった欠片はどうしたんですか?
ちゃんと捨てたよ。硬いし、まずかったし
そんなに美味しいご飯が食べたかったのだろうか。そこまで食い意地を張っているとは思わなかったソルトは、しばらくうなってから言った。
……分かりました。美味しいご飯に変えてもらいましょう。これ以上水草をちぎられるのは嫌ですからね。あれ、ニセモノだから再生しないんですよ
その瞬間、ペッパーの目が輝きだし、「ひゃっほー!」と叫びながら金魚鉢中を凄まじい速さで泳ぎまわり始めた。そのせいで、金魚鉢内の水が大きく揺れる。
ペ、ペッパーくん、ちょっと落ち着いてくださいっ……酔ったみたいです……
えっ、ごめん!
慌てて謝ったあと、眉間にシワを寄せる。
なんで酔うの? 人魚なのに。……まあ、今は違うけど
年でしょうか。傷も治らないし
金魚鉢に入ったときにできたいまだに治らない傷を見て、ソルトは悲しそうな顔をすると、ペッパーはなぜか胸を張った。
僕みたいにたくさん食べないからだよ。ソルトくんはもっと食べたほうがいい
誰のせいだと思ってるんですか
ペッパーは首をかしげる。
君ですよ
そんな答えを想像していなかったのか、にっこりとした笑顔から、唇を突き出し目を見開くという変顔をした。しかし、すぐにもとの笑顔に戻すと言った。
デブ活中なんだ、僕
ペッパーいわく、太っていると女の子たちは、
ほかの男の子よりも強いからご飯を独り占めしているんだわ!
と思い込み、どこまでもついてきてくれるのだとか。
世界の中心になろうと思って。今やぽっちゃりがスタイリッシュな人魚のトレンドなんだよ
意味不明です
ひたすら食べることがポイントだよ
でしょうね
ほかに何があるというのだろう、とソルトは呆れた。
そういうことで、僕がソルトくんの分のご飯を食べても文句言わないでね
ペッパーがソルトの分のご飯を食べてしまうのは、この先もまだまだ続きそうだ。